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サンバの国でキバランバ! ~ブラジル奄美移民100年の軌跡~

第4回 記憶と絆つなぐぶらじる橋 ~ 文岡賀津子さん(宇検村出身)

「伯国橋」。1956年、ブラジル在住の宇検村出身者らの寄付により湯湾川に架けられた橋。奄美だけでなくブラジル移民の歴史を伝える貴重な建造物(宇検村湯湾、2014年9月筆者撮影)

「宇検村に伯国橋(ぶらじるばし)あるでしょ。あれ、うちの父たちがつくったんです。」と話すのは文岡賀津子(74)さん。「前は木の橋で台風で大水が出たら、いっつも流されるから、だからあれ、ちょっと太鼓橋になっているでしょう。いつも流されるから、こんなんにしようって。うちの父たちがつくったんです。(ブラジル在住の)湯湾1(集落出身)の人が寄付を集めて、村で使ってほしいって。ブラジルからもらったお金だから、残さないと。橋をつくろうって。(建ててから)もう六十一、二年になるでしょう。今は(一部が)崩れてね。もったいないね。記念なのにね」

賀津子さんは1957年、家族でブラジルへ移住。「(船で)43日かかったよ。でも、楽しかった。酔いはしなかった」。11月、神戸港から出帆。真冬の太平洋は荒れていた。「もうね、甲板に(海水が)バシャー、バシャーって。ご飯食べる長いテーブルも揺れて、ゴーって向こう行って、ゴーってまた戻ってきて、ものすごい」。一転、大西洋に入ると今度は「洗面器に水張ったみたい」な凪が続いた。月と太陽が美しくいつも甲板から眺めていた。

ブラジルへ到着して10日もすると4歳の弟が「父ちゃんうち帰ろう。帰りたい」と言い出した。弟にとっては遊びに来た気持ちだったのだ。ブラジルの生活は電気もなかった。「シマでも電気はあったのに」

より良い耕地を求めて1年ごとに移動した。4年目にイタリア人の農場で働いた。家には台所と広間、他に部屋が二つあった。トイレは水洗。もちろん電気もあった。日本人が地主の農場とは全く違った。

賀津子さんの父は再渡航者だった。戦前、祖父がブラジル移民として家族を連れて来ていた。祖父はコーヒー作りの傍ら、米を栽培し、それを町で売って儲(もう)けていた。4年後、財産ができ祖父は、父と父の兄を残して帰国。父たちは土地を購入して綿花栽培をした。ブラジルに来て10年たった頃、父も帰国。ブラジルで儲けた祖父が土地を手に入れていたので米を作った。配給も「もらわなくてもいいくらい」だったと聞いた。

賀津子さん兄弟が生まれ、戦前購入した土地もあるし、またブラジルへ行こうという話になった。ブラジルに来てみると、当てにしていた土地は既に売却され、何も残ってなかった。ブラジルへは「自分がおんぶして育てた孫たちと、結婚してからずっと一緒にいる嫁と一緒に行きたい」と74歳の祖母も一緒について来た。日本人の農場に入り、家族みんなでトマト作りをした。

文岡賀津子さん(前列右)と家族(賀津子さんの息子たちが経営する旅行会社「クィックリー・トラベル」サンパウロ市内にて、2018年2月20日筆者撮影)

コチア青年としてブラジルに来ていた文岡勝さん(宇検村)と結婚。3人の子宝に恵まれた。父は街に出て商売を始めたが、賀津子さんたちはトマト作りを続けた。

1987年、カリフラワーを作った。良い出来だったが収穫直前に雹が降って全滅した。見ている目の前でせっかく育てたカリフラワーが全滅した。ショックだった。「もうやめよう」と農業をやめ、刺繍糸や毛糸を扱う店を出した。子供たちも成人して、もう無我夢中に働かなくても良くなっていた。

祖父と父は戦前のブラジルで儲けて帰ってきた。戦後、父はまたブラジルへ。「よほどブラジルが好きだったんだね」と。賀津子さんの父が建造に関わった「伯国橋」は、ブラジル奄美移民の記憶を受け継ぎながら今も奄美とブラジルをつないでいる。 

編注:
1. 湯湾:鹿児島県大島郡宇検村

 

* 本稿は、『南海日日新聞』(2018年5月24日)からの転載です。

 

© 2018 Saori Kato

Amami Brazil farmer Kagoshima migration

このシリーズについて

1918年、鹿児島と沖縄の間にある奄美群島から「奄美人」がブラジルへ集団移住をはじめた。それからちょうど100年が経った2018年、ブラジルと奄美では「ブラジル奄美移民100周年」を記念して様々な交流事業が催され、次の100年を目指して新たな交流が始まった。従来のブラジル移民史では語られることのなかったブラジル奄美移民について、筆者が2018年4月から5月にかけて『南海日日新聞』に連載した記事に加筆修正して紹介する。