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静かな戦士たち

第1回 リチャード・内藤さん

1942年2月、日本軍が真珠湾を攻撃した2ヶ月後、故ルーズベルト大統領の発令9066のもと、シアトル市近辺の11万人の日本人、日系人が収容所に送られた。その3分の2はアメリカ生まれの二世達。彼らの生き様は2つに分かれた。「アメリカに忠誠を誓いますか」の問いに「NO」と答えた「No No Boys」と、志願兵「442部隊(日系人のみで編成された部隊)」。高齢になりようやく閉ざしていた口を開いた二世の戦士達。戦争を、体を張って通り抜けて来た彼らだからこそ平和を願う気持ちは大きい。その声をシリーズでお届けする。

* * * * *

「僕はヒーローじゃないから」と奥ゆかしく語る内藤さんは、91才の高齢とは思えない程しっかりした足取りで、10センチもある分厚いスクラップブックを持ってきた。太平洋戦争が始まってからの個人的体験の記録が詰まっている、貴重な資料だ。

(シアトル郊外の)ケント市に生まれ育った内藤さんが農作物の肥料を扱う店を経営していた頃、戦争が始まった。ピュアラップからアイダホ州ミネドカ(*)へと収容されるが、白人の妻とは離れ離れ。アメリカでも少し内地に入ると収容所の外に出られる為、アイダホ州やワイオミング州の農作物の借り入れや倉庫係などの仕事に進んで協力した。その内日本人の知り合いがスポンサーになり、2ヵ月ほど車を磨く仕事をした。「このままじゃダメだと思いましたね。こんな仕事をするか、インデアンみたいに(収容所に)閉じ込められる。それで『アメリカ人として生きなくては』と、軍隊に志願したんです」と当時の心境を語る。

 軍隊では、白人と同じ様に扱われた。「黒人は可哀想でしたよ。水飲み場からトイレ、街に行くバス、映画館など白人席と黒人席が分かれていて、僕達は白人のほうでしたから」。当時、奴隷制度を廃止したはずのメイソン・ディクソン境界線の北でも、まだ黒人に対して待遇が違っていたからだ。「ハワイから来た日系人はよく白人とけんかしてました。『ジャップ』って呼ばれるのが嫌でね。僕達、本土の日系人はいつもそう呼ばれてたから慣れてたんですよ」と、白人が少数のハワイでは状況が違っていたと説明。「ただ、トレーニングはきつかったなぁ。31才だったから」。周りは18才から21才。若い兵隊達は終日のトレーニングにも疲れを見せず、夜は映画を見に街へ出て行く者が多かった。

 そして43年9月15日。日系人のみで編成した442部隊は戦艦に乗り組み、イタリアに向かった。敵の戦艦が攻めてきていた為、ジグザグに進みながら大西洋横断に26日間もかかった。上陸した初めの2ヵ所は難なく通過できた。「これを見てください」と内藤さんはいきなりジーンズの裾をめくり、少し変形してしまった右足の脛を見せる。「ここにスチールがまだ入っていて、ほら、触ると分かるんですよ」。ピサの近くの都市で爆撃が始まった時だ。ドイツ軍のマシーンガンが直撃、脛は粉砕してしまう。止血をし救助を待ったが、敵の攻めが強くなかなか助けが来ない。「7時間か9時間そこに寝ていましたね。朝から夕方暗くなるまで、助けに来られなかったんですよ。フーっと、記憶が薄くなった頃名前を呼ばれて、天国から呼ばれているかと思いました」と、60年前の記憶もまだ生々しい。

そして救護戦艦で帰国。「ニューヨークに近づいて来た時誰かが『ほら、ディック、自由の女神が見えるぞ』って僕を起こすんですよ。でも、肝炎を併発していて、もうろうとしていて起き上がれませんでした」

その後、内藤さんはスポケン市の病院に移される。両足ギブスだが、待望のワシントン州帰還。だがそこで待っていたのは同志からの冷たい仕打ちだった。「他の負傷兵達が『ジャップと一緒はいやだ。ジャップは帰れ』って」。彼らは太平洋で日本軍と戦って負傷した兵士たちだった。機知に富んだ看護婦の「見てご覧なさい。ディックはどこの国のユニフォームを着ているの?日本の?それともアメリカのなの?」の言葉で全てが収まった。そしてそこで親友になった一人が復員軍人のメンバー(VFW 51)になる事を薦めた。場所は違うが同じ戦争で負傷した仲間たちである。ところがVFWからは拒否の手紙が届いた。「ごくわずかだがメンバーが反対した為、申請を却下した。理由は祖先が日本人である為」

先述のスクラップブックにはこの時のVFW宛の手紙のコピーが保管されている。

「12ヵ月前の暑い日、ドイツ軍に右足を粉々にされイタリアの戦場で横たわっているとき、もう二度とアメリカの土は踏む事がないと思いました。今日、祖国アメリカの土地で、2度目の負傷をしました。今度は人種偏見という武器で。あの時、祖国の為に、祖国の人々の為に戦い負傷して横たわっている時、帰還して同胞からこのように拒まれることなど、少しも考えられませんでした」。

