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一世の開拓者たち -ハワイとアメリカ本土における日本人移民の歴史 1885~1924- その17

>>その16

女性と労働

一世女性達がアメリカの家に来ると待っていたのは重労働であった。ほとんどの一世家庭には、女性を家事専門にするだけの経済的余裕はなかった。街に住む女性たちは女中、皿洗い、縫い子、あるいは洗濯女として働いた。地方の女性は、夫達と共に畑で土を掘り起こし、種を蒔き、草をむしり、水を引き、刈り入れをする毎日だった。

一世が居を構えた所では、女性たちは生活向上のために重要な役割を果たした。アメリカで生き残るには、夫婦二人の努力が不可欠であり、一世女性の収入がその家庭の経済状態を左右することも多かった。1オレゴン州ポートランドに住む三吉節二も、夫人が単なる「妻」と言うより重要な「労働力」でもあったと認めたが、それは多くの一世男性の声を代弁するものであった。2

一世女性は、まったく新しい環境で自分たちの成し遂げた事を誇りに思っていた。岩月静恵は言う。「主人を助け、自分でも驚くほど働いた。働かねば食べてゆけなかった。主人が仕事に失敗した時には、再起のため私もなおいっそう働いた。何百ドルという農具を買うために、自動車で走りまわった。私は当地で自動車を運転した日本婦人の第一号であった。」3

別の女性もこう自慢する。「私ほどよく働いたもんはいなかった。見渡す限りに広がる40エーカーの土地を開墾した時のことを覚えているよ。...雑草は全て焼きはらわないといけなくてね、全部一人でやったよ。子供を連れてね。集めては燃やし、集めては燃やし...」4

草原や沼さえ拓きアメリカに苦闘せし代も遥けくなりぬ5

男たちと肩を並べ仕事をするにつれ、一世女性はだんだん自分の力に自身を持ち始めた。井上リカエは、地方の市場に始めて野菜を売りに行ったときの狼狽振りを今でも覚えている。「目の前にいるお客の顔が見れなくてね。...一人もお客が来ないんで、背中を向けて靴の紐を結ぶふりをしたんだよ。」客が来ると彼女の隣に店の夫人が知らせてくれた。

「井上さん、お客さんだよ。」その客の相手をしてから彼女は再び背中を向けた。その後も客に背中を向けて過ごす土曜日を何度か経て、やっと品物に目をやる客の姿を観察できるようになった。それからは客の顔を見ることも恐れず、「今日は何にしますか」と笑顔で尋ねることができた。6

Kings Hand Laundry (Left to right): Tazu, Susie, Sakutaro Tagawa, and Mr. Uyehara. (Gift of Naomi Tagawa, Japanese American National Museum [93.24.4])

二世の誕生

「子供を育てながら農場で働く人達の世話もしたもんですよ」と鷲津タカエは語る。「朝の4時に起きて、7時までに労働者と子供のために朝食をつくったよ。...食事の後片ずけをすると農場へ出かけて働いて、昼食と夕食の1時間前には家に戻ってまた食事の支度をした。風呂に入るのはいつも最後で、毎晩柳の木にかけたランプの灯を頼りに洗濯をしたもんだ。床につくのは大抵真夜中だったよ。」7

実家や婚家の助けのないアメリカでは、子供の世話は一世の女性達にとって大きな問題だった。しかたなく、多くの女性は子供を仕事へ連れて行った。ハワイにいた真子オサメの記憶によれば、一世女性たちは子供を帯で机に縛り付け、コーヒー豆をより分ける仕事を行なった。8また、お互いに交代で子供の世話をする女性もいたし、子供達を家において仕事に出ざるをえない者もいた。向井キヨノは昼休みに息子に乳をやろうと帰って来て、息子が見当たらないので仰天した。家中を必死に探しまわっているうち、やがて赤ん坊の泣声が聞こえた。「どんなにホッとしたことか!」子供は壁とベッドの間の床に挟まって身動きが取れなかったのであった。

