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アメリカ黒人史との関わりでたどる、日系アメリカ人の歴史—その1

「ブラック・ライブズ・マター(Black Lives Matter/黒人の命だって大切だ)」。今、起きているこの運動をどう考えているでしょうか。アメリカに暮らす日本人にもさまざまな人がいて、黒人*や白人や日系以外のアジア系の血が混じった人や、他の人種やエスニックの人と結婚した人もいます。その立場や環境によって、この「ブラック・ライブズ・マター」は自分に関係のあることとして、もしくは自分からは遠いもののようにも感じられていると想像します。

私たち日本人は、今、アメリカで命の危険を覚えるような人種差別にさらされることはまずありません。新型コロナウイルスの流行と共にアジア系への人種差別が増えていることから差別的な言動に出くわすこともありますが、基本的には法と秩序は私たちを守ってくれるもののように感じられます。いつから、どうやって、安全や公平さが私たちにとって当然のものになったのでしょうか。たどってみると、それはアメリカ黒人史と関わるところが大きくありました。

移民当初から現在に至るまで、同じ有色人種である黒人に助けられる一方で、マイノリティーであり差別の対象でもあった日本人や日系人は、時に黒人を差別する側に回ることもありました。しかし、また別の時には互いの中にある人種差別的意識を超えて友情や連帯を育むこともあったのです。文化や習慣が異なる人々が理解し合うのは簡単ではありませんが、私たちはそうした複雑な社会に生きています。その歴史を紐解き、どのように今にたどり着いたのかを知ることで、ここからどこに進もうとしているのか、未来の地図も描けるかもしれません。


白人の街、有色人種の街

日本からアメリカへの移民が本格化したのは1880年代以降のこと。1882年に「排華移民法」が成立し、中国からの移民が禁止されたために、中国人に替わる労働力として日本人労働者が求められることになりました。しかし安価な労働力としては必要とされても、日本人移民はアメリカ社会において歓迎されたわけではありませんでした。日本人や中国人らアジア人は、白人を中心とする労働組合への加入を拒否され、低賃金や劣悪な労働条件で働くことを強いられたほか、教育や医療を受けられない、または制限されることもしばしばありました。

そして1913年にはカリフォルニア州で「外国人土地法」が制定され、アメリカへの帰化が認められない「帰化不能外国人」の土地所有が事実上禁止されることになります(以後、オレゴン州、ワシントン州など14州でも同様の法律が成立)。当時、帰化が認められていたのは「白人の自由市民、アフリカ生まれおよびその子孫の自由市民」のみ。白人でも黒人でもない日本人は、アメリカ人になることもできなければ、選挙権もなく、不動産を購入することもできなかったのです。

クリステン・ハヤシさん

「加えて、多くの不動産登記簿には人種制限条項が設けられていましたので、たとえ生まれながらにアメリカ人である子どもの二世の名義で購入しようとしても、賃貸をしようとしても制限がありました」。そう話すのは、ロサンゼルスにある全米日系人博物館のコレクション管理部門のディレクターで、キュレーターのクリステン・ハヤシさんです。

「ロサンゼルスは20世紀初頭に発展していきましたが、当時の社会的有力者らはこの街を『白人の街』として保ちたいと考えていました。そこで『特定警戒地区』を設けて有色人種が銀行からローンを借りられないようにしたり、不動産登記簿に『白人以外の購入不可/居住不可』などと人種制限条項を設けたりすることによって、有色人種が住める区域を制限し、自分たち白人の街に有色人種が混じってこないようにしました。その結果として、日系人はリトルトーキョーやその近くのボイルハイツなどに、同じように差別の対象となっていた黒人、メキシコ系、ユダヤ系と共に暮らしていました」。

人種を超えた友情と同じ有色人種としての共闘

異なる文化や言語を使う人種やエスニックグループが混在する場所では、偏見や誤解から緊張感が走ることもありました。「しかし」とクリステンは続けます。「たとえ先入観を持っていても、近くで暮らして互いを知れば、自分が持っていた考えが偏見であると気付き、違いを超えて共通点を見つけることもあります。そうして生まれた友情の例が、当館のモリー・ウィルソン・マーフィー・コレクションに見てとれます」。

