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テキサスに夢をみた100年前の日本人: 米作ブームを機に野菜栽培、そして油田も ~その1/4

テキサスと聞いて、何を思い浮かべるだろうか。カウボーイ、バーベキュー、NASA(米航空宇宙局)・・・。ヒューストンなど先端産業で知られる都市もあるが、どちらかといえば、野趣あふれる、昔ながらのアメリカといったイメージが強いのではないか。

Googleマップより

メキシコ湾に面し、全米でアラスカに次いで面積の広いこの州(日本の約1.8倍)は、独立心の強い風土があり、テキサスのアメリカ人はAmerican(アメリカ人)ではなくTexan(テキサス人)だという言葉も聞かれるくらいだ。

そのいかにもアメリカといった土地に、100年以上前、何人もの日本人が大規模な米作りに挑み入植した。

日本が開国してまだ30年余。国内で満たされない夢と情熱を携えて、彼らは個人としてテキサスに乗り込みコロニーをつくった。それはどのようなものだったのか、あまり触れられることがなかったテキサスへの入植について、現地の様子を含めて報告したい。

その前に、テキサスでの日本人の足跡に簡単に触れておこう。19世紀末からのアメリカへの日本人移民は、出稼ぎ的な労働者が中心だったが、テキサスへの移民は、最初から資本を投下して、事業として農業経営をする例が目立つ。当時の国勢調査によれば、テキサス州での日本人の数は、1900年はわずか13人で、1910年には340人、1920年には449人となっている。

事業として農業を興す

入植者は、資産家や事業家、政治家、ジャーナリストなどで、個人の生計のためというより事業として農業の成功を夢見てやって来た。日本が急速な近代化に伴い、狭い国土で食糧問題や人口問題を抱えるなかで、テキサスの広大な土地で米作りをするという、“開拓者精神”に基づく事業である。

テキサス州自体がまだ未開で、米作などによる外部からの開発が歓迎された時代でもあり、各地で米作や野菜作りの日本人農園が生まれた。なかには所有する土地から石油が採掘され、油田開発事業を手がけた例や、メキシコとの境を流れるリオ・グランデ川近くに誕生したコロニーもあった。

これらのなかで、日本での経歴からして有名なのは、西原清東(サイバラ・セイトウ、キヨキとも読まれた)と彼の農園だ。1861年土佐国高岡郡出間村(現・高知県土佐市)出身の西原は、板垣退助らに従い自由民権運動に身を投じ、1898年には衆議院議員となった政治家であり法律家。また、早くから英語を学んでいた彼はキリスト教徒でもあり、1899年には同志社の第4代の社長(現総長)の地位にも就いた。

20世紀の初め、アメリカ南部における米作は、テキサス東隣のルイジアナ州が進んでいて、テキサスもこれに倣い米作を奨励する動きが官民併せて起きた。大手の開発会社は、州内で米作用に土地を分譲し、日本人に入植してほしいと働きかけた。

これを知った当時のニューヨーク日本総領事、内田定槌が現地を視察し、1903(明治36)年「北米合衆国南部諸州ニ於ケル米作情況」などを外務省に報告、テキサスには肥沃で安価で米作に適した土地が広がっていることを知らせた。これが日本でも紹介され、テキサスへの入植の導火線となった。

当時の日本での“海外移民熱”は高く、移民雑誌や移民を奨励する書籍なども出版され、またインテリの間では自由民権運動に対する政府の弾圧から逃れ、自由なアメリカで学び、働くことに惹かれたものも少なくない。

このころ神学勉強のためアメリカ・コネチカット州にいた西原もこの話を聞き、テキサスでの米作経営に興味を抱いた。同年ヒューストン郊外のウェブスター付近にまず300エーカーの土地を取得した。

灌漑設備を造り米作を開始し、拡張していった。野菜や綿花作りも試みた。郷里の財産を処分し、親族にも呼びかけて移住を促し、この地に骨を埋めようと考えていた。しかし、日本人移民に対する排斥の声が高まるなかで、彼の帰化申請は認められなかった。

西原の目はこれを機にアメリカを離れブラジルへと向けられ、今度は家族を置いたままサンパウロ州へ入植しブラジルで農業経営に挑み、約15年苦闘を続けた。その後台湾で農園事業に携わり、晩年はテキサスに帰った。西原農場は、長男清顕に引き継がれ戦争をはさみ60年代まで続けられた。

変わったところでは社会主義者、片山潜もまたテキサスでの農場経営に関わったことがあった。1884年にサンフランシスコに渡った片山は、働きながら学び、その後マサチューセッツなどで苦学し1896年帰国。労働運動に奔走するが、その後、テキサスに渡り1905年には米の栽培をする。アメリカでも社会主義者と接触するなど運動を続ける一方、野菜栽培のコロニーを計画。彼は、農業事業を社会主義の実践ととらえていたようだ。

1903年から始まったテキサスの米作ブームは1908年ごろにはピークを迎えて、その後はコロニーも徐々に減っていった。また、残っても2世までで、普通の農家として続けたのち農業から離れていった。西原農園ほど長く続いた日系の農業経営は珍しい。

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* 本稿は、JBPress (Japan Business Press - 日本ビジネスプレス)(2013年9月3日掲載)からの転載です。

© 2013 Ryusuke Kawai, JB Press

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