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一世の開拓者たち -ハワイとアメリカ本土における日本人移民の歴史 1885~1924- その9

>>その8

排日熱の高まり

渡米した一世達は、習慣も方言も異なるさまざまな県から来ていたが、アメリカ人から見れば、日本人は皆、同国の同一人種でしかなかった。アメリカ上陸と同時に、日本人は人種偏見、差別、隔離と様々な困難に直面した。

三森仁甫がサンフランシスコに上陸したのは1905年のことだった。日本人移民たちが下船するとき、15人から20人の白人少年グループが待ち構えていた。彼らは日本人移民に暴力を振るうため、定期的に港に来ていたのである。「ジャップがきたぞ!やっちまえ!」少年達は大声を張り上げながら道端にある馬糞をつかみ、三森と友人達に投げつけた。「僕はアメリカに上陸して、馬糞で洗礼を受けました」と、三森はアメリカの第一印象を語った。1

白人労働者階級は、東洋人移民に経済的脅威を感じており、日本人は第一の標的となった。当時のアメリカ議会産業委員会は、「1882年のいわゆる中国人排斥法の立法化で西部沿岸への中国人苦力(クーリー)労働者流入を一時的に止めることができたが、(中略)中国人苦力の代わりに日本人が殺到するようになった。日本人移民労働者は中国人同様、アメリカ人労働者を脅かしている。日本人は、静かに我々の注意を引くこともなくこの国に忍び込み、西部沿岸のあらゆる商売に手を拡げている。」2

1890年から1900年の間に、日本人移民の数は2,039人から24,326人と著しく増加した。その後10年間でさらに3倍も増加したが、それは主にハワイ経由で間接的に大陸に移住した人々であった。1920年には、アメリカ本土の日本人人口は11万1,010人となり、その大多数はカリフォルニア(全体の65%)を中心とする西部沿岸各州に居住していた。しかし、日本人が全人口の43%を占めていたハワイとは異なり、アメリカ大陸の日本人は全人口の0.1%に過ぎなかった。

西部沿岸で最も有力な新聞として知られていた「サンフランシスコ・クロニカル」紙は、1905年2月23日付の第一面に「日本人のアメリカ侵略。目下の大問題」と日本人移民への恐怖を大きく書き立てた。同紙はさらに「日露戦争が終れば、黄色い日本人移民がわが国へ向かう小さな流れが猛威を振るう大激流となるであろう」と警告した。その後も似たような記事が毎日みられた。

新聞記事に先立ち、サンフランシスコで開かれた1904年度全米労働者連盟(American Federation of Labor)総会では、中国人排斥法に日本人と韓国人を加える運動を組合員一同が動議した。組合の機関誌、「アメリカンフェデレーショニスト」はアメリカ労働運動から日本人を排除する事を主張し、その理由を次のように説明した。

「彼らの神はキリストにあらず。彼らの希望、理想、愛国心は、キリストとは何ら関係がない。(中略)この国の利害が彼らのものに一致する事はありえない。日本人は組合加盟不可能である。もちろんアメリカ社会の一員になることも。」3

1903年に発生したオクスナード・ストライキは、全米労働者連盟が断固として東洋人を加入させない事を示すよい例であった。当時カリフォルニア州オクスナード近辺は砂糖大根の産地であったが、低賃金に苦しむ日本人及びメキシコ人農場労働者が共同で日本メキシコ労働組合(Japanese-Mexican Labor Association)を設立し、全労働者の約90%が一斉にストを決行した。どうしようもなくなった農業経営者側は、ストライキ発生1ヶ月以内に賃上げを約束した。

ストライキ成功で勇気づいた労働組合のメキシコ人書記、J.M.リザラスは、全米労働者連盟会長サミュエル・ゴンパーズに支部申請を行ったが、ゴンパーズの回答は条件付き受け入れだった。その条件とは、中国人や日本人労働者を組合から排除する事であった。4

それに対し、リザラスは次のような書簡をおくった。「日本人は、労働者間協力と賃上げ運動の重要性を最初に理解した同志である。(中略)我々は、人種偏見を取り除き、日本人同志を対等に迎え入れる労働組合で無ければ、加入する事はできない。」5

結局、日本メキシコ労働組合の支部申請は却下された。

その2年後、反日運動は一層の高まりを見せた。白人67団体代表者がサンフランシスコに集まり、アジア人排斥同盟(Asiatic Exclusion League)を組織したのである。これは、もともと日韓人排斥同盟と呼ばれていたもので、以前から労働組合からの日本人排除を主張していた。アジア人排斥同盟に発展してからも議会への法案提出、宣伝、ボイコットなどを通じて、日本人移民排斥という一点にその活動を集中した。

1906年、アジア人排斥同盟の圧力のもと、サンフランシスコ教育委員会は全ての日本人と韓国人を白人児童から隔離し、中国人のために作られた隔離学校に通わせると発表した。この処置は、当時、日露戦争に勝利し、世界の大国の一つに仲間入りしていた日本の神経を逆なでするものであった。そのため、時のセオドアルーズベルト大統領はこの問題に介入した。サンフランシスコ教育委員会当局による日本人学生隔離命令の裏には、増加する日本人移民の問題があったことは誰の目にも明らかだった。ルーズベルト大統領は妥協策として、もし教育委員会が隔離命令を撤回し、カリフォルニア州議会が反日法案を通過させなければ、連邦政府は日本人移民流入を制限すると約束した。

ルーズベルト大統領はその言葉通り、1907年3月14日、行政命令によってハワイ、カナダ、メキシコ経由の日本人移民のアメリカ本土上陸を禁止した。その一方で日本政府とも交渉を重ね、やがて「日米紳士協定」を結び、日本政府に新規労働者移民への旅券発行を自粛させた。しかし、一部の定住農民、留学生、外交官、貿易商、旅行者、そしてそれまでアメリカに滞在していた移民とその家族にたいしては旅券発行が継続された。6しかし、この協定がこの後「写真花嫁」と呼ばれる何千もの日本人女性渡米の契機となるだろうなど、大統領には予想できなかったのである。 

その10>>

注釈
1. 三森仁甫インタビュー。Michiyo Laing, Carl Laing, Heihachiro Takarabe, Asako Tokuno, and Stanley Umeda編、Issei Christians (1977)129ページ。
2. Yamato Ichihashi著、The American Immigration Collection(スタンフォード、1932)160ページ。
3. Yuji Ichioka著、The Issei: The World of the First Generation Japanese Immigrants, 1885-1924(ニューヨーク、1988)100ページ。
4. Tomas Almaguer著、“Racial Domination and Class Conflict in Capitalist Agriculture: The Oxnard Sugar Beet Workers’ Strike of 1903,” Labor History XXV、1984、345ページ。
5. 同346-347ページ。
6. 日米紳士協定についての詳細は、Roger Daniels著、The Politics of Prejudice(バークレー、1977)31-45ページを参照。


*アメリカに移住した初期の一世の生活に焦点をおいた全米日系人博物館の開館記念特別展示「一世の開拓者たち-ハワイとアメリカ本土における日本人移民の歴史 1885~1924-」(1992年4月1日から1994年6月19日)の際にまとめたカタログの翻訳です。

© 1992 Japanese American National Museum

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