ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/932/

証拠の強み (英語)

(英語)委員会(CWRIC)が行った、強制収容経験者に対する聴聞会は、大変興味深い内容でした。そこで語られた内容の多くは、既に周知のことでした。証言者の多くは、彼ら自身の体験や苦しみ、そして不当な措置といった、個人的な体験を話しました。そのような情報は、人々の口から語られるべきことだったので、議会がこのような聴聞会の必要性に気付いたことを、私はうれしく思いました。一方、再審裁判ケースの重要性はさらに高く、それは、日系人に直接不利益をもたらした、国家権力の乱用があったことを示していました。政府が行った証拠の隠滅、または隠蔽(いんぺい)は、著しく非道な行為でした。そして、政府がそれに反論することなく、その不正行為を間接的に認め、先の有罪判決を覆したことは、とても残念なことです。もしその証拠が実際に裁判に持ち込まれ、公にすることができれば、より影響力があっただろうと思うのです。


リドレス運動

日付: 2001年7月13日

場所: 米国、ワシントン州

インタビュアー: アリス・イトウ、ダリル・マエダ

提供: Denshō: The Japanese American Legacy Project.

語り手のプロフィール

ビル・ホソカワ氏は、1915年ワシントン州シアトルに生まれました。ホソカワ氏は若くしてジャーナリズムに関心を持つようになりましたが、ワシントン大学在籍中、担当教授は彼に、ジャーナリズム専攻をやめるよう促しました。当時のアメリカには、日系人を雇ってくれる新聞社はないだろう、ということがその理由でした。ホソカワ氏は、その助言を拒否しましたが、1937年の卒業と同時に、教授の言葉が正しかったことを悟りました。

1938年、ホソカワ氏は英字新聞の立ち上げに携わるため、シンガポールへ赴きました。その後彼は中国の上海に移り住み、アメリカの雑誌社で働きました。彼がシアトルへ戻ったのは1941年、真珠湾攻撃の5週間前でした。

ホソカワ氏は、妻と当時まだ乳飲み子だった息子と共にワイオミング州のハート・マウンテン強制収容所に収容されました。彼は収容所新聞、「ハート・マウンテン・センチネル」の編集者となりましたが、後にアイオワ州デモインの新聞社に雇われることになり、収容所から釈放されます。1946年、ホソカワ氏はコロラドに移り住み、その後38年に亘りデンバー・ポスト紙の編集者を務めました。

ホソカワ氏は強制収容の体験をもとに複数の本を出版し、パシフィック・シチズン紙では、差別を題材としたコラムを50年以上担当しました。ホソカワ氏は2007年に92歳で亡くなりました。 (2008年4月5日)

クリフォード・ウエダ

人々の考えを改めさせたジョン・タテイシ氏の役割り(英語)

政治活動家 (1917 - 2004)

クリフォード・ウエダ

補償が残した遺産(英語)

政治活動家 (1917 - 2004)

フランク・エミ

「しかたがない」意識を超えて (英語)

徴兵忌避者。ハート・マウンテンのフェア・プレイコミティのひとり(1916-2010)

ウィリアム・ホウリ

訴訟を行うことで人権回復のための基準を設定(英語)

政治活動家(1927-2010)

ノーマン・ヨシオ・ミネタ

初期の戦時民間人転住勾留委員会(CWRIC) (英語)

アメリカ合衆国元運輸長官(1931年生)

ノーマン・ヨシオ・ミネタ

法案442 (英語)

アメリカ合衆国元運輸長官(1931年生)

ノーマン・ヨシオ・ミネタ

最後のハードル、レーガン大統領 (英語)

アメリカ合衆国元運輸長官(1931年生)

ジミー・ムラカミ

補償金について(英語)

(1933-2014) 日系アメリカ人アニメーター

カズム・ナガヌマ

彼の妹は家族のために賠償金を確保した

クリスタル・シティに収容された日系ペルー人(1942年生)