「家族の縦のつながり、考える機会に」
松井みさきさんは、日本の広告代理店勤務を経て単身渡米、現在はニューヨークを拠点に活動している新進気鋭のフォトグラファー。日本で生まれ育った松井さんだが、一時帰国した際、曾祖父が1910年代から1920年代にかけてカリフォルニアに移住し、葡萄園を経営、祖父が写真を撮っていたことを知る。そして、それまで語られることのなかったファミリーヒストリーの調査に単身乗り出した。
7月20日に全米日系人博物館で開催されるトークイベント「100年後のカリフォルニアへ」を前に、スピーカーである松井さんに、ルーツを探った経緯、家族の歴史を知る前と知った後の心境の変化について聞いた。(聞き手:福田恵子)
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Q. お祖父様やお曾祖父様のアメリカ移住をどのように知ったか、その経緯を教えてください。
松井(以下M). 祖父と一度もアメリカの話をしたことはなく、1999年に祖父が亡くなって随分経ってから、父方の祖父と曾祖父が、1910年代から1920年代にかけて、山口県周防大島からカリフォルニアに移住していたことを知りました。彼らは最終的には日本に帰国しています。よって私は日本生まれの日本育ちです。
私が渡米した1年半後に、久しぶりにお墓参りに訪れた周防大島で、伯父から、祖父がアメリカ時代にバイオリンと写真をしていたことを初めて聞かされ、大変驚きました。何も知らずに私はその両方を日本で始めていたからです。
墓参りの後すぐに神戸の実家の納戸を探しました。そして、奥の方から、ビニールの風呂敷につつまれた、祖父の真っ黒い古いアルバムが出て来たのです。セピア色や白黒のアメリカ時代の写真の数々を見たときは、感動のあまり言葉をのみました。それはまるで、深い森を探検中、洞窟の中に宝物を発見したような瞬間でした。
Q. 松井さんご自身がアメリカに渡ろうと思ったのは、何がきっかけでしたか?
M. 2007年に人生の転機があり、自分はこの人生でほんとうにいいのかと考え直し、一番何がしたいのかと、考えに考え、出てきた答えが、写真とニューヨークでした。アメリカに一度も行ったことがなく、ニューヨークに一人の知り合いもいませんでしたが、不安もありませんでした。私の渡米の決意は、祖父の移民時代のことと関係がないのですが、あとで祖父の話を聞き、血やDNAかな、と思いました。
時をこえて同じ風景を見ている
Q. カリフォルニアの先祖が暮らした土地を見に行くことに戸惑いはありませんでしたか?場所を特定するのにどのくらいの期間がかかりましたか?
M. 偶然今、松井家で私だけがアメリカにいて、バイオリンと写真という祖父との2つの共通点に運命的なつながりを感じたため、祖父たちのことを調べ、現地に行って写真を撮り、それらをまとめて親戚に報告すべき、という強い「使命感」のようなものを感じたのです。
伯父が祖父から聞いた話の記憶や、祖父が子供たちあてに書いた手記、またアルバムの写真の横に書かれたメモ、戸籍謄本からの曾祖父の生年月日を頼りに、リサーチを始めました。横浜の海外移住資料館、そしてロサンゼルスの全米日系人博物館に問い合わせをすると、乗船者名簿や、日本人の実業者名簿、センサスデータなどの史料が出て来たのです。曾祖父はシェフののち、葡萄園を経営していました。
また、グーグルマップで葡萄園のあったところや祖父が通っていた小学校の場所を検索しました。
そして、カリフォルニアに写真家として呼ばれたいと思い、バークレイのカラ・アート・インスティテュートのアーティスト・イン・レジデンスに応募し合格、2011年5月に1カ月間オークランドに滞在しました。サンフランシスコでのさらなるリサーチの末、1泊2日で、アムトラックとレンタカーで祖父たちのゆかりの地を訪れ、撮影を行いました。そこで一旦、親戚用に1家に一冊、祖父の手記や写真、史料、私の分も含めた写真集をつくりました。親戚は、よくぞここまで調べてくれた、と大変喜んでくれました。2013年の3月から5月には、JICA横浜の海外移住資料館で、「100年後のカリフォルニアへ -祖父たちの足跡をたどって -」という写真展を開きました。祖父たちの話を聞いてから写真展まで、3年半くらいかかっています。
