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https://www.discovernikkei.org/es/journal/2009/12/9/nihon-no-kyouiku/

第10回 北パラナ地方(1)

周知のように、ブラジルは世界最大の日系コミュニティを有し、その人口は約150万人とされる。日系人口はいくつかの地域に集中しているが、もっとも人口が多いのはサンパウロ州で、それに次ぐのが南隣のパラナ州である 。同州内でも「北パラナ」と呼ばれる北西部に、日系人口が集中している。現在、ブラジルの「日本文化」プレゼンスで、もっとも熱いと言われるのが、この北パラナであり、ロンドリーナ(Londrina 人口約50万)、マリンガ(Maringá 人口約35万)という中核都市(地図1参照)を中心に、強力なインテグレーションを持った日系コミュニティが存在する(「ブラジルの日本人街」第10回 参照)。

地図1:パラナ州ロンドリーナの位置 (クリックして拡大)

この地方の日系人は戦後、政界、財界、アカデミズムなどさまざまな方面に進出し、その粘り強さと信用から、多くの分野でめざましい活躍をするようになっている。例えば、1954年以降22名を数える日系連邦議員中、パラナ州選出は5名とその約四分の一を占める(NEGAWA, 2008, p.305)。連邦下院議員連続30年という偉業を成し遂げ、日本ブラジル議員連盟会長を長らく務めたアントニオ上野は、同州カンバラ出身。パラナ州の州都で、ブラジルの州都の中でもっともクリーンなイメージがあるクリチバ市の元市長カシオ谷口は、任期中全国市長好感度ナンバー・ワンに輝いたこともある(現在はブラジリア連邦区環境プロジェクト局長)。ブラジル農牧業研究公社(EMBRAPA)の上級研究員で、ブラジルの主要作物大豆の病菌研究で国際的に注目される植物病理学者ジョゼ・タダシ・ヨリノリ博士はロンドリーナ出身である。

パラナ州に最初の日系移民が入植したのは1913年のことであり、サンパウロ州から南下してきた人びとによってはじまった(五十嵐, 2005, p.15)。サンパウロ州オウリーニョスと隣接するカンバラは、「北パラナの玄関」と呼ばれ、日系人による入植もこの地域からはじまった。1920年代以降、イギリス系の土地開発会社である北パラナ土地会社(Companhia de Terras Norte do Paraná)が同地方の開発をはじめると、多くの国々の移民とともに日系人入植が増加した。日系教育(日本語教育)も、このカンバラからはじまった。『サンパウロ日本人學校父兄會々報』第二号(1934)によると、カンバラ駅近辺に、大正12(1923)年1月15日にヴィラ・ジャポネーザ小学校が誕生している。また、同地域のランバリーに大正15(1926)年10月20日にアグワ・ド・ヴィエイラ小学校が開設されている(同書p.10)。

そういった北パラナの日系教育機関の中で中心的な存在が、「パラナ日本人会寄宿舎」だった。この寄宿舎は先述の『サンパウロ日本人學校父兄會々報』第二号(1934)によると、カンバラ市内に昭和5(1930)年2月25日設立された。1934年の時点で、57名の生徒と教員尾関保助、衣川滋雄の名が確認される(同書p.10)。「カンバラ小学校」という呼び名もあったようで、上記の上野元連邦下議の父米蔵氏が経営にたずさわり、彼自身もこの寄宿舎で8年間学んだ。上野氏は筆者のインタビューにおいて、「ちゃんとした日本語を話したり、読み書きできないのは、日系人として恥ずかしい」と述べ、また「政界においても、商売においても、成功の鍵は日伯両語ができたためである」と語っている(根川, 2008, p.69)。当時の日本的教育への熱意とバイリンガル教育の効果が伝わってくる。

現在ロンドリーナ市内に住むYSさん(1928年愛知県生まれ)は、かつて少女時代にこの寄宿舎に学んだ。「父は日本に帰る気持ちはなかったようですけど、日本人が日本語をわからんでどうする、と言って、妹と二人寄宿舎に入れられました」12、3歳頃というから、すでに戦時中である。日系人の多い北パラナとはいえ、戦時中となるとさすがに日本語を勉強できるところは限られていた。それでも、「寄宿舎には25人ぐらい生徒がいました。午前中は二階で隠れて日本語を勉強し、午後はグルッポ(ブラジルの公立小学校)に通っていました」と、YSさんは当時のバイリンガル生活を当たり前のように話す。寮内での生活について尋ねると、「私はお転婆でね、男の子とケンカばかりしていましたよ」と恥らうように笑うのだった。

この寄宿舎の建物は、現在もカンバラ市内に残っている(写真10-1)。二階建て板張り・板敷きで、日本人の大工さんによって建てられたという。私たちが訪ねた時は誰も使っていなかったが、1980年代までは、カンバラ日本人会の寄宿舎として使われていたそうである。YSさんの記憶では、一階に教室兼ホール、教員室、食堂、浴室を備え、二階が寄宿生の子どもたちの居室になっていたという。カンバラ市内に住む通学生もいたそうである。「自分たちはこの寄宿舎でもパーリャのコルション(トウモロコシの皮を入れたマットレス)で寝ていましたよ」とYSさん。パーリャのコルションは、農村の子どもたちにとって、おなじみのものであった。

写真10-1:カンバラ市内に今も残る寄宿舎の建物(2009年10月筆者撮影)