どうしても自分で世話ができない場合、保育園や下宿屋に子供を預けることもできたが9、なかには日本の実家で世話をしてもらうように子供だけを故郷へ送った親たちもいた。

殆どの一世男性は育児に関わらなかったが、出産に立ち会う者は相当いた。特に、医者や助産婦がいなかったり、いても費用がかかる地方では、しばしば夫が子供を取り上げなければならなかった。岡崎ギンの夫は、以前に経験がある友人から次のような助言をもらい出産を手伝った。「ヘソの緒の切り方が重要でね。糸でまずへその緒を二ヶ所、ぎっしり結ぶ。ハサミでその中間をぷつんと切る」10

助言のおかげで、ギンのお産は無事に済んだ。日本の習慣では、産後21日間は休むのが普通だったが、彼女は仕事があったので休んだのはたったの3日間だった。ギンはこれ以降4人の息子と4人の娘を生んだが、必ず夫がお産に立ち会い、熟練した助産夫の役割を果たした。

当時、幼児死亡率はとても高く、多くの子供が百日咳、ジフテリア、小児麻痺、はしかなどで幼い命を失っていた。ハワイでは貧しい食事が農園に住む子供たちの健康を損なっていた。それでもある農園では母親たちは子供を病院には連れて行かなかった。彼女たちは、そこの医者を陰で「獣医」と呼んで全く信頼していなかった。11

一世たちは病気を治すのに西洋医学より民間療法に頼ることが多かった。田村頼助は「内容のわからない横文字のクスリより、幼い頃からなじんだ売薬を手離さず、柳行李にしまいこむのだった」と回想する。12

ハワイ各島では、日本の薬を売る商人が耕地キャンプや家々を戸別に訪問し注文をとっていた。氏家キクジも富山県産の薬が詰まった袋を背負って各地を回った。当時の薬のうち、例えば「ハンゴントン」は胃の痛みに効き目があり、「婦人湯」は見慣れない木の実や種を細かく砕き混ぜ合わせたもので、煎じて産後の女性に飲ませた。もっとも人気のある薬は風邪や流感の薬である「カゼフルサン」だった。氏家は3ヶ月ごとに顧客を訪問し、集金と薬の補充を行なった。13

その18>>

注釈:
1.Timothy J. Lukes, Gary Y Okihiro共著、Japanese Legacy:Farming and Community Life in California’s Santa Clara Valley(クペティノ、1985)、及びMoriyama著、Imingaisha、109ページ参照。
2.三吉節二。伊藤一男著、「北米百年桜」624ページ。
3.岩月静枝。伊藤一男著、「北米百年桜」596ページ。
4.Akemi Kikumura著、Through Harsh Winters(ノバト、1981)43ページ。
5.福沢葉子。伊藤一男著、「北米百年桜」810ページ。
6.Rikae Inouye, Eileen Sunada Sarasohn共著、The Issei: Portrait of a Pinoneer(パロアルト、1983)135ページ。
7.鷲津タカエ、インタビュー。Sarasohn、前掲書、112ページ。
8.真子オサメ、インタビュー。Hanahana、158ページ。
9.Memories of Children’s Home, 1919-1928: Guadalupe, California(バークレー、1986)、及びタケオ・シンモト、インタビュー。(1990年2月22日カリフォルニア州ウォールナット・グローブ)
10.岡崎ギン。伊藤一男著、「北米百年桜」315ページ。
11.キナ・マツ、インタビュー。Uchinanchu、449ページ。
12.田村頼助。伊藤一男著、「北米百年桜」916ページ。
13.氏家キクジ、インタビュー。エスニック・スタディーズ・オーラル・ヒストリープロジェクト(ESOHP)1979年10月4日。

*アメリカに移住した初期の一世の生活に焦点をおいた全米日系人博物館の開館記念特別展示「一世の開拓者たち-ハワイとアメリカ本土における日本人移民の歴史 1885~1924-」(1992年4月1日から1994年6月19日)の際にまとめたカタログの翻訳です。 

© 1992 Japanese American National Museum

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