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平和活動家、90歳で逝去 — エネルギーの人、据石和さんを追悼する

「おばあちゃんと呼んで」

据石さんは平和講演を行う際、冒頭で「私の事をおばあちゃんと呼んで」と聴衆に呼び掛けた。一般的に、原爆の話になると、落としたアメリカと落とされた日本とでは互いに対立してしまうことも多い。「数十万人の罪のない市民の命を奪った」と日本側が訴えれば、アメリカは「あの原爆のおかげで戦争を終結させることができた」と正当化する。しかし、実際の被爆者である据石さんの場合、「私をおばあちゃんと呼んで。私の話をどうか聞いてちょうだい」と親しみを持って話しかけることで、聞く者の懐にすっと入っていった。

生涯を平和活動に捧げた、在米被爆者協会会長の据石さんが、2017年6月12日にロサンゼルス郊外トーランスの自宅で亡くなった。享年90歳。1927年にロサンゼルス、ダウンタウンの北郊パサデナに二世として生まれた据石さんは、日本の教育を受けるために父親の郷里である広島に渡った。そして、女学生だった1945年、被爆した。その後、結婚で再びアメリカに戻り、一女に恵まれた。

筆者が据石さんに初めて会ったのは、1990年代の半ばだった。夫に先立たれ、娘さんも独立した後、彼女はシルバーレイクの一軒家で一人暮らしをしていた。平和活動家として積極的に各地で講演を行っていた据石さんは、自分が原爆の体験について、そして平和について人々になぜ語り続けているかについて、次のように話してくれた。「私は長生きできないと思っていたし、子供も諦めていた。だけど、このアメリカで家庭を持ち、子供にも恵まれた。これからの世界を引き継いでいく人々に、絶対に戦争を始めてはならない、と訴えなければならない。そうすることが今、私がこうして生かされている恩返しだと思う」。その細い身体からは規格外とも思われるほどの熱量を彼女から感じたことを、今も鮮明に覚えている。


「戦争のない世界」訴える

2012年、映画「HIBAKUSHA」の試写会の会場で。前列右が据石さん ©Keiko Fukuda  

その後、被爆者協会が行っている在米被爆者を対象とした健康診断の会場で、何度か会う機会があった。しかし、時は過ぎ、いつの間にか連絡先もなくした10数年後、全米日系人博物館で開催された試写会の会場で思いがけない再会が実現した。 非日系の若者たちが据石さんの被爆体験をアニメーション映画化した「HIBAKUSHA」という作品の試写だった。以前と変わらず、細い身体に熱いエネルギーを湛えた据石さんが会場にいた。「正直、この映画は舞台となった日本のカルチャーを誠実に再現しているとは言えないけれど、原爆のことを少しでも多くの人に知ってもらうために役立つなら、それで満足しなければならない」。監督たちとのインタビュー終了後、据石さんは私にこっそりとそう言った。

彼女は「戦争のない世界」を訴えるためなら、あらゆる場所に駆けつけていた。エネルギーのすべてを平和に捧げる据石さんに、私には何ができるだろうと考えた。そして、「講演先でもどこでも運転が必要だったら、私に言ってください」と申し出た。車社会のロサンゼルスで据石さんは運転免許を持たずに生活していたのだ。そして、さっそく「総領事公邸でのイベントに行く時に運転をお願いしたい」と筆者を頼ってくれた。しかし、彼女のおしゃべりのエネルギーは想像を超えていた。すでに80代半ばだった活動家を事故に遭わせるわけにはいかない、とハンドルを握る手にいつも以上に力が入る私の横で、据石さんは行きも帰りもノンストップで話し続けた。据石さんのエネルギーには「参りました」と言いたい気持ちになった。


据石さんからの手紙

その後、何度か電話をしたが応答はなかった。そして2016年の11月も終わる頃、私は1通の手紙を受け取った。差出人は据石さんだった。中には震える字で、「総領事公邸のパーティーに行きたいので運転してほしい」と書いてあった。私はすぐに折り返しの電話をし、当日、迎えに行った。家の外に出てきた据石さんは、歩くのもおぼつかない様子だった。少し前に転倒したことが原因らしい。それでも、相変わらず、彼女の頭脳は明晰で、車中では広島での子供時代のことや、被爆者協会の活動を開始した頃のことなどを、私の横で話し続けた。会場に到着すると、「私はここに座っているから、あなたは知っている人に挨拶をしてきなさい。私のことは心配しないで。私を知っている人の方から挨拶に来てくれるから大丈夫」と据石さんは椅子に腰を下ろした。心遣いに感謝しながら、私は顔見知りの人々とのひと時を楽しんだ。

2016年12月、在ロサンゼルス日本国総領事公邸でのパーティーで人形浄瑠璃と記念撮影 ©Keiko Fukuda 

その日、据石さんをトーランスの自宅に送り届けると、彼女はバッグから包みを取り出した。「これは広島のとっても高級な海苔なのよ。なかなか手には入らない。美味しいから食べてみなさい」。ストレートにそう言って、私が遠慮する暇も与えずに海苔を押し付け、杖をつきながら家に入っていった。それが、筆者が最後に彼女を見た姿だった。

それから半年後の6月15日、芥川賞作家で、据石さんと共通の知り合いである米谷ふみ子さんからの電話で、据石さんの死を知らされた。米谷さんは以前、地元の高校で原爆反対のイベントを開催していた。スピーカーは据石さんだった。「据石さんはね、最初に必ず『コールミー、グランマ』って呼びかけていた。あれが本当に良かった」と米谷さんもそう振り返った。米谷さんはイベントを主催しなくなってから何年も据石さんと会っていないと言った。彼女の死は大きな喪失だが、私は半年前に会えたこと、エネルギッシュで快活なおしゃべりを聞くことができて幸運だったと感謝している。好奇心旺盛でお転婆な少女がそのまま年を重ねたような人だったと、そう思う。そして「運転をお願いします」と書かれた彼女からの手紙が、忘れた頃に届くような気がしている。

 

© 2017 Keiko Fukuda

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