バジルは1949年からバンクーバーに引っ越す1954年まで、祖母やおばたちとバーノンで過ごした。「収容所時代、彼らは自主運営地1の一つで、ブリティッシュコロンビア州のリロオエットの郊外にあるメント鉱山にいました。私のもう一人のおばは、祖母と祖父と一緒にリロオエット東部に住んでいました。 祖父は1944年に老衰のためリロオエットでなくなりました。戦争が終わった時、おば達の家族と祖母はB C州のバーノンに移りました。戦前そこにはかなりたくさんの日系カナダ人の家族が住んでいて、農業や果樹栽培、さまざまな果物を栽培したりして働いていました」。バーノンに住んでいた頃、バジルは、おばや祖母たちとオールセインツ聖公会に1時間半ほど歩いて通っていた。
バーノンにいた頃、バジルは父親の旧友のシンゴ・ムラカミが最近バーノンに越してきて、新しい写真館を始めたことを知った。彼もまたバジルのおばたちや祖母と同様、戦時中の数年をリロオエットで過ごしていた。バジルは時々店を訪れ、ムラカミの家にとめてもらうこともあった。彼はバジルの父親が日本でどうしているか教えてくれた。
バーノンからそう遠くない、バーノンより大きな町であるケロウナの郊外にも数人の日系カナダ人が住んでいたとバジルは記憶している。バーノンと違い、そこでは反日感情が強かった。そのうちの一人は、人種差別がバンクーバーよりひどいので、必要な時以外は町に行かないと2、後にバジルに語ったという。
バジルのおばと祖母が1954年にバンクーバーに移った時、バジルも一緒にバンクーバへ行くことにした。しかし間もなくディヴァインという町で給料の良い林業の仕事を見つけ、高校を退学した。彼いわく、「その製材所には、戦後カナダにきた日本人やリロオエット3あたりの収容所からきた日本人がたくさん働いていました。のちに彼らはディヴァインにカンナ工場を建てました。1954年に私はそこで働き始めました。その時私は17歳で、それが初めての本格的な仕事でした。5年間その仕事を続けました」。
1959年に、バジルは製材所での仕事を辞め、ディヴァインを離れてバンクーバーへ移った。学業を途中で中断した大人のための高校に通い、高等教育を終わらせるためだった。取り残してあった高校での二年間の勉強を一年で終わらせ、大学入学資格試験を受けるためにノース・バンクーバー高等学校に通った(13学年)。それからブリティッシュコロンビア大学の教育学部に入学した。二年で教員免許を取り、三年目に小学校上級資格を取得した。彼はドーソン・クリーク学区(ピース・リバー・エリア)にあるチェトランドで最初の教師の職についた。そこで二年間小学生を教え、その後再びバンクーバーに戻った。
バジルは1967年に結婚した。バンクーバーに戻ったのと同じ年である。彼の妻エツコ(旧姓はコクボ)もまた日系カナダ人で、滋賀県の箱根市の近くにルーツがあった。彼女の家族とバジルの家族は、偶然にも日本へ行く時に同じ船(ジェネラル・メイグス号)に乗り合わせていた。しかしその時はお互いを知らなかった。家族が日本へ行ったとき、彼女はまだ赤ん坊だった。バジルより長く日本にいたが、最終的に1952年に家族でカナダに戻ってきた。
バジルはイースト・バンクーバーの寮で夏期講習を受けていた時、教会で初めてエツコに会った。ある日父親の旧友であるシンゴ・ムラカミは、教会の礼拝と、いつも礼拝の後に行われるガーデン・パーティーにバジルを誘った。シンゴは、パーティーに来るある女性を紹介したいとバジルに言った。バジルが教会に着いた時、花を生けている若い女性に目が留まった。バジルはたちまち魅了され、デートをするようになった。紹介は無用だったのである。
バジルには婚約後、恐ろしい自動車事故から生還した鮮明な記憶がある。当時彼はブリティッシュコロンビア州の東部にあるクレストンという町で教えていた。エツコとペンティクトンという町で会う約束をしていた。そこがブリティッシュコロンビア州の真ん中にあり、待ち合わせをするのにちょうどよかったのだ。不幸にも、彼女に会うためにペンティクトンへと車を走らせている時、車が制御不能になり、何度も回転しながら谷底に向かって100メートルほど転げ落ちた。バジルはシートベルトを着用していなかったが、回転が止まるまでなんとかハンドルにしがみつき、車内に留まることができた。驚くべきは、彼がほんの‘かすり傷’で済んだことだ。病院で治療を受けるのを待つ間、バンクーバーのエツコの家族に電話をかけ、彼女に事情と約束がキャンセルになったことを伝えてくれるよう頼んだ。この事故がきっかけで、彼は‘守護天使の存在を強く信じるようになった。
結婚後、バジルと妻はバンクーバーに住み、バジルはマリン・ドライブのはしにあるエブルン製材所に働きにでた。この製材所は、バンクーバー市内にある製材所よりも給料がよかった。一方で、彼は教師の仕事を求め、ブリティッシュコロンビアC州のあらゆる学区に電話をかけた。彼が申し込んだ学区の一つ(南カリボーのアシュクロフト学区)が採用してくれることになり、彼らは近くのカシュ・クリークに引っ越した。最初から、彼は午前中アシュクロフト小学校の校長代理として、午後はカッシュ・クリーク小学校の校長代理として働いた。すぐにアシュクロフト小学校で常勤の仕事があり、それからスペンセス・ブリッジでも常勤の仕事があったので、彼らは二人の子供が小学校に入るまでそこに住んだ。彼は二人の子供、男の子と女の子の教育が心配だったので、そこでの職を辞してバンクーバーに戻った。「子供達を、教室が二つしかない田舎の学校に行かせたくはなかった」と彼はいう。しかし、バンクーバーで再び常勤の教師の職を得るのは難しく、数年間は非常勤講師として働いた。
バジルは生徒達と野球やサッカーといったスポーツをして楽しんだ。彼自身のマイノリティーとしてのバックグラウンドや過去の苦労は、教師の仕事には良い方に働いた。彼の生徒達の多くが先住民族だったので、日系カナダ人としての自らの辛い経験をもとに、生徒達が一生懸命働き、難しい状況にもめげずに頑張ることで自分たちが置かれている状況を乗り越えることができると励ますことができた。
ある日彼は、ある魚の缶詰工場(スティーブストンのカナダ・パッカーズ社)がいくらの製造工程で日本語の話せる人を探しているということを知った。日本が彼らの得意先だったのだ。バジルはうまくこの仕事に就くことができ、カナダ・パッカーズ社が閉鎖になるまでの長い期間そこで働いた。閉鎖の際、バジルはバンクーバーのメイン・ストリートにあるカナディアン・フィッシュ社が運営する缶詰工場に移った。そこで20年ほど働いた。67歳と、普通の退職年齢よりは2年遅れて退職したが、それは会社にいて欲しいと頼まれたからだった。
注釈:
1. 大多数の日系カナダ人が強制的に海岸部から退去させられ収容所に入れられた時、少数の十分な経済力のある人たちは、制限がより少ないがゆえに‘自主運営地’と呼ばれる場所に行くことをゆるされた。そこでは農業や林業関係の仕事に就くことができた
2. タッチェル、29−34参照。このことは、筆者はロス・タマギというケロウナの近くで育った聖十字教会信者からも聞いた。
3. これらもまた収容所時代、‘自主運営地’であった。
© 2018 Stanley Kirk