前述したように、バジルの両親はともに聖公会聖十字教会の熱心な信者で、彼も子供の頃、収容所に移動させられる前は聖公会の日曜学校や幼稚園に通っていた。日本からカナダに戻ってきてからも、おばや祖母とバーノンにある聖公会に通い、1954年にノース・バンクーバー1に引っ越したときは、最寄りの聖公会セント・ジョン・エヴァンジェリストに通った。
戦後、西海岸地域に戻ったころ、日系カナダ人聖公会信者は教会で祈ること許されなかった。しかし、バジルは差別を感じたことはなく、教会青年部のさまざまな活動に参加した良い思い出が残っている。なかでも、日本人聖公会が酪農場を設立するにあたり若い雌牛の購入資金を集めるために行ったベリー摘みはよく覚えている。聖公会との関わりは、バジルがデヴァインの製材所で働くためにバンクーバーを離れるまでの5年間続いた。
聖公会が元の場所にないことに気がついたのがいつのことだったか、正確には思い出せない。おそらく初めてそれに気がいたのは、教会があった場所の近くのコルドバ・ストリートにマッサージの予約のために義母を連れて行ったときで、以来疑問をもつようになった。とはいえ、戦前聖十字教会に通っていた頃の彼はまだ子供だったので、当時はあまり深く考えていなかった。
たとえその時、年配の信者たちが聖公会がなくなったことについて思うことがあったとしても、彼らがそれについて話しをする聞くことはなかっただろう。彼らは、戦時中に経験した辛い過去についても、若い世代の人たちと話すことはなかったからだ。長い年月が経ち、教会の歴史についてグレッグ・タッチェルや他の教会信者達と話している時に、バジルは興味を持つようになった。タッチェルは、すぐに取り上げられた日系カナダ人聖公会の財産がどうなったかについての調査を始めた。(第1回、2回参照)
いつのころからか、バジルは幼少期に通った聖十字教会に興味を持つようになった。ブリティッシュコロンビア州東部で教鞭をとっているときも、彼は時々週末をバンクーバーで過ごし、戦後移築された聖十字教会に通った。1967年、彼はそこで結婚式を挙げ、彼の子供達ものちにそこで洗礼を受けた。彼と彼の家族がバンクーバーに住まいを戻したときには(1985年ごろ)、スティーブストンにトロール船を持っていた義父と夏の休暇を過ごすとき以外は定期的に教会に通った。1989年に教会が現在の場所に移ってから、徐々に教会の建物や財産の管理にも関わるようになった。
強制退去、強制収容、離散、教会財産の奪取、その他聖十字教会が近年経験した様々な苦難の歴史の中、バジルは(たとえ幼かったとはいえ)、戦前の聖十字教会に関わり今なお生き残っているたった一人の信者であった。彼は他の信者達から常に教会の「大黒柱」と思われていた。最初の章でも述べた通り、近年の激動の時代を生き残るためにいろいろと苦労しながらも、バジルは重要な役割を担ってきた。
1980年代に地下納骨堂を備えた記念庭園が教会の隣に造られ、1990年頃バジルはそこの管理者に就任した。以来、その管理を自身の特別な任務とみなし、毎週日曜日の早朝に来て、他の信者たちが来る前にそこを開けた。彼はいまでも教会と記念庭園の管理に深く関わり続けている。
2010年、ニュー・ウエストミンスター教区はバジルにODNW(ニュー・ウエストミンスター教区の聖職者の位階)を授けた。この勲章は、長年にわたり自発的な奉仕においてめざましい貢献をした教区信者に対して送られるもので、敬意を表すとともに特別な表彰が行われる。 この勲章受章者を発表する際、教区のホームページは以下のようなコメントを載せた。「バジルは長年にわたり敬虔な信者であり、教会のリーダーでもあります。教会がとても困難な状況にあった時も、バジルは教会とともにあることを選んだ数少ない信者の一人です」。バジルは主教による、教会の教区委員の任命を受け入れ、今もその任に留まっている。2
1949年にバジルが12歳でカナダに戻ったとき、家族は日本に留まった。当時妹達はわずか5歳と4歳であった。バジルは時折母親と連絡を取り合い、母はバジルと暮らしている母の姉妹とを連絡を取った。父親と直接やりとりすることはなかったが、父親の旧友であるシンゴ・ムラカミのもとをよく訪れていたので、彼が父親の様子をバジルに教えてくれていた。父親のかつての雇い主であるキャンベル写真館のキャンベル氏の娘からも、彼は父親の消息を伝え聞いていたようだ。
