ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/232/

東京の会社が焼失

(日本へ)帰りたいと思っても、行かれんから、知らんもの。思ったって何にもならんもの。こんななったら

I*: でも、戦時中に真珠湾の攻撃が始まってなかったら、今ごろは日本でした?

そうそう。そうよ。日本へみな帰るつもり。日本の東京の会社、作ってるから。

I: それはどうなったんですか?その会社はどうなりました?その東京の会社は。

燃えてしもうた(笑)。燃えてしもうた。会社できても焼かれてもうた。

* “I”: インタビュワー(山本 恵理子)


ビジネス 経済学 経営 移住 (migration) 第二次世界大戦

日付: 2004年10月14・17日

場所: 米国、カリフォルニア州

インタビュアー: 山本 恵理子

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

カズオ・フナイ氏はカリフォルニア州ロサンゼルスのセントラル・アヴェニューでマーケット(食料品店)を経営していた和歌山県出身の一世です。インタビュー当時は104歳でした。第2次世界大戦が勃発する直前の1941年、日本への帰国を前提に東京に会社を設立しました。しかし、真珠湾攻撃のため日本へ帰国することができなくなり、経済的にも破綻、最終的には家族とともにアメリカの強制収容所へ入ることを余儀なくされました。しかし、このような困難にもかかわらず、戦後はビジネスマンとして成功しました。

2005年3月3日(木)105歳で亡くなりました。(2005年8月16日)

ジミー・ナガヌマ

クリスタルシティでの最初の食事(英語)

クリスタルシティに収容された日系ペルー人(1936年生)

ジョージ・カズハル・ナガヌマ

クリスタルシティの雷

(1938年生まれ)クリスタルシティに収容されていた日系ペルー人

カズム・ナガヌマ

妹のキヨは彼にとって第二の母親のような存在だった

クリスタル・シティに収容された日系ペルー人(1942年生)

ミア・ヤマモト

父親の影響

(1943年生まれ) 日系アメリカ人トランスジェンダー弁護士