バジル・タダシ・イズミは1937年4月25日にバンクーバーの総合病院で生まれた。彼はH・M・シモムラ医師の手によって取り上げられた。シモムラ医師はのちに、ヘスティング・パークやタシメ収容所で厳しい状況下に置かれていた数多くの患者の治療をしたことで日系カナダ人の信頼を得た人物である。バジルには二人の妹がいた。二人とも強制収容所時代に生まれた。上の妹メグミ・グレイスは1944年4月22日にニュー・デンバー病院で生まれ、下の妹エミコは1945年8月6日にレモン・クリークで生まれた。バジルはエミコが最寄りのスローカンにある病院に運ばれたのを覚えている。
バジルの母親メイ・ウメ・シガは1915年にバンクーバーで生まれた。彼女の両親は西日本の四国、高知県の出身であった。彼女の母方は侍の家柄で、父方は農家であった。母親の両親がいつカナダに来たのか、バジルははっきりとは知らない。おそらく1910年から1912年の間だったという。カナダに来た時、祖父母はすでに結婚していて、息子が一人いた。カナダに渡った理由もまたはっきりとはわからない。叔母からは、家族の中にブラジルに渡った人がいたと聞いているが、正確にいつどのような理由で行ったのか、詳しいことは聞かされていない。
バジルは、母親の両親がカナダに来た当初どんな仕事についたのかを知らない。しかし、最終的に母親一家は、日本人移民が多く定住していた(バンクーバー東部の)パウエル・ストリート地区で暮らした。彼女の父親は近くの聖十字教会の用務員になり、母親はそこでピアノを弾くようになった。二人の英語は流暢ではなかったものの、ある程度話せるようになっていた。バジルは祖母に英語で話しかけ、彼女が日本語で返してきた記憶がある。
バジルの父親タダオ・ジョン・イズミは、1910年に、和歌山県の下里1という海沿いの小さな村で生まれた。彼の両親は下里の近くに土地を持っており、小規模の農業を営んでいた。父は19歳の時に単身カナダに渡ったが、同郷のジェームズ・シンゴ・ムラカミ2という友人が、すでにバンクーバーに渡り写真家として生計を立てていた。バジルは、父親が何故日本を離れカナダに行ったのかを知らない(父に尋ねたこともなかったが、父もバジルに話さなかった)。しかし当時多くの日本からの移民がそうであったように、経済的な地位を改善したかったというのが大方の理由であろうと考えている。父親の旺盛な冒険心もあったかもしれない。
詳しいことはわからないが、バジルの母方の祖父母はカナダに来てすぐにキリスト教に改宗し、聖十字教会で洗礼を受けた。そのため彼の母親は聖公会の家庭で生まれた。バジルの父親は、友人のシンゴ・ムラカミに誘われて聖十字教会に行った後に改宗した。ムラカミはその時すでに聖公会の信者であった。バジルの両親はおそらく聖公会の活動で知り合ったと思われる。というのも二人とも熱心な信者であり、信仰が彼らの生活の中心的な役割を担っていたからである。
強制退去と収容前のバジルの家族と彼らのバンクーバーでの生活
バジルが知る限り、父親はカナダに来てから学校には通わず、すぐに仕事に就いている。最初の仕事はケルティック・キャナリーで漁をすることだった。この仕事はうまくいかず、彼は写真の仕事を求め、写真家の友人シンゴ・ムラカミに助けを求めた。シンゴは直接彼を雇うことはせず、代わりにキャンベル・スタジオを紹介し、父親はオーナーのキャンベル氏のもとで働くことになった。キャンベル氏は親切で、父に写真のノウハウを教えた。
バジルの母親はバンクーバーで生まれ、小学校からずっと公立学校で教育を受けた。聖公会の幼稚園に通っていたかどうかはわからない。母親は良い教育を受け、高等教育を終了していたと思われる。というのも、のちに家族が日本に送還されたとき、すぐにアメリカ進駐軍キャンプで良い仕事を見つけることができたからである。
バジルの両親はバンクーバーにいた頃、パウエル・ストリートやコルドバ・ストリート、ネルソン・ストリート(グランビルの東)など、さまざまな場所に住んだ。彼らは概ねバンクーバーの日系カナダ人コミュニティ内で暮らしを楽しんでいたようで、バジルをのせた乳母車を夫婦で楽しそうに押す写真が残っている。
バジルが覚えている限り、幸せな家族生活を送っていて、友達もたくさんいた。父親の友人たちが頻繁に家を訪れていたし、教会の人たちとの写真が残っているように、ピクニックや家庭での聖書朗読会に参加するなど、教会でも積極的にその役割をこなしていた。
バジルは聖十字教会の日曜学校と幼稚園に通った。当然のことながらこの頃の詳細な記憶はあまりないが、路面電車で幼稚園に通っていたこと、特に登園するときの電車の中で、大好きな幼稚園のマーガレット・フォスター先生(教母でもある)に会ったことはよく覚えているという。幼稚園時代の友人と一緒に写っている写真が何枚かあるが、バンクーバーから退去させられてから二度と会うことがなかったので、名前までは覚えていない。
近所に住む南アジア出身の子供たちと遊んだ記憶もある。とりわけ、彼らがくれた“with gusto”という名の香辛料がきいたスナックを食べたことを覚えている。それを食べた後の彼の息があまりにもスパイス臭かったので、母親がびっくりして彼の口をすすいだという。
バジルには、バンクーバーにいた頃、一家が経済的に困窮していたという記憶はなく、あからさまな人種差別を受けたという記憶もない。おそらく日系カナダ人コミュニティ内で過ごすことが多かったからであろう。この頃は彼も幼かったので、大人が直面していた問題を認識していたという記憶もない。
注釈:
1. 下里は三尾村(ほとんどの和歌山県からの移民が出ているところ)からかなり遠いが、太地という伝統捕鯨で知られる村にはとても近い。太地は近年年一回行われるイルカ漁で国際的に有名になり、また議論の的にもなっている。
2. 日系カナダ人写真家ジェイムズ・シンゴ・ムラカミの略歴については、「ポストビュー:バンクーバー・ハガキ・クラブ会報」2011年、5ページ参照。2017年9月17日にアクセス。
© 2018 Stanley Kirk