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ニッケイ物語 3—ニッケイ人の名前:太郎・ジョン・フアン・ジョアオ?

私の日本での出稼ぎ経験

私の両親は日本人で、父は鹿児島県、母は愛媛県の出身です。幼い頃から日本に対する関心と強い思いがありましたが、日本に行ってその体験から私の日本への見方が少し変わりました。

いつも両親の親戚に会いたいと思っていましたが、当時はまだ航空券もかなり割高で、滞在費を工面する難しさや日本語という壁もあり、安月給の公務員であった私には、到底実現できることではありませんでした。大卒で公務員として専門職に就いた私の給与はかなり低くかったのですが、教員だった妻の収入もあり、家計をうまくやりくりしながら、普通の生活をしていました。マドレ・デ・ディオスというアマゾン地方の都市に住んでいましたが、家族全員で時々首都リマへ行きました。マイホームと車も持っていました。しかし、上の子供たちが高等教育を受けるようになると、家計が苦しくなり、将来どのようにしたらいいのか考えるようになったのです。そして、1990年11月に公務員の仕事を辞め、兄とともに日本に行くことにしました。

日本へ行くきっかけは、その年の8月7日に当時のファンカルロス・ウルタドミレル首相兼経済相がフジショック(フジモリ政権の大臣だったので)という厳しい緊縮政策を発表したことです。演説の最後に “神が頼り” と言っていました。その日の真夜中を過ぎると、燃料が21,000インティ(当時の通貨名)から675,000インティになり、30倍も上昇しました。その他、パンや牛乳等も同じぐらいの割合で価格が上がりました。アラン・ガルシア前政権は経済のほとんどを助成金で固めていたため、ハイパーインフレを起こしたのです。私は、国の機関の公務員として安定した上級職におり、妻も教員でしたが、それでも二人の収入をあわせても生活をするのがやっとで、その状況をなんとかしなければならないと考えてました。

甥の何人かは既に日本で働いていたので、先祖の戸籍謄本は持っていました。日本への渡航費とリマへの移動費もある程度は工面できました。ただ、一つ問題がありました。父の出生証明書には、日本名の “Kinsuke 金助” ではなく “Antonio アントニオ” と記載されていたのです。そのため、父の戸籍上の名前をどのように“修正”するかが、課題となりました。友人や知人に相談したところ、出生証明書を(強引に)修正するのが一番の「解決策」ということになりました。そうしてリマの派遣会社が我々の書類をチェックしましたが、その「修正」には気づきませんでした。

すぐに仮採用になり、日本へ行くことになりました。派遣会社は、リマ―成田間の航空チケット代を後の給与から天引きするという方法をとり、日本での宿泊料は受け入れ企業負担で、食事も半分はその企業が支払うという条件でした。時給は1,250円で(現在で言えば、10~11ドル)、残業も一時間ごと50%の割り増しで、一年間病気もせず一日も休まなかった場合は皆勤手当として1,500ドル、そしてボーナスのような勤続年数手当が3,000ドルという契約内容でした。一年間無事勤めれば渡航費負担も50%だけいいという条件でした。アパートから職場(工場)も徒歩15分でした。普通に働いても月2,800ドルぐらいになり、その4割をペルーの家族に送金し、一部は貯蓄と日本での生活費にまわすという計算でした。信じられない黄金の時代でした。

我々は1990年12月3日に他30人の日系ペルー人(とその時は思っていました)と、マイアミ及びデトロイト経由で成田に向かいました。空港には、受け入れ企業の担当者が迎えにきており、陸路で神奈川県の藤沢市湘南台に移動しました。東京から45分ぐらいのところにあるいすゞ自動車の工場が我々の仕事場でした。ここの総務担当者たちは、私の書類状況を理解してくれただけではなく解決にも協力してくれたので、今も感謝しきれないほどその気持ちでいっぱいです。しかし、その数年後、世界的な経済危機が発生したことで、どうにもならない状況におちいってしまいました。

私のような日系二世にとって、日本に行くことは以前から抱いていた夢の実現を意味します。日本に着いたときは涙が溢れるほど嬉しかったことを記憶しています。ペルーでは日系人は日本人とみられていましたが、日本では単なる「外人」と扱われるかもしれないという思いでとても不安でした。

この写真は、当時、東京にある皇居前で撮ったものです。

   

