「米國日系人百年史」(新日米新聞社、1961年)によれば、シアトルでは戦後、まちに帰還した一世たちが競うようにしてホテル、アパートやオフィスビルを購入し、従来のリースによる事業を別の形で発展させた。日系人によるさまざまな商売や事業も復活してきた。
1948年末までの市内の日系の事業者を種別にみると以下の通りである。
団体5、教会16、医院・歯科医眼鏡医・治療院19、事務所・新聞社30、貿易商9、食料品卸商5、商店8、家具・器具・金物店10、醤油製造・豆腐店・魚店10、食料品店22、薬店・農給商11、時計商・写真館9、花・菓子・釣道具店12、運送店10、洗染所・洗濯所28、酒店3、日本支那料理4、洋食店21、ホテル90
(「百年史」より)
また、1946年1月に日系人ホテルアパートメント組合が組織され、1949年1月にはシアトル日系人会が創立し、会員数は700人を抱え、付属団体事業として日本語学校をもった。このほかシアトル日本人教会同盟など、日系人の宗教活動もふたたびはじまった。
2週間泣き続けて
宇和島屋(Uwajimaya)も、上の例で言えば、22の食料品店の一つになるのだろう。富士松、貞子を中心に、長男のケンゾウをはじめ二男のトミオも、戦後まもない10歳のころから店の仕事を手伝っていた。このほか子供たちはトミオと3つ下の三男アキラをはじめ二女のヒサコ、四男のトシ、三女のトモコがいたが、この6人のなかに長女のスワコが日本から戻ってきた。これで家族9人の顔がそろった。
スワコは、戦争が始まる前、1941年2月、6歳の時に富士松の故郷である愛媛県南西部の海沿いの小さな集落にある叔母の家に預けられた。富士松が長女の教育を日本で受けさせようとしたからだが、自分が将来日本に帰ることを考えていたからだろう。
6歳から13歳という多感な時期に、両親、兄弟と離れてひとり暮らすのは、スワコにとっては辛いことだった。また、アメリカでの新生活に順応するのも一苦労だった。
母に連れられ愛媛の叔母の家に着いてから、スワコが眠っている間に母は去ってしまった。スワコは、そのあと2週間泣き続けたため叔母がずっと付いていなければならなかった。だれかが、自分(スワコ)がやんちゃだったから日本に連れて来られたと言っていたのを聞いたこともあり、心の傷として残った。
家では、赤ん坊の子守をしたり、おむつを洗ったりした。また、戦争で男手がいなくなったためその分も、山に行って芋をとってきたり麦を刈ったりと、子供ながら忙しく働いた。
日本語はタコマで両親と話していたので聴いたり話すことはできたが、書くことは当初できなかった。子供だったからそれなりに楽しいこともあった。やがて戦争がはじまり勉強をする時間もなくなり、教科書も焼けてしまう。
戦争が激しくなると、近くの島に爆弾が落ち、校庭に全児童が立っているときにB-29が上空を飛んで行ったのを見たこともあった。防空壕にいて入口のドアがドーンと落ちたような音をきいたのを覚えている。話したくないような恐い思いもした。
小学生にまじって英語を学ぶ
戦争が終わって3年目の1948年の春を前に、スワコは母のいとこと一緒に船でアメリカに戻ってきた。かつて暮らしていたタコマではなくシアトルにやってきたのだが、7年間の空白は大きく、再会した両親も兄弟も見覚えのない人になっていた。
「辛かった。日本にまた戻りたかった。英語もわからない。日本でも苦労してアメリカでも……」と、スワコは思った。
しかし、それを救ってくれたのが7つも年下の小学生たちだった。タコマで暮らしていた時代も英語は勉強していなかったので、シアトルでは小学校1年生に編入して勉強したのだが、小さなクラスメートたちのおかげで英語の力がついた。また、先生がとても親切で、彼女からは日本語も忘れないようにと言われた。こうして小学校で学びなおしてやがて飛び級をして中学に進んだ。
シアトルの家では、母親の家事を手伝った。ご飯の支度、アイロンがけなど両親が忙しく働いている間、家のことはなんでもした。その時、家には家族だけでなくいつも両親が招いただろうだれかがいてにぎやかだった。両親は人をもてなすのが好きだったから、家族だけで夕食のテーブルを囲むことはなかったという。
(敬称略)