戦後に北パラナの中心的都市となっていくロンドリーナに入植がはじまったのは、1930年代からである。先述したように、ロンドリーナはイギリス系の北パラナ土地会社によって開発され、ロンドンにちなんでその名がつけられた。日系移民の入植も土地の分譲が開始された30年代初頭からはじまっており、現在はすでに三世、四世の世代が中心になっている。といっても中心部が都市化し、人口が急速に増えたのはここ20年のことだという。パラナ州は日系移民が多いだけでなく、日本の兵庫県と姉妹提携を結んでおり、日本との関係も深い。ちなみに、ロンドリーナ市は同県の西宮市と姉妹都市であり、市内に西宮公園が存在する。

ロンドリーナは「国際植民地」と呼ばれたように、イギリスだけでなく、イタリア、ポルトガル、アラブ、スペイン、フランス、ハンガリー、ドイツなど多くの国・地域からの移民によって開発された。こういった多文化的な環境の中で、1933年には、ドイツ系小学校が市内に開校された(CERNEV, 1995, p.153)のに続き、最初の日系教育機関である中央区小学校が開設されている。小学校といっても、ブラジル各地の農村に見られたように、最初はパルミット椰子材の簡素な建物であった。

移民史の研究家でも知られる沼田信一さん(1918年北海道生まれ)は、1933年に両親兄弟とともに渡伯したロンドリーナの生き字引である。15歳の時に国際植民地に入植し、現在91歳だが、毎朝奥さんと数キロを散歩するというほど矍鑠(かくしゃく)としておられる。この最初の小学校が建てられた時のこともよく覚えている。「ここに入って、すぐに学校をつくろうということになって、みんなでパルミットの樹を切り出してきて、15日ぐらいでつくった。自分は15歳になっていたのでこの学校には行かなかったが、弟や妹たちが通いました」。この写真は、1933年の開校式に撮影されたもので、写っているのは39人の生徒たちと佐藤吾郎先生夫婦である(写真10-2)。

写真10-2:中央区小学校の開校式(沼田信一氏提供)

中央区小学校を皮切りに、第一区から、第二区、カフェザール区などに5つの日系小学校がつぎつぎと建てられた。テーラ・ロッシャと呼ばれる土地が肥沃な地域で収穫もよく、人口もどんどん増えていった。中央区小学校も5年後の1938年には、瓦葺き、板壁の立派な建物に再建されている。

ただ、以前述べたように、日本からもっとも多くの移民がブラジルに渡った30年代には、多くの日本語学校が開設されたが、ブラジルのナショナリゼーション政策が進められた時期でもあった。同化政策のもとに外国語教育が規制されていく30年代後半、日本語教育も徐々に圧迫されていく。新設された中央区小学校の建物は、ブラジルの公立小学校として利用された後、市の郊外に移築され、一時期は農作物市場として利用されていたそうである。70年近い風雪に耐えて、校舎は現在も残されている。先の寄宿舎にしろ、この小学校校舎にしろ、かつての日系教育機関の廃墟のような状態を見るにつれ、歴史的建築物として保存・再利用のための何らかの方法はないものかと、心を痛めるのである。

注釈

1.1987~88年に実施された「ブラジル日系人口実態調査」では、1987年7月現在の日系人口は122万8000人と推計されている。そのうち72.23%はサンパウロ州に、11.69%が南部に集中し、南部の日系人口の大部分がパラナ州に居住していることが明らかにされている(サンパウロ人文科学研究所, 1988, pp.14-15)。


参考文献
五十嵐俊夫「パラナ州の日本人」パラナ日本移民百周年への道程刊行委員会編(2005)『パラナ日本移民百周年への道程』パラナ日伯文化連合会pp.13-30

サンパウロ人文科学研究所(1988)「ブラジル日系人口実態調査」サンパウロ人文科学研究所

サンパウロ日本人學校父兄會(1934)『サンパウロ日本人學校父兄會々報』第二号

日本移民80年史編纂委員会(1991)『ブラジル日本移民八十年史』移民80年祭典委員会

根川幸男(2008)「大和魂とブラジリダーデ-境界人としてのブラジル日系政治家と軍人-」森本豊富編『移動する境界人-「移民」という生き方』現代史料出版pp.55-87

CERNEV, Jorge (Org.)(1995)Memória e Cotidiano: Cenas do Norte do Paraná. Londrina , Universidade Estadual de Londrina.

NEGAWA, Sachio (2008) “Políticos e Militares Nikkeis Brasileiros”. In. Centenário da Imigração Japonesa no Brasil e Cinqüentenário da Presença Nipo-Brasileira no Brasília. Brasília, FEANBRA, pp.303-324.


*本稿の無断転載・複製を禁じます。引用の際はお知らせください。editor@discovernikkei.org

© 2009 Sachio Negawa

Brasil educación Paraná (Brasil)
Sobre esta serie

La segunda columna Discover Nikkei de Yukio Negawa de la Universidad de Brasilia. Como ejemplo de la expansión de la "cultura japonesa" en el extranjero, particularmente en América Central y del Sur, este libro informa sobre el flujo y la realidad de la cultura educativa japonesa en Brasil, que cuenta con la comunidad japonés-estadounidense más grande del mundo, desde la época anterior a la guerra. y los períodos de mitad de la guerra hasta el presente.

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Acerca del Autor

Sachio Negawa es profesor asistente en los departamentos de Traducción y Lenguas Extranjeras de la Universidad de Brasilia. Experto en Historia de la Inmigración y Estudios Culturales Comparados, vive en Brasil desde 1996. Se dedicó plenamente al estudio de las instituciones de aprendizaje en las comunidades japonesas y asiáticas.

Última actualización en marzo de 2007

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