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シアトル短歌会100周年を経て知る、シアトル日本文学の歴史

 

シアトル短歌会は、「華陽会」として兵庫県西宮市出身の田中葦城氏を中心に1919年に発足した。シアトルは「文化的移民地」と呼ばれたほど、日系移民による文運があった。1906年、最初の文学グループとなる「沙香会」(俳句)が結成されると、「文学会」(文学、1909年発足)、「コースト会」(短歌、1910年発足)などが次々と誕生。華陽会もその流れで発足した会のひとつのようだ。

夢を描いてアメリカへやって来た青年たちが、移民生活の厳しい現実にさらされる中で、文学に精神的な潤いを求めた。同じ境遇にある若者らが、誰かの寄宿部屋や日本料理屋に集まって文学を論じ合う。やがて『北米時事』(姉妹紙『北米報知』の前身)などの邦字新聞が作品の掲載を始め、そうした集まりは文学会としての形を成していった。後に当時の文学青年たちを取材した伊藤一男氏は『続・北米百年桜』でこう記している。

「ヤキマの平原で藷掘りをしながら、あるいはレストランで皿洗いをしながら、満たされぬまま、日本の文学雑誌をよんで、当時、盛んだった、田中花袋、岩野泡鳴らによって唱導された自然主義文学運動に傾倒して、いわば独学で作品をつくりあげた人々だった。人によっては、与謝野晶子に、人によっては石川啄木に、あるいは吉井勇、若山牧水、北原白秋に傾倒した」

伊藤氏が同書に載せた田中氏の作品にも、異国へ渡る不安と期待、日々の労働の苦労、母国やふるさとへの郷愁が詠み込まれている。

波さわぐ北太平洋の船の旅
しぶきに濡れて甲板に佇つ        
             田中葦城

華陽会は、1世のみならず日本で教育を受けてシアトルへ戻った帰米2世も加わり、日本の歌人とも交流しながら活況を増していった。

「華陽会の同人には、のちに毎日新聞に入った高田市太郎、当時日本郵船社員でアララギ社友の赤壁四郎、いまロスにいる同じアララギ社友の神部孝子や武田露二、中村風信子(郁子)ら各氏がいた。私もこの会に加わっていたが、一九三七年に至り、北米時事の有馬純義社長、俳壇の小池晩人、金子伸三氏らの斡旋で、女流だけの「紫の会」が発足した。もう故人になられた三原勝野、中村郁子さんのほか、私や中川末子、中村ます子、串春栄さんらが参加した」(伊藤一男著『北米百年桜』、糸井野菊さん回想)

華陽会は日米戦争勃発直前まで続けられ、1940年11月には神武天皇御即位2600年を記念して、紫の会、華陽会、川柳人が日本町にあった玉壷軒で「皇紀祭奉祝会」とするパーティーを開いた記録も残っている。夫の学一氏と共にパイオニア・スクエアでランチ・カウンターを経営していた田中郁子さんは、日米開戦へ進む当時の心境を歌で残している。

日米が戦ふなけむ安んじよ
われもうれとふ日本贔負(ひいき)の顧客  
          田中郁子

太平洋戦争が始まり収容所生活が始まってもなお、短歌会の活動は続けられた。

「戦時中収容されたミネドカキャンプ内で、無聊の収容所生活にいささかの潤いをあらしめむと、米国西部防衛軍の許可を得て、二十人の会員を募り一九四二年十月『峯土香短歌会』と名称を替えて結成された。リーダーの田中葦城、金子伸三氏達が東部キャンプへ移されたのちは、中村郁子さんを中心に維持され、キャンプ生活の辛苦が詠まれた」(『花筐』、シアトル短歌会略歴)

ミネドカ収容所では邦字新聞『ミネドカ・イリゲータ』が発行され、短歌、俳句、川柳が掲載された。ツールレイク収容所でガリ版刷りにより発行されていた歌誌『高原』には、峯土香短歌会やその他の各収容所から投稿を受け付けており、収容所間で歌を介しての交流もあったようだ。中村郁子さんは1942年9月に収容所内で病死。1945年5月の「中村郁子追悼号」の『高原』発行の際は、全米から追悼歌が寄せられた。

追われ来て荒野に住めるしるしには
いきの命に歌をし刻まめ              
          田中葦城

終戦を迎えると「峯土香短歌会」は中断するが、シアトルへ戻った半数ほどの同人によって1946年には「シアトル短歌会」と再び名称を改め、再開された。1958年に日系人会会長で短歌会同人だった三原源治氏、1974年には岩月静恵さんが「宮中歌会始」に入選している。

現在、シアトル短歌会は帆足敏子さんが代表を務め、毎月第2月曜日に川辺メモリアル・ハウスで例会を行い、『北米報知』への作品掲載など活動を続ける。神戸出身で1975年に45歳でシアトルへ移り住んだ帆足さんは、子育てに区切りをつけた35年ほど前にシアトル短歌会へ入会した。現会員の中では、発足メンバーの面影を語ることのできる唯一の人物で、『花筐』発行に当たっては、当時100歳だった野村鷹声氏が語る略歴を文章としてまとめるなどした。入会時には健在だった、紫の会発足当時の同人である中村ます子さんを車で例会まで送迎していたこともあったそうだ。

「短歌は言葉の結晶体のようなもの。言葉のひとつひとつが結び付き、響き合い、一首の内容を盛り上げて、その内容にふさわしい調べを持っています。そんな歌を作ることで、日本語の美しさに触れられることが短歌の魅力です」と帆足さん。90歳を迎える2020年は代表を次世代へ引き継ぐ予定で、「100年続く短歌会の歴史を次の世代に引き継いで欲しい」と語る。

 

* 本稿は、『北米報知』(2020年1月3日)からの転載です。

 

© 2020 Misa Murohashi / North American Post

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