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ニッケイ物語 4—ニッケイ・ファミリー: 記憶、伝統、家族観

20歳を目前にしたこの夏、僕が知った祖母のHistory

祖母の中谷悦子

アイダホ州のウィザー(Weiser)に一人で住む、僕の祖母中谷悦子(Etsuko Nakatani)。大正15年(1926年)長崎県稲佐町生まれ。来年の3月で90歳になる祖母の人生を僕はつい最近まで知りませんでした。

この夏、祖母の家で見つけた「米國日系人百年史」がきっかけとなり、ジャーナリストの川井龍介氏がディスカバー・ニッケイで連載中の『「米國日系人百年史」を読み直す』に辿り着いた事で、僕は祖母の、更には日系二世の祖父達の人生史の一片を知る事になりました。

日本生まれの祖母は、第二次世界大戦中を長崎市内で過ごしました。軍事工場での勤労奉仕の日々は、空襲との戦いでもあったそうです。「爆弾が降る中、徒歩で帰宅させられる狂気の沙汰」と、当時の恐怖を語ってくれました。

長崎と言えば原爆。祖母も爆心地から1.8キロ地点の家で原爆に遭ったそうです。

「ピカッとオレンジ色に光り、全ての音が消えた。まるで死の世界。しばらく気を失い気付いて辺りを見回すと窓ガラスは割れ壁には大きな穴が。外にいたら焼け死んでいた。私は運が良かった」と。

 当時、料亭とホテルを経営していた茂木市の実家には、原爆後、大勢の負傷者が荷車で運び込まれ、ホテルは急遽臨時病院となり、曾祖母達は看護に明け暮れたそうです。一方、浜辺には遺体がたくさん運ばれ、岩の上に積み上げられての火葬だったとか。

祖父母の純と悦子

戦後、ジャワから引き揚げてきた叔母の誘いで上京した祖母は、新橋界隈で、ジャワ料理店を手伝う日々だったそうです。そんな時、叔母の知人が連れてきたのが、後に祖母の夫となる中谷純(Jun Nakatani)。つまり、僕の祖父。

祖父はアメリカ生まれの日系二世。一世の両親は和歌山からの移民で、一家は第二次世界大戦中ヒラリバー強制収容所(Gila River War Relocation Center)で過ごしたそうです。

アメリカの軍人だった祖父と、被爆し東京で働く祖母、そんな二人の縁は1951年新橋で繋がりました。

朝鮮戦争に出兵していた祖父は、休暇を利用し訪ねた知人の紹介で、祖母の元へ。軍服姿の祖父に「軍人と一緒にいたら商売の女性と間違われるからイヤ」と、祖母は相手にしなかったとか。でも翌日、祖父が軍服ではなく市販のズボンにジャンパー姿で現れ、その熱意に心動かされ付き合い始める事になったそうです。

休暇を終え戦地に戻る際、「もうすぐ軍を退役する。そうしたら一般人として迎えに来るから、僕と結婚して下さい」と祖父からのプロポーズが。その後暫く経ち、祖父は軍を退官し再び日本へ。約束通り迎えに来た祖父に対し「原爆を落とした国なんて」と、依然心は迷うものの、叔母に「見物のつもりで行ってみたら?」と背中を押され、結婚に踏みきれたらしい。

「その後、60年以上も米国に住み続ける事になるなんてね~」と微笑む祖母。

 
純と悦子の結婚式 
 
悦子の母方の祖母と

渡米後の住まいは、カリフォルニア州ヴァカヴィル(Vacaville)。一世である祖父の両親が収容所を出た後この地で果樹園を始め、長男の祖父も退役後その果樹園を共に営んでいた為、新婚生活はここから始まった。

当時は、日本語しか話せないおばあさんも健在で、「兄さんが日本からお嫁さんを連れてきてくれた!」と大歓迎だったとか。祖母は瞬く間にアメリカ生活に馴染み、果樹園労働に勤しみながら、車好きの祖父と人気車を頻繁に乗り替える等、かなり生活をエンジョイしていた様子。

