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一世たちの野球

日本人の野球好きは衆知の事だが、若き頃の一世たちはどうであったろうか。日系野球創生の頃を探ってみたい。

LAに日系野球チームが誕生したのは1904年(明治37年)。当時タイムス・ビルに同居していた羅府新報社の南加野球チームがそれで、メンバーには主筆の斉藤紅丹、藤田東洋、佐藤、原瀬、雑賀が名をつらね、翌5年には一世球史に輝くスタープレーヤーの吉瀬権(都城町)、税所篤義(都城・早稲田・スタンフォード中退)、鈴木喜一(鬼亭・千葉県・早稲田)の3人が参加した。球場は旧サンタフェー停車場の対岸(ボイルハイツのロサンゼルス河畔と東一街の南)の空地で、毎日曜日練習し技を磨くが、他に相手になる日系チームがなく対戦相手は白・黒・墨国人チーム。

善戦し他人種間に名をしらしめる1907年には、球場をハイランドパークに移した。翌8年には早大野球部で鳴らした橋田信(頑鐡・初代主将、日本社会人野球の橋田賞)を迎え、メープル街に借家して合宿生活を始め心技共に充実してゆく。

この南加野球チームは1909年4月にはJBBA(ジャパニーズ・ベースボール・アソシエーション)と、改組された。ここのスター・プレーヤーとして活躍したのが立山徳太郎(国分町・鹿児島商業野球部創生時の正選手)である。チームの米東部諸州遠征に参加ノンプロチーム相手に妙技を発揮、日本遠征にも税所と同道し球界に名を馳せた。

一方、1907年にはハリウッドの桜野球団が産声を上げた。キャプテンに鈴木鬼亭、伊藤清富、白石理之助、曽原栄など、後年のスター達が名をつらね、JBBAと繋がってゆく。この球団全盛時に写真家の東洋宮武が活躍、激励したことを付記しておきたい。

なお、太平洋沿岸での一世チームの最古はシアトル。他にタコイマ、サクラメント、フレズノ等の各地に多くのチームがつくられており、ここLAでも少し遅れて多くのチームが出来てリーグ戦を行った。

1926-1933年にかけて録画された日系社会の映像より (センショー・ササキ師コレクション、ササキ家による寄贈、 全米日系人博物館所蔵、[96.150]) http://5dn.org/1ef05a4

ところで、郷里の先輩たちの野球はどうであったろうか。

隼人チームが発足したのが1908年(明治41年)オリブ街にあったボーディングハウス(指宿藤蔵経営・敷根付)の1室である。その顔ぶれは下記のとおり。

P.  杢田 彦次 (市来)
C.  井上 生二 (市来)
1B.内田 祐三 (山田)
2B.牧元 武雄 (国分)
3B.東村 弘  (蒲生)
SS.久保    (不詳)
LF. 山内 俊安 (国分)
CF.大山 武彦 (山田)
RF.田実 直太 (敷根)

残念ながらどんな成績をのこしたか、その資料はない。1911年隼人は三州(薩摩・大隈・日向)と改称し、シアトルから染川交(鹿児島市・明治36年の第1回鹿児島県中学校野球大会から3年連続、一中の1塁手として出場。帰国後は戦前、戦後の名審判として鹿県では余りにも有名)と、南加大の坂元三次(国分・LA高校・USCのエースピッチャー。一流大学の正選手になった日系1号、体操のマコ・坂元の父君)が入って陣容は更に強大。コーチに古瀬權を迎えて、日系球界8チームの雄となる。

ここで腕を振った若者に、池田元美(市来)、鶴田寿(市来)、山野才吉(伊作)、杉田秀志(加世田)、家村清助(国分)がいる。

シアトルの邦字紙のコラム(日付不明)「一顰一笑」に西北部野球優勝戦の前評判の記事がある。

「前略、隼人とタコイマのエヌテー共に名に負う猛打の強軍特に当地軍として切って出でたるハヤトの元気は今や恰も暴れる獅子の如く然も豪勇にして仁義に富めるサツマ隼人の本性を発揮せんと、加州球団の2名将、吉瀬遊撃手、立山3塁手に召集令を発したり。後略」

これを見ると隼人と名乗ったチームは二つあったことになる。シアトル隼人の主将は左腕の黒内(出身地不明)、球史は不詳。

1915年頃、JBBAはチーム名をNC(Nはニッポン又は南加の意)と改め、更に強力になる。ここで活躍した県出身者に、立山、東村、山内、坂元、壱岐志都城(加治木)がいる。

ここに登場した皆さんは、若しご存命なら優に110才を超えた方々ばかりである。日本に引き上げた人、収容所に送られたりで資料はまことに少なく、今になっては聞き置く術もない。それにしても排日時の暮らしに追われた日々にこんな早くから、しかも多くの一世が白球に情熱を注いでいたとは、驚歎するばかりである。一世人口の多かった加州各地はもとより、ワシントン、カナダそして阪神の若林を生んだハワイ球界を視野に入れると、史実はかなりの量になるはず、二世に引き継がれてからの球史に比べ、一世球児の記録はこのままでは消滅につながるのではなかろうか。

余談になるが、日本人で最初に野球をやったのが牧野伸顕(大久保利通の次男)たち。1872年(明治5年)留学先のフィラデルフィア、明治8年帰国後は開成校(現東大)で木戸孝正らとプレイしている。

また、「BASEBALL」を「野球」と邦訳したのは、中馬庚(今藤庚・鹿児島市・一高・東大)で明治27年の夏、一高野球部史作成のおりである。

ノンプロ野球の方では「溜池クラブ」の捕手で、それまではワンバウンドだった投球を直接素手で捕球し「猛将町田」の勇名を馳せた町田一平(垂水・駒馬農学校・花岡電気。南海郵船等を興して地域振興につくす)がいる。

野茂や長谷川などを大リーグに送りこむまでになった日本野球、反対に二世球児を日本プロ球界で活躍させるほどに育った日系野球、両方に種を播き水をやり若き芽を育てて普及発展に大きな役割を果たしてきたのは、我々の先輩たちということになる。鹿児島人これを誇りとしてよい。(文中敬称略)

 

資料を提供して下さったMATAE・NISHI・江籠與春・立山正・南日本新聞社の大野弘人の4氏に厚くお礼を申し上げたい。

 

参考資料

南加日本人野球史     赤堀最  編
県人会会報誌「隼人」     古川栄次  編
白球に魅せられて     鹿児島県高等学校野球連盟発行

 

*本稿は、『南加鹿児島県人会史:創立百周年記念』からの転載です。

 

© 1999 Nanka Kagoshima Kenjinkai / Edward Horikiri

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