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一世の開拓者たち -ハワイとアメリカ本土における日本人移民の歴史 1885~1924- その8

>>その7

アメリカ本土への旅: 出稼ぎから定住へ

日本人移民の多くはハワイにとどまりそこを安住の地としたが、一方でハワイより倍の賃金を貰えるアメリカ本土への渡航を考える者も多くいた。1890年から1900年の間、日本人はシアトルやサンフランシスコに大挙して押し寄せたが、時を同じくして、ニューヨークのエリス島にはヨーロッパの南部や東部から、沢山の移民が渡って来ていた。

当時は、世界中の人々がアメリカへアメリカへと向かっていた時期であった。 国内工業が発展するアメリカには仕事が溢れ、世界中の大志を抱く者に夢と希望を与えていた。政治的混乱、経済的困難に苦しむ国の人々は、渡りに船とばかりに続々とアメリカを目指したのである。1

その内の一人、オーストリアハンガリー出身のチェコスロバキア人、チャールズ・バチュネックは「私の国では一般市民には全くチャンスがなかった。何となく生きて死ぬだけの一生だった。」と渡米の理由を語っている。2

また、同郷のセオドア・ルービックは別の理由を挙げた。「若い青年達は次々に軍隊に引っ張られて行った。でも、僕は召集の前にアメリカへ逃げたんだ。」3

ローマン・ウメッカも思い返す。「第一次大戦後、ポーランドは破壊され貧乏国になった。1921年に除隊したものの就職口がありゃしない。でも、まさか自分がアメリカくんだりまで来るとは夢にも思わなかったよ。」4

リトアニア出身のレオン・ソロモン曰く、「ユダヤ人は皆共通の希望を抱いていた。人間として進歩も将来もないロシア皇帝による独裁政治から逃げ出すこと。そして、自由の国、希望の国に渡って行くこと。」5

始めは、ヨーロッパ系移民もアジア系移民も、ほとんどの者はアメリカに永住する意志はなかった。彼らは同じ夢を持つと同時に、愛する人を後に残した心の痛みを分かち合っていた。

ポーランドの移民たちは家族への思いをこのような歌に表現した。

アメリカを後にして旅立ったあのとき
汗水垂らして働いた鋳物工場を去ったあのとき...
間もなくニューヨークに到着し 
故郷への渡航斡旋所へ...
そしてやっとベルリンを離れクラカウへ向かった
そこには女房が迎えに来ていた
でも子供達は私を覚えていない
見知らぬ他人と思い逃げる
「愛する子供たちよ、私は君達のパパだよ
離れてもう3年になるんだな」6

中国移民は、1852年にアメリカへ旅立った男達を歌った「カリフォルニア(黄金の山)の唱」を口ずさんだ。

皇帝ハムフング即位2年後に   
黄金の山への旅が始まった
俺は肩に枕を乗せて
冒険の道を歩み始めた
竹棒を漕いで海を渡り
金を求めて女房姉妹を置き去りにして
もう女とベッドに寝ることもできない
もう両親に孝行することもできない...7

1906年、大城チョーキは沖縄からハワイに渡った。彼の船が地平線の果てに消えてゆくまで、母と親戚の女達は悲しみの歌を歌い踊った。のちにそれを知人から聞いた彼は、ただ泣くばかりであった。

愛する我が子が
この日 出度い船に乗る  
この旅が 無事故の航海となりますように
あたかも絹の糸に導かれているかのように
つつがなく...8

通常、ヨーロッパ諸国から渡米した移民は、母国では中流階級からその少し下の人が多かった。極貧の者は旅費すら出せず、逆に金持ちは富の損失を恐れ国外へ脱出しなかった。日本人移民は比較的金銭に恵まれている者が多く、義務教育制度のおかげで他の移民グループよりも教育水準は高かった。9ヨーロッパ人同様、日本人もアメリカに永住するつもりはなく、数年の間、家族のために異国で厳しい労働に励む気持ちで来ていた。

しかし、ヨーロッパ人移民と日本人移民の間には一つだけ決定的な違いがあった。日本人は「帰化不能外国人」として扱われていたのである。1790年にアメリカ議会は、市民権取得の権利を「自由な白色人種」のみの制限した。1870年、「アフリカ生まれの外国人、またはアフリカ人の子孫」にも同様の権利が与えられた。しかし、日本人や中国人は東洋人であるがゆえに、アメリカ市民権取得資格は与えられていなかった。永久に「外国人」であると法によって定められた以上、彼らには政治に対する発言権すらなかった。

あくまでもアメリカを白人の国として守っていくのが、建国の父たちの意向であった。1751年、ベンジャミン・フランクリンは、将来のアメリカの人種構成について次のような発言をしている。「なぜアフリカ黒人をアメリカに連れて来て、彼らの子孫を増やさなければならないのか。黒人やアジア人を排除すれば、素晴らしい白人を増やせるではないか。」10

ヨーロッパ南部と東部から新たに到着した移民達は、アメリカ東北部に職を求めた。一方、日本人一世たちは主に西部沿岸に渡り、農業、漁業、炭坑業、製材業、鉄道工事や保線などに従事した。彼らは日本人だけのグループを作り、まとまって一緒に生活し、その中に、慰め、友情、民族的プライドを見つけていた。

その9>>

注釈:
1. 詳しくは、John Bodnar著、The Transplanted: A History of Immigrants in Urban America(インディアナ、1985)を参照。
2. David M. Brownstone, Irene M. Frank and Douglass L. Brownstone共著、Island of Hope, Island of Tears (ニューヨーク、1979)17ページ。
3. 同63ページ。
4. 同82ページ。
5. 同52ページ。
6. Takaki、前掲書、35ページ。
7. Marlon Hom著、Songs of Gold Mountain (バークレー、1987)39ページ。
8. 大城チョウキ、インタビュー。Uchinanchu、404ページ。沖縄弁の原文は、「カリユシヌ ナシグヮ、カリユシヌ フニニ タビヌイチ、イチムドゥイ ムドゥイ イチュウニヱカラ。(漢字不明)」
9. 日本の義務教育制度は1872年に法律で定められた。
10. Takaki、前掲書、16ページ。


*アメリカに移住した初期の一世の生活に焦点をおいた全米日系人博物館の開館記念特別展示「一世の開拓者たち-ハワイとアメリカ本土における日本人移民の歴史 1885~1924-」(1992年4月1日から1994年6月19日)の際にまとめたカタログの翻訳です。

© 1992 Japanese American National Museum

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