スースンバレーの家と果樹園

その後、カリフォルニア州スースンバレー(Suisun Valley)に居を移し、それと同時に、近くのロックヴィルコーナー(Rockville Corners)でレストランを始めたそうです。更に同時期、弟を日本から迎え、前述した実家料亭のカリフォルニア店として、サクラメントにレストラン「二見」をオープンさせました。最盛期には駐在員でかなり賑わっていたそうですが1990年にオーナーシェフの弟の急死を機に店は閉店に。

ロックヴィルコーナー
ロックヴィルコーナー

祖母の話を聞くにつれ、被爆者であり、祖父との結婚・渡米を迷っていた祖母が、米国で商売を成功させる程に力を付け、休日にはリノ(Reno)やタホ(Tahoe)に遊びに行く等、すっかり米国生活を堪能していく様を聞き、祖母の逞しさに、僕はひたすら尊敬と驚きを感じるばかりでした。

祖母達のリタイアライフが始まりかけた1992年9月、僕の姉が生まれました。僕の父は一人っ子なので、祖母も祖父も初孫の姉の誕生に大喜びだったとか。その祖父は1995年に肺がんで他界しました。僕達家族は日本在住なので、まだ3か月の胎児だった僕は母のお腹の中で、米国での祖父の葬儀に参列しました。

更に数年後、祖母とアイダホ在住の中村満(Mitsuru Nakamura)さんとが出会い、伴侶を亡くした二人は余生を共に暮らすこととなり、祖母は70歳を過ぎてカリフォルニアからアイダホへと居を移したのです!満さんはアイダホ生まれの帰米二世。この中村ファミリーに関する記載が、冒頭の「米國日系人百年史」アイダホ州の章にあります。

その満さんも2010年に他界し、今は単身アイダホの家に暮らす祖母。

この夏初めて知った祖母の人生。被爆者でありながら、激動の時代の中で日本と米国を生き抜いてきた僕の祖母。ここからまた、新たなHistoryを紡いでいく気がします。

アイダホの家のリヴィングからの景色

 

* * * * *

このエッセイは、「ニッケイ・ファミリー」シリーズの編集委員によるお気に入り作品に選ばれました。こちらが、編集委員のコメントです。

深沢正雪さんからのコメント

筆者の川脇大さんのアイデンティティに興味を持った。しがない邦字紙記者の悪い癖で、ついつい書いた人間の素性が気にかかる。「大」(だい)と書いてDANと読ませるのは、日米どちらで生活しても不便のないように―との米国育ちと思われる親の配慮か。でも川脇家は日本在住で、おそらく本人は日本国籍保持者で、いわゆる日本人として育ったのではないか。

大さんは栃木県に生まれ、祖父母が渡った米国へ1年あまり留学し、日本の大学に進学しながら、戦後、米国に移住した祖母の激動の人生に興味を持ち、この一文を書いた。おそらく英語も堪能な青年なのだろう。その分、米国での生活の大変さもある程度わかり、「祖母の逞しさに、僕はひたすら尊敬と驚きを感じるばかりでした」という感想につながった。でもその言葉を読んで、「日本の日本人」的な意識からこの文章を書いている感じがした。

余計なおせっかいかもしれない。でも、せっかく日米にまたがる素晴らしいルーツをもつのだから、できることなら、日本に住んでいる「日系人」という意識を持ってほしい気がする。外見も書類も、今と何も変わらない。でも、意識の持ち方次第で、川脇さんの“ふるさと”は太平洋を挟んだ「広い世界」になるのではないだろうか。

 

© 2015 Dan Kawawaki

星 76 個

ニマ会によるお気に入り

Each article submitted to this series was eligible for selection as favorites of our readers and the Editorial Committees. Thank you to everyone who voted!

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このシリーズについて

ニッケイ・ファミリーの役割や伝統は独特です。それらは移住した国の社会、政治、文化に関わるさまざまな経験をもとに幾代にもわたり進化してきました。

ディスカバー・ニッケイは「ニッケイ・ファミリー」をテーマに世界中からストーリーを募集しました。投稿作品を通し、みなさんがどのように家族から影響を受け、どのような家族観を持っているか、理解を深めることができました。

このシリーズのお気に入り作品は、ニマ会メンバーの投票と編集委員の選考により決定しました。

お気に入り作品はこちらです。

  編集委員によるお気に入り作品:

  • スペイン語:
    父の冒険
    マルタ・マレンコ(著)

  ニマ会によるお気に入り作品

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