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移動する人々:戦後帰米と戦後の日系移民

清野敏幸さん—その4:アメリカに帰国し、柔道を始める

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アメリカに戻るブラジル丸の船上で。1956年6月。

2週間の船旅の後、ロサンゼルスのサンペドロに到着。そこから迎えの車でデンバーに到着したのが1956年6月のことである。1週間ほど父の友人宅に世話になった後、敏幸はアメリカ人の白人の家にスクールボーイに入った。スクールボーイとはかつて日系移民の学生らがよく行っていた住み込みのいわゆる家政婦のような仕事で、アメリカ人の家で部屋を間借りし、皿洗いや掃除、子守り、料理など家の仕事をして少額の給金をもらい、学校に通うものであった。

敏幸のスクールボーイ先の近所には、父の兄の子である、いとこの健一郎が同じくスクールボーイをしていた。彼は敏幸の津貫での同級生で、同じように帰米であった。

「僕がアメリカに行く、デンバーに行くと手紙を出したときに、彼が『俺は今柔道をやっている。デンバーに来るのだったら柔道着を買って持ってこいよ』と。それまで高校では水泳をやっていたけれど、柔道はやったことがなかったんです。でも柔道部の人たちが練習するのを見て面白そうだなと思っていたから、柔道着を持って行ったら一緒にやれるんだな、と思ったんです」。

それが敏幸の柔道との出会いだった。「二世の方がデンバー道場をやっていて、結構広いところで、日系人がたくさんいました。白人も通ってきていて、道場全部で40、50人が通っていたと思います」。

しかし、デンバーでの生活はそれほど長くは続かなかった。3カ月くらいで、自分はデンバーには長く住めないなと思って、1年前からロサンゼルスに住んでいた兄に連絡して、「そっちに行きたい」と伝えたのです。そうしたら彼がやっていたスクールボーイ先に「代わりに入ればいいからこっちに来いよ」と言ってくれた。ロサンゼルスには兄だけではなく、父方母方両方のいとこや伯父伯母らもすでに戻っており、男性は庭園業、女性は缶詰工場や縫い物などをして生計を立てていた。

1956年10月ロサンゼルスに戻り、敏幸は兄の働いていたロスフィリスの白人の家にスクールボーイとして入り、家やプールの掃除、車の清掃などの仕事をした。「その家にはもう一人、料理の担当として日系人の女性が雇われていたんですが、たまたま神戸の高校で同級生だった女性だったのです。『あれ、あなたこんなところで何をしているの?』と」。

ロサンゼルスでの偶然の出会いはこれだけにとどまらなかった。敏幸はそこで働きながら、まずは英語を学ぼうとダウンタウン・ロサンゼルスにあった英語学校に通った。ケンブリアという名前の学校の生徒は大半が日本人、日系人で、あとはラテン系だった。「そこにみどりの兄も来ていたんです」。

お兄さんも帰米だったのですか、と尋ねると、みどりがこう答えた。「帰米ではないですが、父のいとこ一家が移民をしていまして、時々日本に遊びにいた関係もあって、兄が高校を出た時にアメリカに留学をしました」。彼もまたスクールボーイをしてパサデナのシティカレッジに通っていた。

「実は僕のいとこが日本から着いて港に迎えに行った時に、日本人らしいスーツを着た男性がいたんです。それで英語の学校に行ったらその人がいるんですよね。話していたら『あれで着いたんだよ』と。それがみどりの兄だったんです」。

偶然はさらにつながる。その兄の広島の舟入高校での同級生だった隆谷典彦もまた留学しており、ベルモント高校に通っていた。三人は意気投合し、よく一緒に遊ぶので、「三銃士」と呼ばれるくらいであったという。ちなみにこの隆谷典彦はリトル東京の安全ハードウェアストアの現在のオーナーである。

そして、敏幸が柔道をするのを知った典彦がロサンゼルスのシルバーレイクにあったハリウッド道場を紹介する。1957年1月のことである。敏幸はそこで柔道を始めようと、道場からは距離のあったスクールボーイの仕事を辞め、道場近くの食事付きの宿であるボーディングハウスに転居する。またそのボーディングハウスに暮らす庭師の老人の手伝いとしてパートタイムの仕事を始めるのだが、そのひと月の給金は道場の月謝15ドルとほぼ同じくらいの金額であった。とはいえ、通い始めて一カ月もしない時、道場の先生が練習の後、道場を掃除する代わりにと月謝を免除してくれることになり、月謝を捻出する必要はなくなるのである。

「ハリウッド道場には同年代の日本からの留学生が何人か来ていました。彼らも学校に通ったりスクールボーイをしていたと思うのですが、道場が9時に終わってから時間があるから、残って練習しようかということになりました。僕はそのとき、ハリウッドでスクールボーイをし始めていたので、最終バスが出る10時30分まで練習していましたね」。

練習を重ね、1958年のロサンゼルスの試合では敏幸は軽量級で3位に入る。本来ならサンフランシスコで開催される全米大会に3位入賞者まで出場できるはずであったが、柔道を始めて間もないというので残念ながら外されてしまう。しかしその翌年1959年、再びロサンゼルスの軽量級で3位に入り、サンノゼで開催された全米大会、USナショナル・チャンピオンシップで南カリフォルニアを代表し、70kg級で3位の成績を収める。その大会での出会いをきっかけに、敏幸の人生は大きく変わり始めるのである。

その4 >>

 

© 2022 Masako Miki

Japan Judo Kibei Nisei school boy Toshiyuki Seino

このシリーズについて

「移民」というと、ある国から別の国へと移住したきり、のようなイメージを持たれる方もいるかもしれない。それぞれの国ごとの移民史では、そこに定住した人々の物語は記録されていきやすいが、行ったり来たり、また国や地域をまたいで移動し、生きていく人々の物語は、そのはざまの文化と言語の中で見えづらくなることもある。

ロサンゼルスの日本人コミュニティーと日系人コミュニティーの両方で暮らす中で、また全米日系人博物館での仕事を通して、「二世」「三世」「帰米」といった歴史的によく使われる言葉に付随する典型的なイメージとは異なった、それぞれの個人ごとの豊かな物語を持つ人々に出会う機会が数多くある。このシリーズでは、そうした環境の中で出会った、主に日本語を第一言語とする戦後の帰米・日系移民の方々の物語を記していきたいと思う。