バジルがカナダに来て程なく、彼の両親は離婚した。このことは母親やおばたちや祖母が彼には内緒にしていたので、数年後までそのことは知らずにいた。離婚の原因がカナダで経験したこと(強制退去や収容所、送還)によるストレスによるものなのか、母親がひとり離れて大阪で働くことによる長い不在のせいなのか、それとも他に理由があるのか、本当のところは彼にはわからない。いずれにせよ、バジルの両親はどちらも他の人との良縁に恵まれ、結果バジルには異母弟と異父妹ができた。
12歳でカナダに戻って後、バジルは父親に二度と会うことはなかった。病気になった父親は、1983年にこの世を去った。父親が重い病だと知ったとき、バジルは彼に長い手紙を書いた。様々書き連ねる中、日本を離れてこのかた彼に直接連絡を取らなかったことへの後悔を言葉にし、またムラカミ氏やキャンベル氏の娘から消息を伝え聞いていたことも書いた。その手紙はバジルの母親や妹たちが病床の父親に読んで聞かせ、父親が悲しみのあまり涙を流していたとバジルに伝えた。のちに姉妹たちは父親の日記と写真集をバジルに送った。
バジルの母親は二度カナダを訪れ、バンクーバーのバジルの家族のもとに滞在した。一度目は1970年代半ば、二度目は1985年頃だった。滞在中、彼女はカナダに留まりバジルの家族と暮らしたいと言い出した。しかし母の姉妹たちは、バジルに反対するよう強く促した。母親は日本に残してきた孫たちのことを頻繁に口にしていたし、彼女のわがままな性格や、戦後日本に行きたいと言い張ったのが彼女自身だったことから、もし彼女がカナダに戻ると、後々様々な問題が出てくることを心配したのだ。
バジルの妹たちはずっと日本に住んでいる。メグミは布団の製造で名の通った家に嫁ぎ、現在大阪市の近くの枚方市というところに住んでいる。エミコの夫は野球帽をデザインする仕事をしており、同じく大阪に近い堺市というところに住んでいる。どちらの夫もすでに引退している。バジルはカナダに戻ってすぐの頃はあまり彼女たちと連絡を取っていなかったが、当時の母とのやりとりの中で日本にいる家族に何が起こっているか、何をしているかは常に知らされていた。1993年に二人の妹たちはカナダを訪れ、バジルが車を借りて子供の頃に暮らしたいくつもの収容所を案内した。
バジル自身はほんのいっときでも日本に戻りたいと思ったことはなかった。おそらく日本がどのように戦争を仕掛け、どのような戦法を取ったのか、また一度も心から謝罪をしたことがないという事実によるものだと思う。しかしながら、彼の娘といとこが1992年に日本を訪れたとき、彼の中で何かが変わったのを感じた。1994年、バジルは息子と一緒に日本を訪れ、妹たちの家に滞在した。妹たちは父親の故郷である下里や、様々な所を案内した。バジルはのちに、初めは不安だったが、この旅行をしてよかったと述べた。
注釈:
1. ノース・バンクーバーはパウエル・ストリートのアリアからは比較的遠く、バンクーバーの中心地とは海峡を挟んでいる。バジルとおばや祖母は、このためにゲール師によって再建されていた聖十字教会には戻らず、近くの聖公会に通うことを選んだ。
*この連載は、甲南大学国際言語文化センター紀要「言語と文化」第22号P71-108(2018年3月)に掲載された「日系カナダ人の子供の送還者:バジル・イズミのライフ・ヒストリー」の要約版を日本語へ訳したものである。
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謝辞: 本シリーズの日本語訳に関して、翻訳者の出石美佐氏に感謝の意を表します。出石氏はプロのツアーガイドとして働く傍ら、和歌山県美浜町の中高生で構成される「語り部ジュニア」の指導的立場でまとめ役を務めています。語り部ジュニアは、英語と地元のカナダ移民にまつわる豊かな歴史を学び、家族のルーツを求めて訪れる日系カナダ人観光客に英語で案内も行っている。
© 2018 Stanley Kirk