ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/852/

同胞の援助と協力 (スペイン語)

(スペイン語) 私は家の玄関を出ると、遠くに高齢の男性が目に入りました。彼は、ゆっくりと長い杖をつきながら、こっちに向って歩いてきたんです。「お父さん?」って叫んだんですよ。近づくと、その人が父であることが分かったんです。「お父さん、ここで何をしているの?」と尋ねたことを覚えていますよ。父は体調を壊し、病気になってました。「ベナンシオ、すまんけど、水一杯くれ」と言いました。私は走るように水をとりに行き、母には何も言わず、その水をすぐに父へ届けたのです。喉が渇いていた父はホッとしたようでした。そして一緒に家へ帰ったんです。

家に着いた後、私は[父の代わりに]事情を説明する手紙を書きました。それも日本語で。当時は日本語でも書けたのですよ。あて先は父の友人であるツケオ・イサヤマさんでした。彼はサンニコラス農場の有力者です。この書状は、回覧板のように移住地のみんなに渡り、みんなが僕がしたことに驚いたようです。私はまだ9歳でした。

三日後、二台のトラックが到着しました。トラックから出てきた人は、喪服を着てました。父が死んだと思ったんでしょう。イサヤマさんもネクタイを締めてそこにいました。「お父さんはまだ生きているのか?」って。私は、「ええ、でもかなり様態は悪いです」と答えました。でも、「良かったね」って言ってくれましたね。そして、家にある物を何人かの人でトラックに積み上げたのです。それからベッドのマットやシーツを運び、そこへ横たわるように父も乗せました。父が見えないように、毛布か何かをかぶせました。二台目にはちょっとした家具等も積んだのです。

家の中にはまだたくさんの家財道具が残っていましたが、ジャマチュパンへ向けて出発したのです。 サンニコラス農場地区に到着しました。すべて準備ができていました。日本人達はとても団結力があって、父が来るということで、家を準備してくれていたのです。シンキ(父)が来るということで、我々のために、ちゃんとした民家を用意してくれたのです。とても快適でした。だけど、どうにもなりませんでした。


ペルー 第二次世界大戦

日付: 2007年9月6日

場所: ペルー、リマ市

インタビュアー: ハルミ・ナコ

提供: ペルー日系人協会 (APJ)

語り手のプロフィール

ベナンシオ・シンキ・ウアマン氏はペルーのリマ市郊外スペ地区に1932年に生まれました。画家として最も功績を残している日系ペルー人のひとりです。父親のキツケ・シンキ氏は広島県出身で、母親のフィロメナ・ウアマンは地元ペルー人の方です。多くの日本人移住者が入植したリマ北部のスペという町にあるサンニコラス農場で生まれ育ちました。同氏はペルーの国立美術大学に進学し、1962年に首席で卒業しています。

シンキ氏の作品には東洋、西洋、そしてアンデスの伝統文化の要素が組み込まれています。未知で好奇心をそそる世界を特徴ある超現実主義(シュールレアリズム)のスタイルで表現し、洗練された技術とそれまでにない像を描いたことで、ラテンアメリカの造形芸術の巨匠達と肩を並べることになったのです。 世界的にも表彰され、ペルー、日本、イタリア、アメリカ、コロンビア、エクアドル、ブラジル、ベネズエラ、パナマ、メキシコ等各地で個展や共同での展覧会に参加してきました。1999年には、ペルー日本人移民100周年記念事業の一環として名古屋の博物館でも展示を行いました。2006年11月リマで開催された第34回の「日本文化週間」では、多数の作品が展示されました。シンキ氏は、2016年に亡くなりました。 (2017年10月)

ミシェル・ヤマシロ

三か国語を使った沖縄での活動(英語)

ペルー出身の両親を持つ沖縄系アメリカ人

ジミー・ナガヌマ

ペルーから米国へ強制連行(英語)

クリスタルシティに収容された日系ペルー人(1936年生)

ジミー・ナガヌマ

ペルーでの子供時代の思い出(英語)

クリスタルシティに収容された日系ペルー人(1936年生)

二宮 正人

戦時中に厳しく規制された外国語教育

サンパウロ大学法学部博士教授、弁護士、翻訳家(1948年生)