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偉大なる彫刻家 ノグチ・イサムの生涯 -その2/9

>>その1

1918年、母レオニーは、インディアナ州、ローリング・ブレーリーの公立中学校、インタラーケン・スクールに入学さす為に13歳のイサムを単身でアメリカに送った。まだ中学生だったイサムは、母レオニーに対してある疑念を抱いたに違いない。イサムは深い孤独感を味わいながら過ごすことになる。そして、両親の知人でもあり、後見人だったエドワード・ラムリー博士は、彼をスウェーデンボルグ派の聖職者サミュエル・マック博士の家に下宿させます。そこで、イサムはスウェーデンボルグに心酔していたウイリアム・ブレイクの詩に出会う、両親が文学者であった事もあり、周りには両親の知人などがいた環境もあった。

1919年、インタラーケンの創立者であったエドワード・ラムリー博士の知遇を得て、同州ラ・ポートの高校で寮生活を送る事になる。ラムリー博士は、イサムを医者になるよう勧めるが、イサムは芸術家になりたいという意志があり、スタンフォードの彫刻家ガツン・ボーグラムの助手にさせてもらう、しかし、ボーグラムから「芸術家にはなることはなかろう」とラムリー博士にも伝えた。師から彫刻家としての才能がないと適性を認めてはもらえず、挫折感から一時は芸術を諦めることとなった。そして、ラムリー博士のアドバイス通り、医学を学ぶことになる。

1923年、ニューヨークヘ移り、コロンビア大学の医学部に入学し、夜はレストランで働き生計を立てる。やがて、17年間、日本に滞在していた母レオニーが、カルフォルニアに帰米し、その後、ニューヨークで母と共に暮らすようになる。その頃、黄熱病などの研究で知られていた野口英世博士との出会いもあり、芸術家になるよう勧められた。

1924年、それから、イサムは医学部に在籍しつつ、母の勧めでレオナルド・ダ・ヴィンチ美術学校の夜間の彫刻のクラスに通い始める。イサムは、まもなく才能を発揮して、ミケランジェロの再来とまで賞された。入学してすぐに学校にて初の個展を開催。父ヨネからは、野口の姓を使うことを許されていなかったが、しかし、イサムは、この頃から野口の姓を名乗ることになる。イサム・ノグチの誕生である。ナショナル・スカルプチャー協会の会員に選ばれ、ナショナル・アカデミー・オブ・デザインに出品する。美術学校の校長、オノリオ・ルオットロに彫刻に専念することを勧められる。医学の勉強をやめて、グリニッジ・ビレッジにアトリエを構える。

1926年、ニューヨークのBrummer・Galleryで、初めてブランクーシーの作品に遭遇し、イサムは、作品を一目見て、衝撃的な感銘を受ける。1

ルーマニア生まれの彫刻家ブランクーシーは、オギュースト・ロダンの助手をしていたが、「大樹の下では、何も生えない」とあの有名な言葉を残して、ロダンのもとを去った。

後に具象彫刻から抽象彫刻へと移行し、20世紀の中で新しい抽象表現の彫刻作品は、ミニマル・アートの先駆者としても知られ、世界的に高い評価を得た現代彫刻家である。

イサムは1927年にグッゲンハイム奨学金を受けて、パリに留学する。尊敬し、師と仰ぐブランクーシーに出会うことになり、朝はブランクーシーの下で助手として働き、午後は、Academy de la Grande ChaumiereとColarrosi Schoolで学ぶ。ブランクーシーとの運命的な出会いは、イサムを大きく飛躍させることとなった。

リトル東京ロサンゼルスにて。NOGUCHI PLAZA 

   

その3>>

注釈
1. Isamu Noguchi Private Tour 参考

*本稿は日墨協会 のニュースレター『Boletin Informativo de la Asociación México Japonesa』 141号(2010年1月)からの転載です。

© 2010 Koji Hirose

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