リトルトーキョーの東南に位置するボイルハイツで暮らしていた黒人の少女のモリーは、近隣に暮らす日系二世らと友情を育み、それは日系人が強制収容所に送られた後も変わることはありませんでした。モリーは彼女たちと手紙をやりとりし、時に収容所の中の友人たちが必要とする物を送りました。モリー・ウィルソン・マーフィー・コレクションは彼女が受け取った手紙と、日系人の友人らの写真で構成されています。

モリー・ウィルソンのスクラップブック。モリーと友人のマリー・ムラカミの写真が貼られている。(Courtesy of the Japanese American National Museum. Gift of Mollie Wilson Murphy)

「もう一つの例がサカモト・ササノ・コレクションにも見られます。チヨコ・サカモトはアジア系アメリカ人女性としてカリフォルニア州で初めて弁護士になった二世です。戦前、チヨコはリトルトーキョーで働き、西南地区に暮らしていて、そこで黒人弁護士のヒュー・マクベスと知り合います」。

ハーバード法科大学院を修了した後、1913年にロサンゼルスに移ったヒューは、人種差別に対してさまざまな訴訟を起こし、日系人コミュニティーが直面した排斥にも声を上げた一人でした。「人種に基づく強制収容は憲法違反であり差別だ」と裁判を起こし、残念ながらその裁判は敗訴するのですが、彼は強制収容所を管轄していた陸軍の戦時転住局や当時のルーズベルト大統領に日系人を擁護する意見書を送り続けたのです。

「戦時中、コロラドのアマチ収容所に送られ、そこで収容者のために法律相談を行っていたチヨコですが、収容所から出てロサンゼルスに戻った後、人種差別のために就職先が見つけられずに苦労します。その時ヒューは彼女を同僚として彼の事務所に迎えたのです」。

ヒューと同じく、黒人の弁護士でジャーナリストのローラン・ミラーも日系人の強制収容に異議を唱えたほか、広くマイノリティーの公民権のために闘いました。ローランが後にオーナーとなる黒人の新聞『カリフォルニア・イーグル(The California Eagle)』の当時の編集長シャーロッタ・バスも日系人の強制収容は公民権の侵害だとして何度も批判記事を掲載しました。また同紙は日系人との連帯を示すため、当時多くのメディアが使っていた日系人・日本人に対する蔑称である「ジャップ」という言葉の使用を止めたのです。

別の黒人の新聞『ロサンゼルス・トリビューン(The Los Angeles Tribune)』は、強制収容につながった大統領令9066号の発令直後、新聞そのものの方針として強制収容に抗議する姿勢を取りました。同紙の記者で活動家であったエルナ・ハリスはその2年後にこう書いています。「この問題は人種に基づくものであり、外見上『有色人種』とみなされる者全てに起こりうることなのです」。

クリステンはこう話します。「日系人に起きたことは、黒人が経験してきた差別と共通のものでした。これは小説ですが、チェスター・ハイムズの『わめきだしたら放してやれ(If He Hollers Let Him Go)』にロサンゼルスの造船所で働く黒人の青年が、『日系人のように突然拘束され連行されるのではないか』と恐怖で不眠に悩まされるシーンが出てきます。これはいつ彼らに起こってもおかしくないことだったのです。自分たちも人種差別に苦しめられていた黒人が、日系人のために立ち上がるのは簡単ではありませんでしたが、ヒューやローランらはそれでも声を上げたのです」。

その2 >>

*注: アメリカでは「African American (アフリカ系アメリカ人)」とルーツを重複する表現もよく使われますが、アフリカ系以外の黒人をも包括し、また色を表す小文字で形容詞の「black」ではなく、Bが大文字で固有名詞の「Black」を使う動きが広がっています。ここでは、それを踏まえ、「Black」の訳語としての「黒人」を使っています。

 

* 本稿は、『ライトハウス』(ロサンゼルス版2020年8月1日号、サンディエゴ版2020年8月号、シアトル/ポートランド版8月号)からの転載です。

 

© 2020 Masako Miki / Lighthouse

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