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戦前のスポーツ大好き二世たちの青春: 「今」を映した宮西正三のカメラアイ — その2

フジ・スキークラブが自分たちで建てたグラウス山のロッジの前で。1列目左から:キタガワ、オザワ、スギモト、キド、イノウエ。2列目左から:ヤマムラ、不明、林、ヒライ、ヨシダ、ヤマモト。3列目左から: オオホリ、マイカワ、宮西、マツイ。

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「テニング」と名乗った日本人

竹内十次郎

「テニングさん」と呼ばれているのは、竹内十次郎(1869〜1937)という三重県桑名市出身で海軍主計学校を首席で卒業し、英国駐在大使館付の武官として1898年にロンドンに赴任した元海軍少佐のことだ。日本海軍が日露戦争に備えて英国で軍艦建造を急いでいた時、使途不明金が発覚した。軍法会議において、33万円(今に換算して約30億円)の欠損を生じさせたとして、竹内は懲役11年の判決を受けた。1904年にカナダへ亡命した竹内は、名前をJusan Tenningと変えた。「Jusan」とは「十次郎」の「十さん」だという。

工藤美代子は自著「晩香波の愛」で竹内を論じている。ロンドンの自宅から失踪したのは、友人のために軍費から運用していた金が焦げ付き、その責任を全部負わされたためだという。

一方、佐木隆三著「波に夕日の影もなく」によると、使途不明金は日本の海軍省の直属の上官のもとに送られ、おそらくは賄賂として政治家に渡されていたらしい。ところが、それが発覚しそうになり、上官は変死。代わりに竹内が疑われ、使途不明金事件の全責任を追う羽目になったのだという。彼はカナダに逃れ、ウィニペグに潜り込んで農園を経営した。

1928年、彼はバンクーバーに出てきて日系メディアや日本人漁者組合で働いた。彼の英語能力と政治に感する見識は地元のジャーナリストたちに高く評価された。特に日刊「民衆」社長の鈴木悦は竹内の過去の影にいたく同情したらしい。だが、その鈴木悦が1933年に急死すると竹内は激しく落ち込み酒に溺れたという。最期はみじめなものだったようだ。林林太郎はその著「黒潮の涯に」で「呑まさねば仕事をしない、呑めば仕事にならない男」と呆れている。

この間、元海軍少佐・竹内十次郎は日本に戻って名誉を回復すべく必死に帰国を試みていた。だが、その最後の望みもかつての上官が「そんな人間は知らぬ存ぜぬ」と保身に回って潰えたのである。竹内の落胆は大きかった。1937年、バンクーバーの病院で息を引き取った。竹内十次郎は「すさまじきもは宮仕え」という言葉を残して逝った。7人の子沢山だったというが、うち5人が娘だった。前回も掲載した下記の写真に写る女性がその一人で、「フジスキークラブの会員でした」と宮西さんは言う。

ロッジ入り口に立つテニングさんの娘


バラード入江のカッパたち

「小学校の夏の楽しみはね、琵琶湖で泳ぐことでした」と宮西さん。1910年代、彼は磯入江小学校の前の湖岸から村の端まで泳いで戻ってくる4キロの距離を競い合った。高等小学校を終え、15歳でカナダに戻ってきた宮西少年はパウルス通りで鍋や台所用品、瀬戸物から大工道具まで扱う秋山金物店に就職し、そこの店員として1937年まで10年間勤めた。

1933年、遠泳大会で泳ぐ宮西正三(当時21歳)。

1932年、20歳の時、宮西さんは初めてノースバンクーバーからヘイスティングス・パークの海岸までの8キロ遠泳大会に出場した。取引先の瀬戸物卸問屋に遠泳の得意な白人がいて誘われた。「ユーも泳ぐんだったら一緒に出るかということになって…」。100名ほどの出場者の中、日系人は宮西さんだけだった。「もちろん、全コースを泳ぎ切りましたよ」。

翌年の遠泳コースはさらにきつかった。コースは潮が入ってくる河口を横切るもので、最初の2マイルは三角波が外海に広がり、非常に泳ぎにくい難所を含んでいた。「その時、ボートを漕いでヘルプしてくれたのが、語学校卒業生の『北斗会』の二世たち5、6人でした」。1932年の「学友会」の記念写真がある。20歳の宮西正三さんが最前列の右端に小さく写っていた。

