ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/345/

ツールレイク収容所での貝殻による手工芸品作り(英語)

(英語)それぞれの人がもっている特技に応じて、花、小さな鳥、ピン、イヤリングなど何でもそれぞれが好きなものを作ってよかったのです。でも大抵はコサージュを(作って)売っていました。最初の頃はどのコサージュも大雑把に作ってありましたね。他の人たちが何をしているかあまり興味がなかったので、彼女達がどんなものを材料にして(工芸品を作って)いたか知りませんが、私は貝殻を使ってでどうやって(綺麗な)花を作れるかに関心がありました。不恰好なコサージュではいやですから。茎もきっちり巻いて、きちんとしたものに仕上げたかったのです。私は釣竿を(ワイヤーで)巻いた経験があるので、(貝殻で花を作るときの)ワイヤーの巻き方は知っていました。ワイヤーは父が網を分解して手に入れたものです。少々縮れていたので、父が真っすぐに伸ばそうとしましたが、あまり真っすぐにはなりませんでした。でもこれが結構使えたのです。

その後、私が作ったコサージュが知られるようになり、注文がひっきりなしに来るようになりました。特に病院の管理部で働いている白人の職員から多くの注文がきました。それで私も夢中になってしまい、夜中に目が覚めては思いついたデザインをスケッチして、それを翌日に作るほどでした。かなり沢山のコサージュを売りましたよ。アイダホ州(の収容所)に移ってからも注文はきていました。


コサージュ 工芸 投獄 監禁 第二次世界大戦

日付: 2004年9月15・17日

場所: 米国、ワシントン州

インタビュアー: アリス・イトウ

提供: Denshō: The Japanese American Legacy Project.

語り手のプロフィール

ペギー・ニシムラ・ベインは1909年3月31日ワシントン州バションに生まれました。彼女の両親は熊本県出身です。6人兄弟の2番目として生まれた彼女は、17歳の時に最初の結婚をし、息子と娘をもうけました。

真珠湾攻撃の時は、弟の名義の3つの農場で両親の手伝いをしていました。その後、パインデール集合センターへ送られたあと、ツールレイク、ミニドカ収容所へと転送されました。ミニドカ収容所を出た後は、娘とともにシカゴへ移住しました。そこでは、収容所で身につけた写真の技術を使い、何年もの間写真スタジオにてコロリスト(写真へ色づけする人)として働いていました。最終的にはワシントン州の両親の近くへ戻り、現在もワシントン州で生活しています。(2004年9月17日)

ジョージ・カズハル・ナガヌマ

クリスタルシティの雷

(1938年生まれ)クリスタルシティに収容されていた日系ペルー人

カズム・ナガヌマ

妹のキヨは彼にとって第二の母親のような存在だった

クリスタル・シティに収容された日系ペルー人(1942年生)

ミア・ヤマモト

父親の影響

(1943年生まれ) 日系アメリカ人トランスジェンダー弁護士

ベン・サコグチ

キャンプから帰ってきて

(1938年生まれ) 日系アメリカ人の画家、版画家