>>その15
アメリカ政府は写真結婚を法的に認めなかったため、ハワイでは女性たちが到着すると直ちに移民局、ホテルのロビー、教会、波止場などで集団結婚式が挙げられた。牧野金三郎は「布哇報知」創刊号で、この流れ作業のような結婚式に意義を唱えた。「個人の自由と権利が許され、信教の自由が認められているならば、人間一生の最大事である結婚式こそ、夫婦となって家庭生活の第一歩を踏み出そうとする人たちの、希望する宗教の司式に任すべきである。」1 結局、日本人社会の度重なる抗議で集団結婚式は1917年に廃止された。
アメリカ本土では、洋服屋が一世女性の最初の立ち寄り先であった。そこで彼女たちは着物と草履を脱ぎ捨て、腰当て、ボタン止めの靴、ヴィクトリア風のドレスを身に着けた。シアトルのN. P. ホテル経営者、田妻文四郎の記憶によれば、1924年排日移民法が効力を発揮する直前の夏の4ヶ月間は、シアトルだけで3,000人もの日本人花嫁が上陸する忙しさだった。日本人街はお祭りのような雰囲気で大騒ぎだった。婦人用の既製服を売る店は24時間ぶっ通しで店を開け、縫い子たちは服の手直しに大忙しだった。田妻はその時の写真花嫁たちの様子を思い出す。「服の方は何とか間にあったが、困ったのはクツだった。サイズの小さいのがないので、大きなクツをはき、ゴーツリ、ゴーツリと、まるでアヒルの行列を見るようであった。」2
一世の家屋は街であろうが田舎であろうが、あるいはハワイであろうが本土であろうが、実に粗末なものだった。「やれやれ。」山内ツルがハワイのワイパフ砂糖きび耕地35番キャンプで、最初に言った言葉がこれだった。彼女の新しい家は故郷沖縄のそれより、はるかに貧弱なものだった。長い窓のない建物を小さな部屋に仕切り、そこに20人以上の労働者が住んでいた。夫婦用の部屋にはベッドもなく、布団を敷くとそれで一杯だった。3
向井キヨノが最初に住んだのは納屋だった。そこには馬が片側にいて、向かい側が彼女夫婦の寝泊りするところだった。ある朝、納屋の持ち主の夫人に寝心地を聞かれ、キヨノはきゅう肥の匂いで一睡もできなかったことを告げた。すると、その婦人はキヨノの背中をたたいて笑って言った。「おめでとう!あんた、おめでただよ。」キヨノはきまり悪さで顔を赤くするばかりだった。4
隣の家が何マイルも向こうにあるような所に住んでいた女性達は、いつも寂しさと郷愁を心に抱き毎日を過ごしていた。向井キヨノも遠くに汽笛を聞く度に、その汽車に乗って日本へ戻りたいと思った。また、うずらが「おかか、おかか」と鳴くのを聞くと本当に寂しくなった。烏ですら、「おっかあ、おっかあ」と鳴くのだと感じたのである。5
近隣は五哩のかなた人を見ぬ
いく日つづきて今日も昏れぬる6
もしキヨノが日本で暮らしていたら、嫁の義務として婚家の姑から家訓を教わり、その指示や命令に従わなければならなかったはずである。儒学者中江藤樹によれば、男が妻をとる理由は、その女が親の世話をし、家を継ぐ子を産むからであった。7 したがって、もし姑と嫁の間に問題が起きたとすれば、キヨノの夫も姑側につくことであっただろう。
しかしアメリカでは、キヨノは他の一世の女性たち同様、姑や小姑たちと揉めることなく過ごせた。またある一世女性の場合、もし日本で嫁に行ったら姑がいるので、強情な彼女ではとてもつとまらないと父親が考えていた。それで、姻戚者たちと一緒に住まなくてもよいアメリカに来ることにしたのである。彼女の強さがあれば、困難にも打ち勝っていけるであろうと信じていたのだ。8
注釈:
1.牧野金三郎伝編纂委員会編、「牧野金三郎伝」(ハワイ、1965)25ページ。
2.田妻文四郎。伊藤一男著、「北米百年桜」258ページ。
3.山内ツル、インタビュー。Uchinanchu、489ページ。
4.向井キヨノ、インタビュー。(1981年7月8日カリフォルニア州フォウラー)
5.同。
6.富田貞子。伊藤一男著、「北米百年桜」518-519ページ。
7.R. P. Dore著、City Life in Japan(バークレー、1958)98ページ。
8.匿名インタビュー。(1974年9月20日サンフランシスコ)
*アメリカに移住した初期の一世の生活に焦点をおいた全米日系人博物館の開館記念特別展示「一世の開拓者たち-ハワイとアメリカ本土における日本人移民の歴史 1885~1924-」 (1992年4月1日から1994年6月19日)の際にまとめたカタログの翻訳です。
© 1992 Japanese American National Museum