ジャーナルセクションを最大限にご活用いただくため、メインの言語をお選びください:
English 日本語 Español Português

ジャーナルセクションに新しい機能を追加しました。コメントなどeditor@DiscoverNikkei.orgまでお送りください。

sports

ja

同時多発テロ事件を契機に米移住 — ロサンゼルス・ドジャースの佐藤弥生さん

ハローキティ企画で球場に新たなファン呼び込む 

日本人選手の道を開いた野茂英雄投手のデビュー以降、メジャーリーグの後進たちの活躍は目覚ましい。2016年から2019年現在のシーズンまで、ロサンゼルス・ドジャースには前田健太投手が在籍。野茂投手から前田投手に至る間にも、石井一久、木田優夫、斎藤隆、黒田博樹各投手がドジャースタジアムをホームに活躍し、現在はシカゴ・カブスのダルビッシュ有投手も2017年に在籍していた。しかし、選手たちに当たるスポットライトの陰で、日本人のスタッフが彼らを支えてきたことはあまり知られていない。その一人が、同球団のグローバルパートナーシップ・マネージャーの佐藤弥生さんだ。

現在は法人営業に相当する部署のマネージャーを務める弥生さんだが、2003年にドジャースで働き始めた当初は、アジアからの選手をスカウトするアジア部に配属された。2003年といえば、野茂、石井両投手が先発ローテーションにいた時期と重なる。弥生さんはアジア部で1年間勤務した後、別の仕事に携わるためにドジャースを一度辞めた。しかし、2008年、黒田投手入団のタイミングで球団から復帰の要請があり、再びアジア部でスカウト活動に従事するようになった。その後、アジア部が解散した2013年から現部署に異動したが、今でも日本に関係する仕事には声がかかるという。

筆者が弥生さんに初めて会ったのは2019年の2月。場所はドジャースタジアムだった。早速、同球団で働くやりがいを聞くと、「2017年、2018年と2年連続でワールドシリーズに出場したことですね。最後に優勝したのが1988年でしたから、すでに31年が経過しています。一度もワールドシリーズに出場したドジャースを見ていないスタッフが多いわけで、私もその感動を味わえて良かったです」と答えた。聞けば、大学時代は慶應義塾大学公認のテニスサークルが生活の全てだったと振り返る。弥生さん自身、生粋の体育会系女子なのだ。

弥生さん発案によるハローキティとのコラボで、女性や子どもといった新しい野球ファンをつかんだ。

深いドジャース愛が伝わってくる弥生さんだが、その愛からは大きな成果も生まれた。一時期低迷していたドジャースタジアムの集客回復策として、ハローキティとのコラボ企画を立案実施したことが、成果の一例だ。一時期チケットの売り上げが落ち込んだ時、離れたファンを呼び戻すだけでなく、弥生さんは新しいファンを呼び込む手法として女性や子どもにアピールするハローキティに注目した。そして、1万個限定のハローキティのアイテム付きチケットパッケージを発売したところ、あっという間に完売したのだ。「キティちゃん目当てで野球を見に来た人々にリピーターになってもらうことが目的でした」という狙いは見事に当たった。


スポーツの日米の架け橋に

それでは、今やドジャースに欠かせない人材として力を発揮する弥生さんがアメリカに渡るきっかけは何だったのか? 最初にアメリカで暮らしたのは、高校2年で留学してきた時だった。しかし、約束とは異なる待遇に、弥生さんは一念発起した。「ホストファミリーとの関係がうまくいかず、私は不満を抱いていました。留学機関から説明されていた対応と全然違ったのです。それで自分のリクエストを通すために、一生懸命、英語でコミュニケーションを取ろうとしました」。逆境にくじけることなく努力を続けた結果、10カ月の留学期間の終わりを迎える頃には英語で表現することに不自由はなくなっていたと振り返る。

その後、日本で大学に進学し、美術関連の会社に就職。その会社を退職後に単身アメリカに渡り、女性一人旅を3カ月、一度帰国して、さらに3カ月続けた。そして、東京ディズニーシーの建設プロジェクトの通訳を務めた後、その仕事で知り合ったアメリカ人男性に会いにロサンゼルスを訪れた。2001年のことだった。到着して2日後、あの未曾有のアメリカ同時多発テロ事件が起きた。弥生さんはそのままアメリカに残り、その男性と結婚した。その後、残念ながら別々の道を歩くことにはなったが、あの事件が弥生さんの転機となった。

アメリカ移住後は、ロサンゼルスでしばらく日系のアパレル商社で働いた。そして、ドジャースの「日本語ができる」人材募集を知り、応募した。「面接の後の二次試験が非常にユニークでした。その当時あったアジア部の部屋に置かれたデスクで仕事をするように言われました。その部署はチームで働いていたので、私がそこにいることでどのような雰囲気なのかを確認したかったのだと思います」。面接はもちろん、仕事のシミュレーションのようなことを課せられた二次試験も通過し、トップの経営陣との面接も無事に合格、弥生さんはドジャースの社員となった。

入社当時のドジャースには野茂投手が在籍していた。しかし、「私は野茂さんが引退されてからのお付き合いの方が長いです。現在はジュニアオールジャパン(NOMOジャパン)の活動に取り組まれていて、毎年、全国の中学生選抜メンバーのアメリカ遠征を実施しています。ドジャースタジアムでの観戦やツアーをセッティングすることもあるんですよ」と話す。

さらにロサンゼルス・エンジェルスの大谷翔平投手には、彼が高校の時から関心を示していたメジャーリーグ入りに向け、ドジャースからもアプローチしていたと振り返る。「結局、最後の最後に(メジャーリーグではなく)日本ハムに入団しました。あれから5年が経って、とうとうメジャーリーグに来ることになり、大谷選手獲得にドジャースももちろん名乗りを挙げました。その際の日本語資料は私が作り、プレゼンテーションにも同席しました。結果的にアメリカンリーグのエンジェルスに行きましたが、新人王も獲って素晴らしい活躍をした大谷さんを、同じ日本人として母親のような気持ちで(笑)今は応援しています」。

最後に「ずっとドジャースで働き続けますか?」と質問すると、弥生さんは「今後、もしドジャースを去ることになったとしても、スポーツの分野で日本とアメリカの架け橋になれるように末長く活動していきたいと思っているんです」と笑顔で答えた。どのような境遇からもポジティブな結果を出してきた彼女なら、ドジャースであってもそれ以外の環境でも、きっと新たなやりがいを見出し前進していくに違いないと思える。

 

© 2019 Keiko Fukuda

california Dodgers Los Angeles Shin-Issei