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シアトルで受け継がれる松平家

マツダイラ家2世である6人。左から、スティーブンさん、テレサさん、ヴィンセントさん、アイダさん、テオファンさん、ポーリーンさん。

インタビューに応えてくれた3世のピーター・マツダイラさんは、三つ葉葵紋で知られる徳川家の家紋がタチアオイ(hollyhock)ではなくカンアオイ(wild ginger)であることを発見した。

日本人であれば、「松平」の姓を聞けば徳川将軍家を思い浮かべることでしょう。2019年3月にシアトルで亡くなったマーティン・ミッチ・マツダイラさん(享年81)も、松平姓の一族。

現在シアトルに住むマツダイラ家2世の姉弟4名と、3世であるピーター・マツダイラさんに話を聞いた。

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シアトルへ渡ったマツダイラ家の祖は、松平康定(下記参照)の五男の家系に生まれた松平徳久さんだ。1909年(明治43年)に初めてシアトルへ渡った。徳久さんは金沢の出身で、渡米前は金沢第二高校に通っていた。シアトルで開かれたアラスカ・ユーコン太平洋博覧会に金沢の九谷焼商が出店する際、当時16歳だった徳久さんはその販売助手を務めることになる。

アラスカ・ユーコン太平洋博覧会で開設されていた日本館。(写真:ワシントン大学)

この博覧会は、太平洋沿岸諸国の発展を世界にアピールすべく、1909年に現在のワシントン大学所在地にて開催された万国博覧会。海外参加国のうち日本とカナダは大規模な展示を行った。日米間の経済交流を図るため、日本資本主義の父と呼ばれた渋沢栄一男爵率いる実業団も訪れていた。

シアトルの日本人野球チームでピッチャーを務めた松平徳久(トーマス)さん。

徳久少年はシアトル滞在中、アメリカ初の日系人プロ野球チームでピッチャーとして大活躍。その腕前は「黄金の腕」と呼ばれるほどだった。このように野球にどっぷりはまった徳久少年は、1年に及ぶ博覧会が終了したあともアメリカに残ることを決意する。

シアトルでは、宝石商のハーディー・トレーディングやリンカーン・ホテルで働く日々。野球選手としてのキャリアは、事故で片目を失ったことを機に幕を閉じた。

そして渡米から10年以上が経った1921年(大正10年)、徳久さんは帰省時に金沢で縁談が成立し、結婚する。妻となったほとるさんは同じ石川県の出身。使命感が強く、行動力に長けた人物であった。ほとるさんは高校を卒業して金沢の銀行に勤務後、看護師に転身。1918年から1919年にかけてスペイン風邪が大流行した際は、患者の家まで自ら足を運び、薬を届けたという。

松平ほとる(テレサ)さん。徳久さんと結婚したのは19歳の頃だった。

シアトルに移住した日系1世は、キリスト教に改宗する者が少なくなかった。徳久さんとほとるさんも渡米後にカトリック教徒となり、ほとるさんは、1952年に「ナショナル・カトリック・マザー・オブ・ザ・イヤー」を受賞した。

夫婦の間には1948年までに14人の子どもが誕生したが、マツダイラ親子が生きたのは、日系人の歴史の中で非常に過酷な時代。1941年、日本軍による真珠湾攻撃を受け、マツダイラ一家を含めた12万人に及ぶ日系人が強制収容所での生活を強いられた。

マツダイラ家2世の男子9人は、全員米軍に従事した経験を持つ。長男であるジョン・タケヒサ(武久)さんは、第二次世界大戦中、第100歩兵隊および第442連隊戦闘団に自ら志願。イタリア戦線で致命的な傷を負い、米軍の戦傷章であるパープル・ハート章を授与された。その後、ジョンさんは画家として活躍。地元ノースウエストにおけるトップアーティストのひとりとして知られるようになった。

次男であるマイケル・ヨシヒサ(吉久)さんは、陸軍情報部に入り、米占領軍として東京に駐在後、三男のフランシス・テルヒサ(照久)さんと共に、横浜駐屯地に配属された。

8番目の子であるマーティン・ミッチ(光行)さんは、ボーイングでエコノミストとして勤務。また、ワシントン州のアジア太平洋問題委員会(CAPAA:Commission on Asian Pacific American Affairs)の初代事務局長を務め、日系コミュニティーにおける生活の質の向上に尽力した。

現在、シアトルに暮らすマツダイラ・ファミリーは、2世から5世まで。一家の歴史は、ほとるさんが生前記した手記に収められ、代々大切に受け継がれている。夏には盆踊り、正月にはおせちや雑煮と、日本の伝統文化も世代を超えて継承されている。

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加賀藩側近、松平康定と松平大弐

『徳川家康像』 狩野探幽 (1602 - 1674) 筆。

元康(のちの家康)は松平家9代目当主となったが、1566年に三河国主になると名を徳川家康と改めた。他の分家は松平の姓を受け継いだと言われている。江戸時代初期、加賀藩主の前田家に仕える武士の中に、松平康定という男がいた。康定は、家康と同じく三河国の出身であったが、三河国伊保城主であった父親が戦死。その後、母と兄、妹ふたりを連れて加賀藩に落ち延び、前田家に仕官することとなった。徳川家と血筋を共にするという理由から、参勤交代で江戸に行く際には、松平家は藩主である前田家の殿さまよりも上座に座ることが許されたという逸話が伝わっている。

幕末になると、加賀藩の世子、前田慶寧(よしやす)は康定の五男の家系から本家の養子となった側近、松平大弐(だいに)を引き連れ、天皇に忠誠を誓う勤王派の中心、京都で長州藩と合流。幕府打倒に向けて協力したが、この企ては徳川家の知るところとなり、前田家は大混乱に。責任を取るべく大弐は切腹し自害。大弐の首は石川県金沢市の妙慶寺に祀られ、首から下はかつて加賀藩の飛地領だった滋賀県海津の正行院に埋葬されている。

 

*この記事は、「北米報知」(2019年12月27日)からの転載です。

 

© 2019 Yuriko Ogawa, North American Post

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