Q. 実際に土地を訪れて、どのような印象を持ちましたか?そこに自分のルーツがあるという実感のようなものは感じましたか?
M.曾祖父が経営していたレーヨー葡萄園のあったヴァイセリアと、曾祖父がシェフとして働いた石油会社があり、また祖父が編入して通っていた小学校のあるベーカースフィールドなどを訪れました。
不安と孤独の中、広大なカリフォルニアをたった一人で何時間も慣れない左ハンドルを運転し、ついに葡萄園にたどり着いたときは泣けてきました。この原風景は祖父たちがいた100年前とほとんど変わらないのだと思うと、時をこえて同じ風景を見ているのだと思いました。小さな島から大陸へ渡り、何もないところから始めて、最後はこの広い葡萄園を経営するに至った曾祖父たちへの尊敬の念がわき上がって来るとともに、アートの学歴もプロの写真家としてのキャリアもなく、アメリカで同じくゼロから始めた私も、少しずつでも夢をアメリカで叶えていけるかもしれないと思えて、勇気をもらいました。夕焼けのピンク色の空を見ながら、一度も逢ったことのない曾祖父と、一度もアメリカ時代の話をしたことのない祖父と、対話をしているようでした。
祖父たちの懸命な生き様
Q. ご自分のキャリアとプライベートにおいて、先祖がアメリカで生活していたことを知ったことがどのように影響しましたか?心境の変化、自己のアイデンティティーへの影響などありましたらお聞かせください。
M. 曾祖父と祖父は、松井家が破産したため、小さな島から大国へ「出稼ぎ」に渡りました。葡萄園経営の後、曾祖父が病気になったためやむなく帰国、祖父は再渡米しようとしましたが、家族の反対にあい、叶いませんでした。彼は日本の大学を出ていなかったため、日本で教師となるとものの十分な給料が得られず、家族を養うために赴任手当を求めて今度は一家で韓国に12年移住しました。インターネットも飛行機もない時代だったことを考えると、2つの外国に10年以上も住んだのは驚くべきことであり、また、度重なる逆境に屈することなく、時代に柔軟に適応し、職を変え、我慢強くたくましく生きてきた彼らを心底尊敬しました。果たして自分だったらそこまでできただろうか、途中で投げ出していたのではないだろうか、と思いました。彼らが懸命に生きてくれたからこそ、私たちの生命と人生があることに、ほんとうに感動、感謝しました。祖父たちの頑張りを思うと、ニューヨークで弱音など吐けないという気持ちです。
Q. 最後に7月にロサンゼルスのイベントに訪れる方々に向けてメッセージをお願いします。
M. 自分のルーツだけでなく家族についても考えてくださればと思います。家族や親戚と話をすることで、縦のつながりによって自分たちが生かされているということを、頭だけではなく、心で感じて頂くことができればと思います。
また、日本人は辛い過去や戦争時代のことを封印して、孫やひ孫にも語らないことが多いと思いますが、あのとき必死で懸命に生きた、という彼らの努力や「生き様」を語ることで、若い世代に励ましを与え、また若い世代も彼らをリスペクトすることで、日本人の精神性を高め合うことができるのではないでしょうか。時代によってストレスの種類はまったく違うものの、共感し、学び合えることがあると思うのです。日本人は謙虚すぎるところがあるので、日本人精神のよさ、日本文化のよさを、いま自己評価するべきではないでしょうか。「語らない美学」ではなく、「語り合って高める」というフェーズに向かえたらと思います。
松井みさきさんのウェブサイト:www.misakimatsui.com “no moment without hope”
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Back to California after 100 Years with Misaki Matsui
(松井みさき「100年後のカリフォルニアへ」)
2013年7月20日(土) • 2PM
全米日系人博物館 (カリフォルニア州ロサンゼルス)
*イベントは英語で行われます。