1932年8月14日、「学友会」記念写真。最前列右端に宮西さん(当時20歳)。


二つの祖国に引き裂かれて

1937年の日本訪問先で野田為夫(軍服)と友人・小林勘三郎。

1937年、仕事を辞し友人・小林勘三郎と日本へ向かった。前年に召集されて平壌第77連隊にいる親友の野田為雄(和歌山県三尾村出身)に会いたかったからだ。野田はバンクーバー朝日軍の投手だった。投手「ケン・ノダ」として1933年の選手名簿に載っている。

ところが、7月7日、北京で盧溝橋事件が発生、慌てて帰り支度をしてカナダへ向かった。「幸いカナダ生まれの出生証明を持っていたので難を逃れました」。一方、刎頚の友の野田為雄はその後に続く日中戦争で戦死した。

ところが、その後、日本町の合同教会で地元の退役軍人会が上映したニュース映画の中に、宮西さんは軍刀をもった野田為雄伍長の勇姿を発見したのである。「為雄の母親が形見としてそのフィルムを買い取りました」という。

同年夏、日本から戻った宮西さんは、バンクーバー島の前川魚店経営の牡蠣養殖場で数年働いた。その後、父の友人で同じ滋賀県出身者の娘・田中トシさんと1941年4月に結婚した。真珠湾攻撃が起きた時、妻トシは妊娠しており、1942年8月、バンクーバーで長女アケミ•ドーリーンを出産後、宮西家はスローカンのベイファーム収容所に移動。1945年、次女サチコ・シャーリーがスローカンの病院で生まれた。

ベイファーム・スローカン収容所・宮西家はここに1942年から1946年に日本に送還されるまで生活していた。

戦後、日系カナダ人はカナダ東部で再定住するか、敗戦で荒廃した日本に向かうかという選択を迫られた。宮西家があえて日本へ向かったのは、「郷里の滋賀県米原町に祖父がおり、住居と農地があったから」だと次女サチコ・シャーリー(74)さんはいう。食糧難の最中にあって農家だけは安定していた。だが、「畑仕事などしたことのない母は大変だったろうと思う」と付け加えた。

1946年8月2日、米軍がチャーターした軍用貨物船General M. C. Meigs号で総勢1377名の日系人が浦賀に到着。シャーリーはまだ生後10カ月だった。正三は大津の進駐軍キャンプに職を見つけた。

10年後にキャンプが閉鎖された後、宮西家は当初の予定どおりカナダへ戻ることにした。

「死んだ野田為雄の母親から、カナダに戻って来るんだったら息子と思って迎えたいと言われましてね…」。


鮭が川を遡上するように

1956年、正三は渡加前に三尾村を訪れて、親友・野田為雄の墓に別れの挨拶をするのを忘れなかった。そして、オンタリオ州のマッシュルーム農園に職を得て再度カナダの地を踏んだ。1959年、残りの家族全員も渡加してきた。シャーリーによると、「家族全員がいずれはカナダに戻るつもりで市民権を破棄せず留保していた」という。長女ドリーン(故人)は17歳、サチコ・シャーリーは13歳、長男マサヒサは7歳だった。末っ子のロンは翌1960年にトロントで生まれている。

シャーリーによると、「カナダへ来て6学年に転入してからの1年間近く、教頭先生が早朝に英語の特別指導をしてくれた」という。その甲斐あってか、彼女も長男マサヒサもカナダへの適応にはなんら問題はなかったようだ。「当時16歳だった姉アケミ・ドリーンが異文化適応の点では一番辛かったのかもしれない」とシャーリーはいう。トロントに居を構え、宮西正三さんは引退までノースヨーク教育局で学校メンテナンスの仕事に就いた。

故・宮西正三(1912〜2006)さんは、生涯にわたり日本とカナダを5往復したことになる。カナダで生まれ、日本で教育を受け、再び15歳でバンクーバーに戻った。さらに、戦後の1946年、家族で日本へ向かい、1956年に44歳でカナダに戻って来た。家族のうち4人はカナダ生まれである。宮西家は、鮭が生まれた川へ戻るように意識下の記憶の糸にたぐり寄せられた「帰加二世」一家だったのだろう。

 

* この日本語記事の初版は『日系ボイス』日本語面・1991年7/8月合併号に掲載された。2019年、宮西家の末っ子ロンの協力により筆者・田中が初版記事に加筆して『JCCAブルテン』日本語面に4回シリーズで掲載された。今回は宮西家次女シャーリーのコメントや新たに発見された写真も加えて全面的に書き直した。写真は宮西家提供による。

 

© 2001 Yusuke Tanaka

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