ディスカバー・ニッケイ

https://www.discovernikkei.org/ja/interviews/clips/599/

日本とアメリカでの教え方の違い(英語)

(英語) アメリカを4、5年離れていたので、(帰国後は)英語を学ぶためにSC(南カリフォルニア大学)の夜間学校に通いました。日本では(先生に)絶対質問できませんが、SCでは先生の方が「何か質問はありますか?質問はありませんか?」と聞くんです。私は質問したいことが沢山あって、それができるので(その時は)「これがアメリカなんだ」と思いました。質問ができて、先生と親しくなれることがとても嬉しかったですね。

でも日本は違います。本当に違います。見て学ばなくてはならず、あまり良い言葉ではありませんが「“盗る”ことをしなくては(盗んで学ばなければ)ダメ」と言うんです。「盗る」つまり「盗む」という意味ですから。それが(日本流の)学び方なのです。先生は今日このやり方でやったかと思うと、次の日は違うやり方でやります。私たちは先生のどこがどう違うのかを見極めなくてはなりませんでした。時にはお化粧の仕方が違い、その時は「お化粧の仕方が違います」と言わなくてはなりません。ですから何が昨日と違うのか、書き留めておく必要がありました。

またお稽古をしている時は・・・7・・・向こう側にいる人たちが何をしているかも分かっていなくてはなりません。自分のパートだけを学ぶのではダメで、全体で何が起きているのかをわかっていなくてはならないのです。その為にも他の人が何を考えているか、彼が何を考えているかをわからなくてはならなりません。「こころの空間」つまり「その場の状況を感じ取る」ことが必要なんですね。これが私が(日本で)学んだことです。お陰で収容所で(踊ったとき)は、自分の感情を観ている人たちに注ぎ込むことができました。その時のお客様の反響は、本当に素晴らしいものでした。これが日本で私が学んだことです。


芸術 ダンス 投獄 監禁 第二次世界大戦

日付: 2004年11月30日

場所: 米国、カリフォルニア州

インタビュアー: ナンシー・アラキ、ジョン・エサキ

提供: 全米日系人博物館、ワタセ・メディア・アーツ・センター

語り手のプロフィール

藤間勘須磨師匠(本名スマコ・ハマグチ)はカリフォルニア州サンフランシスコに生まれました。9歳のときロサンゼルスで歌舞伎を習い始め、その後ハワイの交換プログラムに参加しました。プログラム終了後、ロサンゼルスへは戻らず、斯界の歌舞伎役者6代目尾上菊五郎の元で学ぶために渡日。菊五郎の紹介で彼の師である藤間勘十郎のもとで藤間流を学びました。舞踊の基本だけでなく、三味線、鼓、演技、化粧なども学び、1938年藤間流の名取りを取得しました。

名取り取得後アメリカへ帰国し、父の経営するロサンゼルスのホテルでダンス教室を開きます。しかし、第2次大戦勃発ゆえに勘須磨師とその家族はアーカンソー州ローワーでの収容を余儀なくされました。少しして、政府より日本舞踊を教えることを許されたため、戦中はさまざまなキャンプで日本舞踊を教えました。戦後はロサンゼルスへ戻り、日本舞踊を教えるかたわら、自らの公演も再開しました。現在、彼女は2000人以上の弟子を持ち、その中の43人は名取りを取得しています。

1985年、日本政府より宝冠章、1987年にはNational Endowment for the Arts' National Heritage Fellows Award(米国版重要無形文化財)を受賞しています。また、2004年に全米日系人博物館よりCultural Ambassador Awardを受賞しています。

2023年2月、104歳で亡くなりました。(2023年6月)

ジョージ・カズハル・ナガヌマ

クリスタルシティの雷

(1938年生まれ)クリスタルシティに収容されていた日系ペルー人

カズム・ナガヌマ

妹のキヨは彼にとって第二の母親のような存在だった

クリスタル・シティに収容された日系ペルー人(1942年生)

ミア・ヤマモト

父親の影響

(1943年生まれ) 日系アメリカ人トランスジェンダー弁護士

ベン・サコグチ

キャンプから帰ってきて

(1938年生まれ) 日系アメリカ人の画家、版画家