我々を受け入れてくれた企業は会社の寮に案内してくれました。この施設はホテルのようで店やレストラン、プールや床屋までありました。入国管理局で手続きをしている間、我々はそこで待機状態になり、食事と部屋を提供してくれました。許可が出るまで仕事に就けなかったため、待機期間中はとても不安でした。二週間ぐらい経った頃、一人の仲間が偽装書類を提出したとしてすぐに退去強制命令が出ました。一ヶ月後、私はようやくいすゞ自動車と本契約をし、工場で働くことになりました。本契約の前は、仕事の仕組みと実務について2週間の研修を受けました。しかし、三ヶ月後に入国管理局からまた呼び出しがありました。書類に不備があるという理由で、私の旅券には日本の入管からAPPLICATIONという印が赤インクで押されてしまったのです。90日以内に日本を離れなければならないと通達されました。派遣会社は、我々のためにかなりの費用を負担していたのでそれを回収するために出国直前まで仕事をさせてくれました。1991年6月30日、私は強制送還ではありませんでしたが、成田空港から出国させられました。グループの中で一人だけ、ビザ(在留資格)を取得した人がいましたが、このペルー人はまったく日系人の顔をしていませんでした。単に「きちんとした書類」を持っていただけだったのです。30人のうち二割ぐらいが日系人風の顔をしており、父親と母親が日本人だったのは、兄と私だけでした。いずれにしても、皮肉なことではありますが、私を含めて書類に不備があったものたちでした。

私の日本での滞在はたったの6ヶ月でしたが、忘れられない体験です。言葉もわかりませんでしたが、新幹線で静岡や東京、横浜、栃木、群馬等に行きましたし、最先端技術があふれる家電専門店にもいったり、同じペルーからの友人を訪ねたりもしました。鹿児島に親族がいましたが、言葉もわかないうえに、できるだけ多く貯金することが目的だったので、私は会いには行きませんでした。姪の一人は、鹿児島で父方の親戚にあうことができたようです。

私はれっきとした日系人で、日本人の子孫としてそれを誇りにしていました。しかし、そんな私にとって、書類の不備でビザをとれなかったことは、自分自身と日本に対して怒りが止められないぐらい悔しいことでした。ペルーに対しても複雑な気持ちが交錯し、居場所のなさを感じました。ペルーでは我々のことをよく「チーノ(東洋人はみんな中国人として扱われ、 “チーノ chino” と呼ばれていたのです)」とか、目が横に長いため「切れ長の目とか貯金箱の口」とか、鼻が低いため「皿の顔」とか、不快なことよく言われました。ビザが許可されなかったことで、ペルーに対する反感と日本に対する不満が交錯してしまい、その罪を自分にではなくて(人間は自分の失敗を認めず他の人に責任転嫁しがちですが)、洗礼を受けて地元の名前を採用してしまった父親になすりつけました。また、自分の責任において非合法に出生証明書を“修正”したことを悔みました。悔やんでももうどうにもならないことですが、どうしてあのとき法的に裁判所を通じて書類を修正しなかったのか、自分を責めました。長年そのことが道徳的にも大きな負担と苦痛になり、二度と日本には戻らないと言い聞かせたのです。そして一年後、反省とともに自分自身の責めを改めて、弁護士を雇い法的にきちんと父の出生証明書を修正しました。判決によって、父の本当の氏名を記載することができたのです。

日本へ入国してからたった半年で出国命令を受けてから23年がたちます。時々今でもまた日本に行きたいと思いますが、今はただの旅行で行きたいと思います。日本も様々な金融危機を乗り越え、あの90年代のときのような黄金時代は存在しません。これまで多くの日系ペルー人が日本から戻ってきましたが、誰もが日本という豊かな国、約束を守る社会、名誉と規律を守り、すばらしい技術がある国が恋しくなるときがあります。そしてなにより恋しくなるのはあの治安の良さです。いかなる時間帯であっても、真夜中であっても安心して強盗に遭うことなく歩ける日本はすばらしいです。他方、ペルーも経済的にはかなり良くなり貧困問題もかなり改善し、経済成長も高い水準にあります。しかし、治安の悪化、犯罪組織の活動範囲の拡大、一般犯罪の蔓延という大きな課題はむすろ増加しているような気がします。国のいかなる機関も真剣に解決しようとしないむなしさが残ります。

 

© 2014 Santos Ikeda Yoshikawa

星 19 個

ニマ会によるお気に入り

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このシリーズについて

名前にはどんな意味があるのでしょう?このシリーズでは、名前の意味や起源など、日系人の名前(姓、名前、あだ名を含む)にまつわるこれまで語られることのなかったストーリーを紹介します。

このプロジェクトでは、ニマ会と編集委員に、それぞれお気に入り作品への投票と選考をお願いしました。お気に入り作品はこちらです!

選ばれたお気に入り作品は以下の通りです。

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