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来日就学生物語 ~マイグレーション研究会メンバーによる移民研究~

第8回(前編) 朝鮮人学生の留学と就業―立命館大学の場合―

1 はじめに―東・東南アジアからの留学生―

1930年代の日本では、国際的な飛躍を目指す一方で、国際連盟の脱退を筆頭に、国際社会からの孤立が懸念されていた。その対応のひとつとして、政府は近隣諸国から積極的に留学生を受け入れる政策を模索していた。それは、日本の勢力圏であった台湾、朝鮮や満州などの「外地」だけでなく、東南アジアの非勢力圏からの受容もみられた。

朝鮮総督府学務局『在内地朝鮮学生状況調』(1920)、朝鮮教育学奨学部『在内地朝鮮学生調』(1926)や内務省警察局編『社会運動の状況』(1936・1941)などによれば、1920年代に朝鮮からの日本への留学生数は、5,000人弱で推移していた。その後、30年代になると皇民化政策で留学が奨励され、1939(昭和14)年には留学生は15,000人を超えた。翌年には約2万人、1942(昭和17)年にはおよそ3万人の留学生が玄界灘を渡った。それにともない、かつては男性ばかりであった留学生には、女性の占める割合も大きくなってきた。先行研究では、当時の日本をめぐる国際的な立場において、キリスト教や仏教などの宗教と学問体系との関わりから留学生の移動が説明されてきた。

他方、東南アジア、特にフィリピンからの留学生についても概観してみよう。当時、アメリカ合衆国の植民地であったフィリピン人留学生は、専門技能の習得を目的に、おもに医科大学に学への学びが多かった。とりわけ、1930年代前半では、東京慈恵医科大学が受け入れ先として著名であったという。その要因として、同大学が医学教育を英語で提供できる日本でほとんど唯一の存在であり、また1924年の移民法によってアメリカ合衆国への留学が厳しくなったことが指摘されよう。

2 選ばれた大学と専攻

朝鮮人留学生について、日本「内地」で学んだ専攻別の推移をみると、それは年次により異なっている。1920年代前半では、ほとんどが法学を学びに来ていた。20年代後半になると、理工学を学ぶ留学生の比率が高まり、この傾向は男性に顕著であった。それに対し、女性では、初・中等教育に携わる教員を目指した師範学校への留学が一般的であった。当時の東京における5人以上の朝鮮人留学生の在籍大学をみると、明治大学と日本大学ではほとんどが法学を専攻していた。名称や組織の問題もあるが、早稲田大学での大部分の朝鮮人は、政治経済学を学んでいた。このように、調査数は限られているものの、大学によって選ばれた学問に差異がみられる。 

1933(昭和8)年における朝鮮人留学生数では、出身道別にも著しい差が生じていた。つまり、釜山(プサン)に代表される慶尚南道、ならびに慶尚北道や全羅南道など日本に近い朝鮮半島南東部からの留学生が多かった。また、首都の京城(現在のソウル)を含む京畿道からも、一定多数がみられた。当時、アジアで最新・最高の学問を修得するため、日本の首都・東京が目指されたのであろう。

早稲田大学への留学生では京畿道出身者が多く、先述した朝鮮全体の傾向とほぼ類似する。絶対数は少ないものの、京都に創立された立命館大学も同じような傾向を示す。すなわち、日本に近い朝鮮半島南東部、ならびに京城周辺からの留学生が多い。それに対し、大阪市にある関西大学は全羅南道からの留学生が突出している。これは大阪と釜山、もしくは済州島との強靭な結節を示すものと考えられよう。

3 立命館大学への留学生

1937(昭和12)年に発行された京都市社会課『市内在住朝鮮出身者に関する調査』によれば、京都への朝鮮人の渡航が増え始めるのは1920年代後半からである。それまでは毎年100人程度の渡航者しかみられなかったものの、1927(昭和2)年になると800人を超え、その後は1,000人弱の朝鮮人が京都にやってきた。渡航目的のほとんどは、「金儲け」「求職出稼ぎ」「朝鮮にて生活困窮のため」など、第一義的には生活上の問題であった。それに対し、「勉学の目的」は極めてわずかであった。

1912(明治45・大正元)年の京都市では、朝鮮籍学生の居住地は特定の地域に点在していた。住所の確認できる6人の留学生は同志社、東山、平安と龍谷の中学校・大学の近隣、またはその寄宿舎に居住していたようである。これらの学校がキリスト教や仏教を建学精神の中心としていることから、近代初期における朝鮮人の京都への留学目的は、おもに宗教に関わっていたといえよう。すると、特定の宗教を母体に持たない立命館大学の場合では、朝鮮人の留学目的と卒業後の就業との関係性に興味が生じる。

1943(昭和18)年に立命館大学が編集・発行した『全立命館學友會名簿』によれば、立命館大学の朝鮮籍学生のうち、卒業を迎えた学生は1930年代では毎年5人程度であった。一時期に減少するものの、やがて彼らは増加し、1941(昭和16)年には約130名が卒業した。1938(昭和13)年から40(昭和15)年にかけて朝鮮籍学生の卒業者を専攻別にみると、専門学部と本科との違いはあるものの、多くは法律学部法律学科に学んでいた。実数は3~5名程度であるが、専攻全体に占める割合はそれぞれ10%、なかには20%近くを占める専攻・年次もあった。

また、立命館大学ウリ同窓会同窓会誌『玄海灘』4、1982に収録された座談会録には、戦前に在籍していた朝鮮籍学生の回想がある(太字は筆者)。

「1学部に2人か3人。夜間にはなるほど、もうちょっといたようです。専門部は一つの学部で10人くらいです。(中略)あの当時の学生の一般的な心理としては、やはり被圧迫民族なんだ、という観念が頭から払いのけられなかった。金がなけりゃ、学校には入れなかったから、どだい学生になれるなんて極めて稀れなことだったな。私も大邸商業を卒業してから5年ほど金融機関に勤めました

また、彼は次のような言葉も残している。

「当時の大学には、最高学府で学んでいる一員として、高度な使命感があったじゃないかと思うんですよ。俺は祖国の独立を勝ち取るために、自分の知識を民族に尽くすために、俺は学問をしているんだ、という考え方ですね」

これらの回想から立命館大学の朝鮮籍学生は、必ずしも朝鮮での中等・高等学校や大学在学中や卒業後に日本(内地)の大学に「留学」したのではない。彼らは、一度就職してから、より高度な学問を学ぶため、換言するならば社会的にステップアップするために、立命館大学へ「修学」したようである。また、高貴な民族的使命感、といったものが言葉の端々から感じられずにはいられない。この傾向は、朝鮮での卒業後に直接日本の大学へ「留学」した早稲田大学や、商都・大阪で学ぶ関西大学の朝鮮籍学生の場合とはやや異なるように思われる。

後編>>

© 2011 Norifumi Kawahara

korean in Japan ritsumeikan university student

Sobre esta série

関西居住の学徒が移民・移住に関わる諸問題を互いに協力しあって調査・研究しようとの目的で。2005年に結成された「マイグレーション研究会」。研究会メンバー有志による、「1930年代における来日留学生の体験:北米および東アジア出身留学生の比較から」をテーマとする共同研究の一端を、全9回にわたり紹介するコラムです。