ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/449/

仏教寺院と地方の学校で受けた教育(英語)

(英語) 私が6歳になると、日本語の読み書きや日本の習慣、文化を学ばせるため、両親は私をカリフォルニア州グアダルーペの仏教寺の寮に預けたんです。6年間もシュギョウですね、勉学にいそしんだ訳です。子供たちはみんな6歳で親元を離れたんですよ。その年頃の子供たちにはそれはとても辛いことでした。自分の家に帰りたがってみんな毎日泣いていたんです。そしてやっと6年後に寮が閉鎖することになり、みんな家に帰ることができたんです。

家に帰った頃には私は12歳になっていて、それほど遠くないところにある地方の学校に通い始めたんです。学校までの1マイル(約1.6km)くらい歩きました。母がサンドウィッチを作ってくれたので、登校時間に間に合うようにそれを食べながら急いで通学してました。その学校では、1年生から8年生まで同じ先生が教えていました。ニューヨークから来たばかりの背が高くて大柄な先生で、休みの日になるとその先生の呼びかけで1品持ち寄りパーティーをしていました。感謝祭やハロウィン、クリスマスには親たちが料理を持ち寄り、それを食べ終えると先生が、「みんなで踊ろう。6歳の子たちもみんなでだよ。」なんて言ってね。それがきっかけで私はダンスを始めた訳ですけど、それがすごく楽しかったんです。先生の奥さんがピアノで伴奏をしてくれていました。


仏教 教育 宗教 (religions) 宗教建築 宗教団体

日付: 2005年12月6日

場所: 米国、オレゴン州

インタビュアー: アケミ・キクムラ・ヤノ

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

アリスの両親は熊本県からカリフォルニアへ移住し、セントラルコーストで農業を営んでいました。そこで生まれた彼女は、6歳の時、グァダルーペの近くにあった仏教寺院の寮へ預けられ、12歳になるまでそこで日本語の読み書き、習慣、文化などを学びました。その後、地方の学校へ通いました。感謝祭、ハロウィン、クリスマスの時に常にダンスをする機会に恵まれ、ダンスへの興味を深めるようになりました。その後、サンフランシスコで発声練習のクラスをとり、未来の夫となるポートランド在住、10歳年上のマークに出会いました。彼の押しに負け、三日後に婚約、2週間後に結婚しました。1941年の真珠湾攻撃を機にアメリカは参戦。アリスとマークは家畜小屋に建てられたポートランドの集合センターへ移動するよう通告されました。2週間後、東オレゴンのテンサイ農場に夫とともに労働者として移動することになりました。アリスはそこでは唯一の女性であり、収穫は骨の折れる仕事だったと述べています。戦後は、不毛の地を土壌改良し、その努力も報われ、ついにはグラジオラス球根の最大の農園ができるまでになりました。1981年にマークが亡くなった後、アリスは幼い頃のダンスへの興味を復活させ、90代になっても世界各地で行われている社交ダンスの大会へ出場し続けていました。2018年8月16日、104歳で亡くなりました。2018年10月)

ヘンリー・須藤

無我夢中で頑張った戦後

日本帝国軍とアメリカ軍両方へ従軍(1928-2008)

BJ・コバヤシ

弁護士から開発業者へ(英語)

ハワイのビジネスマン、開発者

ススム・“スス” ・イトウ

仕事を探していた時に感じた差別 (英語)

日系二世、第442連隊戦闘団に所属し第二次世界大戦に従軍(1919 - 2015)

ススム・“スス” ・イトウ

上司の招きでハーバード大学の教員に(英語)

日系二世、第442連隊戦闘団に所属し第二次世界大戦に従軍(1919 - 2015)

フミコ・ハチヤ・ワッサーマン

隣人の庭で日本語学校を始めた母(英語)

日系三世、カリフォルニア州ロサンゼルス郡最高裁判事

ミツエ・ヤマダ

「ノーーノー・ボーイ」となった兄の理由(英語)

帰米二世、詩人、活動家(1923年生)