ディスカバー・ニッケイ

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インタビュー

アリス・スミダ

アメリカ最大のグラジオラス球根農園の設立者 (1914-2018)

テンサイ農場で学んだ農作業(英語)

(英語) 集合センターに収容されてから2週間くらい後、テンサイ農場の人が来たんですね。オレゴン州ニッサのテンサイ農場で労働可能な男性を募集していたんです。それで夫が、「ここ(集合センター)で病気になってしまう前に出て行くいい機会じゃないか」と言ったので、女性の志願者は私だけでしたが、私も農場で働くことにしたんです。

最初に志願したグループは、夫を含め約20人ほどの男性で、唯一の女性が私でした。そして夜になり、私たちは列車に乗せられたんです。車内のブラインドは全部下ろされ、列車がどこに向かっているのかは分かりませんでした。翌朝、私たちはオレゴン州のニッサに着いていました。列車を降りると、家族ごとに寝起き用のキャンバス地のテントがあてがわれ、その中には簡易ベッド2台と、華氏100度(約37℃)以上の気温だというのにまきストーブがあったんです。夏の間ニッサはものすごく暑くなるんですけどね。そして私たちは、ズボンや靴、帽子などの作業着、鍬ややすりを揃えるよう言われたので、ホームセンターのような金物販売店まで急いで行って買い物したんです。私たちで店のものを買い占めたような感じでしたね。

そして次の日の朝6時には農場の人がトラックで迎えに来て、トラックの荷台にみんなで乗り込んで農場まで行ったんです。農場に着くと、テンサイはこのくらい伸びていて(地面から10cmほど)、簡単に間引くことができたんです。テンサイ1本を残して1フィート(約30cm)間隔で残りを全て間引いていったんです。作業を進める間中ずっと腰を曲げていなければならなくて、それはもう本当に骨の折れる仕事でしたよ。

私たち夫婦の他にはウチヤマさん一家がいました。家族構成はお父さん、お母さん、それから子供たちが6人位いて、ウチヤマさん一家は農作業にすごく慣れていて、どんどん先に進んでテンサイが植えてある列をすばやく行き来していたんです。夫と私はなかなか先に進めなくて、1本間引いては次のテンサイの位置を整えて、そして次を間引いて、なんてことを繰り返していて、ひどいものでしたね。

それである日私は、「よし、もっと上手くやらなきゃ。もうちょっと作業のスピードを上げよう」なんて決心したんですよ。でも、そんな決意で作業していたのに、ある日もう少しでブルスネーク(アメリカ大陸に分布する大蛇)を刈ってしまいそうになったんです。そのブルスネークはテンサイ畑でとぐろを巻いていて、最初は「あら、」と思ったんですが、次の瞬間私は「わー!」と大声で叫んで畑から全速力で走って飛び出したんです。それで、「もう農場の仕事はできないわ。これ以上は無理」と夫に言ったんです。とにかく私たちの作業のスピードはすごく遅かったので、時給35セントしか支払われませんでした。


日付: 2005年12月6日

場所: 米国、オレゴン州

インタビュアー: アケミ・キクムラ・ヤノ

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

アリスの両親は熊本県からカリフォルニアへ移住し、セントラルコーストで農業を営んでいました。そこで生まれた彼女は、6歳の時、グァダルーペの近くにあった仏教寺院の寮へ預けられ、12歳になるまでそこで日本語の読み書き、習慣、文化などを学びました。その後、地方の学校へ通いました。感謝祭、ハロウィン、クリスマスの時に常にダンスをする機会に恵まれ、ダンスへの興味を深めるようになりました。その後、サンフランシスコで発声練習のクラスをとり、未来の夫となるポートランド在住、10歳年上のマークに出会いました。彼の押しに負け、三日後に婚約、2週間後に結婚しました。1941年の真珠湾攻撃を機にアメリカは参戦。アリスとマークは家畜小屋に建てられたポートランドの集合センターへ移動するよう通告されました。2週間後、東オレゴンのテンサイ農場に夫とともに労働者として移動することになりました。アリスはそこでは唯一の女性であり、収穫は骨の折れる仕事だったと述べています。戦後は、不毛の地を土壌改良し、その努力も報われ、ついにはグラジオラス球根の最大の農園ができるまでになりました。1981年にマークが亡くなった後、アリスは幼い頃のダンスへの興味を復活させ、90代になっても世界各地で行われている社交ダンスの大会へ出場し続けていました。2018年8月16日、104歳で亡くなりました。2018年10月)

笠原ハルオ

日本語とハワイ語によるハワイの耕地での伝統的な労働歌(ほれほれ節)

ハワイの一世プランテーション労働者。(1900年生)

与那嶺要(ウォーリー・ヨナミネ)

フットボールのトレーニングのために100ポンドの芝を担いで山を越える (英語)

沖縄出身の両親の持つ2世。38年間に渡り、日本の野球界で選手・コーチ・スカウト・マネージャーとして活躍。(1925年生)

与那嶺要(ウォーリー・ヨナミネ)

家計を助けるために砂糖きび畑で働いた10代の頃の経験 (英語)

沖縄出身の両親の持つ2世。38年間に渡り、日本の野球界で選手・コーチ・スカウト・マネージャーとして活躍。(1925年生)

ミツオ・イトウ

アルベルタのテンサイ農場(英語)

日系カナダ人二世。戦後日本で英国軍の通訳者。日系カナダ人コミュニティで活躍(1924年生)

デール・ミナミ

強制収容の過去について話す母とその感傷的な反応 (英語)

弁護士 (1946年生)

西村 俊治

ブラジル社会に恩返し-不足のテクニコを育成

JACTOグループ創設者 (1911-2010)

西村 俊治

農工学校を通じてノウハウを次世代へ

JACTOグループ創設者 (1911-2010)

エミ・笠松

日系人のパラグアイ農業へ貢献 (スペイン語)

二世日系パラグアイ人、研究者

サカエ・シゲカワ

戦争の勃発と共に失った仕事 (英語)

南カリフォルニアの産婦人科医(1913-2013年)

サカエ・シゲカワ

サンタ・アニタ強制収容所医療チームへの参加 (英語)

南カリフォルニアの産婦人科医(1913-2013年)

Fukuhara,Jimmy Ko

Sugar beet farming process

日系二世、連合国軍占領下の日本に駐留した退役軍人(1921年生)

トム・ユキ

野菜の栽培と出荷の共同会社を立ち上げた父(英語)

三世のビジネスマン(1935年生)

トム・ユキ

父の事故後、ビジネスを継ぐ(英語)

三世のビジネスマン(1935年生)

モニカ・タイシャ―

コロンビアに移住した祖父(英語)

米国在住の日系コロンビア人(1974年生)