内藤さんの手紙は、憤りは感じるものの、報復などは考えていない旨を伝えている。そして宗教や人種に関係なく、アメリカ兵としてやるべき事をやり終えた充実感と心の平和を実感していることも書かれている。だが、今回自分を拒否したという事が人間の価値が肌の色、頭の形、出生地又は宗教で決まるなら、アメリカの民主主義は危ぶまれ、これこそが我々が戦っているファッシズムに他ならない。そして、今日の日系人への差別は明日のユダヤ人、カトリック信者、ヨーロッパ系アメリカ人等も同じ道を歩む事の危機を訴えている。今回の事は自分の為だけではなく、アメリカの民主主義の名のもとに考え直して欲しい。そうでないと、この戦争は白人対有色人種の対決の戦争ではないかという間違った宣伝をしてしまう事に成りかねない、と結んでいる。

VFWから返事は来なかった。50年以上経ち、1997年、日系人もやっとVFWの仲間入りができることになった。「その間に、訴訟を起こすことは考えなかったのですか」の問いに、「怒ってね、そうする人もいるけれど、戦いは戦いを招くだけだから。それじゃぁいつまで経ってもピース(平和な世界と心の平和)は来ないよ」と静かに答えた。

内藤さんの人間としての心の広さを表すもう一つのエピソードがある。スポケンの病院に入院中、内藤さんが日本語が分かると知って、牧師が訪ねてきた。「18才の日本人の捕虜がいるから通訳をしてほしい」と。日本軍はアラスカに上陸したが思うように進めず、帰還したらしい。「若い青年でした。僕が来て喜んでいましたよ。何をしゃべったかは、もう覚えていませんけどね。彼も国の為に一生懸命戦っていたのでしょう。気の毒でした」。笑った顔が幼なかったと言う。

スポケン市からさらにフォート・ルイスのマディガン病院に移され、退院した後終戦を迎える。戦後はケント市に戻り、シアトル市ダウンタウン四番街とメイン街の角に宝石屋を始める。保険が取れなかったり三度も店が強奪されたり、内藤さんの場合も多分にもれず、復興は収容所から帰還した日系人には誰にとっても同じ様に試練の道だった。だが、レクリェーションもあった。当時の新聞、「クーリエ」のベースボール・クラブで楽しんだ。「そこで会った『NO NO BOYS』に対して、お互いに気持ちのぶつかりはなかったのか」の問いに、「みんな仲良く楽しくやってたな。彼らも可哀想だった。帰米二世のいる家庭では(家族の中でも意見が違ったりして)一世の両親が大変な思いで家族をまとめようとしたんですよ。『NO NO BOYS』は『アメリカが僕達の自由を奪ったんだから、そのアメリカの国の為に何故僕らは戦わなければならないのだ』って。この戦争が家族をばらばらにしてしまった」と回顧する。そして付け加えた。「戦争から年月が経って、ようやく分かったんですよ。『NO NO BOYS』の気持ちが。彼らも僕達と同じ様に、人間の権利(Rights)に対して戦っていたんですね。違ったやり方でね」と。

76年にリタイヤしてからは現在の妻、メアリーさんや友達と旅行に行くのが楽しみだ。「65歳になったら日本に行こう」と決めていた内藤さんは77年、始めての日本で逆差別を体験し、あまりいい印象を受けなかった。83年の2度目の日本ではメアリーさんや友人とオーストラリアから台湾、香港、ハワイと回り楽しい時を過ごした。その後はもっぱらクルーズに凝っている。「年寄りは動くのがえらい(キツイ)から。クルーズなら家にいるみたいなもんだから」と語る内藤さんは、今月のハワイで戦友との再会を心待ちにしている。

リチャード(ディック)内藤さんと、妻のメアリーさん(2003年3月)

「最後に、若者たちに一言」と内藤さんは付け加えた。彼ら442部隊の話はアメリカでもあまり知られていない。カリフォルニア州では学校の歴史の時間で必須の授業のカリキュラムに加えられた。「日本人、日系人が固まる事はいい事でもある。文化を守る上でね。でも、他の人種と交わる事も必要なんです。この戦争がもたらした良い結果があるとしたら、それは日系人がばらばらになり、今は50州どこでも見かけることでしょう」と、お互いを知り合う努力をし、皆仲良く生きて欲しいと言うのが、内藤さんの願いだ。「受け入れる事が平和への道」は取りも直さず平和を愛する内藤さんの、これまで91年の人生が物語っている。

注:* ミネドカ:当時の一世、二世の発音のかな書き。現在の表記は「ミニドカ」だが、「ミネドカ」は単なる地名ではなく「収容所」を指し、彼らの特別な感情がこもっている。

 

*本稿は、『北米報知』(2020年11月16日)からの転載です。

© 2003 Mikiko Hatch-Amagai

442nd camps concentration camps italy minidoka Richard Naito veterans World War II

このシリーズについて

1942年2月、日本軍が真珠湾を攻撃した2ヶ月後、故ルーズベルト大統領の発令9066のもと、約12万人の日本人、日系人が収容所に送られた。その3分の2はアメリカ生まれの二世達。彼らの生き様は主に2つに分かれた。「アメリカに忠誠を誓いますか」の問いに「NO」と答えた「ノーノー・ボーイ」と、強制収容所から志願または徴兵され「442部隊(日系人のみで編成された部隊)」または「MIS(米国陸軍情報部)」でアメリカ軍へ貢献した若者たちだ。高齢になりようやく閉ざしていた口を開いた二世の戦士達。戦争を、体を張って通り抜けて来た彼らだからこそ平和を願う気持ちは大きい。その声を13回に分けてシリーズでお届けする。

*このシリーズは、2003年に当時はまだ健在だった二世退役軍人の方々から生の声をインタビューした記事として『北米報知』に掲載されたもので、2020年に当時の記事に編集を入れずにそのまま『北米報知』に再掲載されたものを転載したものです。