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青年海外協力隊員から陶彫作家、モジお茶屋敷へ — その2

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海外協力隊の後、中南米を放浪してブラジルへ

中谷さんは1943年5月23日に大阪府大阪市で、5人男兄弟の4番目として生まれた。京都学芸大学(現教育大学)美術科を卒業し、商業施設の展示施工をする日展で働くも、自分のデザインがクライアントの注文によって変更させられる現実に嫌気がさし、1年で退職。

たまたま京都近代美術館でやっていた近代陶芸展を見て、これだと直感し、京都の鋳込み工場で働きながら陶芸工房を見学して回り、陶芸家の叶光夫に心酔して2年間師事する。「焼き物の基本をすべてそこで習った」と振り返る。陶芸の里として知られていた福岡県小石原地区の生活雑器工房でも1年間下働きをし、ロクロの使い方を憶えたという。

「就職して実家を出て、しがらみから出たいという気持ちが強かった」ので1971年から2年間、JICA青年海外協力隊に参加してエルサルバドルで陶芸指導をした。同協力隊は1965年に発足して現在も続く制度。指導する学校が休みの期間に近隣の中米諸国、ホンジュラス、グアテマラ、メキシコなどの古代マヤ文明遺跡を中心に旅行して回った。

どこか中米古代遺跡をイメージさせる初期の作品(1979年)

「特にグアテマラのティカル遺跡に感動した。高さ65メートルのピラミッドの上まで登ると、周りを一望できる。360度、原始林なんだ」とトツトツとしゃべる。そうして見て回った中米の遺跡や発掘された道具類の心象が強く、中谷さんの初期の作品に色濃く影響を残している。

本来なら協力隊期間が終わったら帰国しなければならないが、そのまま2年ほど中南米を放浪し、ブラジルへ。途中ペルーのリマで、アンデス文明の貴重な史料が展示されている天野博物館を訪ねた。創立者の天野芳太郎が存命で、陶芸家として身を立てることについて相談に乗ってくれた。「それならブラジルへ行ったらいい。あそこは人情が深いコミュニティがある」と推薦してくれた。


旅行で来て、体当たりで永住ビザを取得

普通の戦後移民なら、最初から移住を意図してやってくる。だが中谷さんは違う。1974年、中谷さんは旅行の延長でやってきて、何の身寄りもないまま居ついた。もちろん永住ビザもない。

「当時は観光ビザから永住ビザに切り替えることができた。でも安定した収入があることを証明するための勤務先が必要とされた。いくつか日系企業を回って頼んだが、企業で働くこと自体に永住ビザが必要だと断られた」。でも、いったん気に入ったら簡単には諦めないのが、中谷さんだ。

たまたまSENAI(工業実習サービス機関)の陶芸教室の教師が欠員しているという噂を聞き、パウリスタ大通りの本部に出向いて「雇ってくれないか」と直談判した。応対したのがドイツ系子孫の責任者で、当時ポ語もまともにしゃべれなかった中谷さんを「ブラジルは移民大国だから」と快く雇用してくれ、永住ビザの申請まで手伝ってくれた。エルサルバドル仕込みのスペイン語で指導した。

でも1年で辞めて、粘土が取れる町として有名だったサンシモンで自分の工房を始めた。そこで最初に作った作品は、教会とその前に立つ十字架というブラジルの田舎町の典型的な光景だった。
 だが近くに大都市がなくて作品が売れない現実にぶち当たり、サンパウロ市の近くに住まないとダメだと考えて探した。イビウナの前田農場で空き家があると言われて2年間そこでやっているうちに、竹中商会の農業技師・北方邦雄さんに知り合い、彼がモジ市コクエラに持っていた土地を好条件で売ってくれた。「私がブラジルで尊敬する人物の一人です」。1978年に移り、今もそこにアトリエを構える。

北方邦雄さんは竹中商会退職後、汎ヅットラ花卉生産者協会の荒木克弥会長(当時)に口説き落とされてアルジャーに移り、農業指導に貢献した人物。アルジャーの花祭り会場には、彼の俳句「愛と美に生きるよろこび花まつり」の句碑が立っている。

発想の源泉が古代文明から有機体へ

陶芸という手法でしか作れないフォルム(形態)を追求した結果、辿りついた有機的な作品(1986年)

中谷さんは最初、中南米の古代文明からインスピレーションを得た作品が多かったが、ブラジル自体の影響を受けて、有機的なデザインに変わっていった。まるでサンゴ礁か脳味噌のような複雑に入り組んだ形だ。

なぜこの形になったかを問われて、《陶芸でしかできない造形を追求したかったから。現在の文明生活の中で失われた有機的、生態系的、原始的な何かを、陶芸や釉薬がもつ可能性を最大限に発揮できる形を模索したらこうなった》(作品集129P)と応えている。

「実家の母からは日本に帰ってきて、敷地内で陶芸をやったらどうだと何度も言われました」。実家の土地が広く、アトリエを作る場所は十分にあったようだが、中谷さんは断った。「日本に住んでいたら、全然別の作品になっていた。自分が作っているものが、日本の一流の焼き物に比べて、どの程度のものか分からない。でも対抗したいという意識は常にある。ブラジルに住んでいる感覚、それが有機的なデザインに反映されていると思う」。

ブラジル国内を中心に日本でも個展を開き、あちこちの陶芸展に出品を重ねた。1980年にはヨーロッパ陶芸の中心地の一つ、イタリアのファエンサで開催されている国際陶芸展に出品して「大統領章」に輝いている。

1984年に文協で第1回陶芸展を開催し、陶芸委員会の委員長に就任、そこから5年間も務めた。そんな脂がのりきった時期に始めたのが、1996年からのカザロン修復だった。


修復されたカザロン・ド・シャ(お茶屋敷)

中谷さんは「カザロン修復を呼びかけた時、『そんなことして何になる?』『どうせできっこない』とあちこちで言われた」と振り返る。一文にもならないカザロン修復に関わろうと決めた理由は、「日本文化を残そうとか、文化的価値があるからといった大義名分ではなく、手仕事をする者に共通する感性を建物から感じ取れ、愛着が沸いたからだ」という。

「入口周辺の瓦の曲線とか、自然な枝ぶりをそのまま組み込んで、建築に生かした内装などに温かさがある。大工と陶芸家には手仕事としての共通点がある。意味があるとかじゃなくて、細かいところまで気を使って、キレイなものを仕上げる。やることは大工も焼き物も一緒」とひと言、ひと言、考えながらしゃべる。そのしゃべり方ゆえに、独特の説得力が生まれる。

修復されたカザロン・ド・シャ(お茶屋敷)

芸術へのこだわりと同じ情熱がカザロン修復に注ぎ込まれた。モノという形のある作品でなく、「行為」としての芸術だ。あの修復事業自体が彼の芸術作品だと本を見ながら思った。

2017年にサンパウロ連邦大学修士課程にいたジョバンナ・デラグラシアさんが中谷さんの業績を論文としてまとめた。それを読み、「これを元に本にしよう」と思いついたという。PROAC(サンパウロ州文化免税事業)に申請したら許可され、協賛企業を探し、本書出版に至った。

「去年(2018年)3月から初めて、ようやく完成した」という中谷さん。本の刊行記念パーティは、昨年10月カザロンで行った。


Enock Sacramento, Giovana Delagracia. AKINORI NAKATANI sua obra e sua vida. (40レアル)

 

* 本稿は、「ニッケイ新聞」(2019年10月8日付)からの転載です。

 

© 2019 Masayuki Fukasawa / Nikkey Shimbun

Akinori Nakatani artist Brazil Casarão do Chá ceramist Mogi tea