福田 恵子

(ふくだ・けいこ)

大分県出身。国際基督教大学を卒業後、東京の情報誌出版社に勤務。1992年単身渡米。日本語のコミュニティー誌の編集長を 11年。2003年フリーランスとなり、人物取材を中心に、日米の雑誌に執筆。共著書に「日本に生まれて」(阪急コミュニケーションズ刊)がある。ウェブサイト: https://angeleno.net 

(2020年7月 更新)

war ja

日系ペルー人の終わらない戦後 その1

第二次大戦中、日系アメリカ人が敵性外国人として見なされ、アメリカ各地の強制収容所に抑留されていた事実を知る人は多い。しかし、中南米の日系人もまた、米国内の収容所に強制連行されていた。私がそのことを知ったのは、NHKの特集番組がきっかけだった。

番組によると、ルーズベルト大統領は国内の日系人だけでなく、中南米在住の日系人も敵性外国人として逮捕することを望んだのだと言う。合衆国大統領の申し出に、メキシコ、ボリビア、コロンビア、コスタリカなど13にのぼる中南米諸国が応じた。米国に連行された日系人の総数は2264人。うち7割を占 めるのがペルーの日系人だった。

ペルーへの日本人の移住は1899年から始まった。当初はサトウキビ農園の労働に従事していたが、やがてレストランや商店の経営で成功を収めるようになる。リマ近郊に在住していた日系人は日本人学校を創設、スペイン語を自由に操り、地元社会の実力者として頭角をあらわしていく。1920年代には3万人の日系人がペルーに暮らすようになっていた。

しかし、日系人の台頭を快く思わない人も少なくなかった。それらの嫉みを、戦時下、プラド大統領はアメリカとの秘密協定に利用した。実力者を中心に日本人狩りを行い、アメリカに送り出した。

輸送船に乗せられた日系人たちは、米国テキサスをはじめとする収容所に連行された。アメリカ入国の際にはパスポートもビザも持たされず、「不正入国 による移民法侵犯」容疑をかけられる。やがて、主人だけでなく、ペルーに残された家族もアメリカに呼び寄せられる。しかし、それは家族で一緒に暮らせるようにという配慮からではなく、アジア各地で日本軍に捕われていた米国軍捕虜との交換要員が必要だったからだ。米国軍捕虜の数は7千人。収容所からニュー ヨーク港に集合させられた中南米の日系人は、船でインドのゴアをめざした。そこで、米国軍捕虜と交換が行われた。こうして日本に強制的に戻された日系人たちの戦後は苦労の連続だった。彼らは財産も名声もすべて中南米に置き去りにしてきたのだ。

一方で、米国の収容所を開放された後に、日本行きの船への乗船を拒み、米国内に残った中南米出身の日系人たちも多かった。1980年代に強制収容さ れた米国出身の日系人には米国政府が公式に謝罪し、1人2万ドルの補償金が支払われた。日系ペルー人たちも同様の訴えを起こしたが、1人5千ドルという補 償金しか受け取ることができなかった。強制的に国外にまで連行されてきて、さらにパスポートをはく奪され、財産を残した国に戻る道さえも閉ざされた彼ら。 あまりにも公平さを欠く処置だと言わざるを得ない。

ペルー出身の日系人たちは、強制連行されてきた過去の悲劇について、声高に語ることをしない。しかし、私はどうしても、彼らの生の声を聞きたいと思った。全米日系人博物館からの情報で、わずか6歳の時にアメリカに来たペルー出身の日系人男性と連絡を取ることができた。元検眼医で今は悠々自適の引退生活を送る、カリフォルニア州サウストーランス在住のマイク中松氏がその人である。さらに、中松氏の紹介で、ロサンゼルス市リンカーンハイツの引退者ホー ムに暮らす親川さんにも取材ができた。次回2回に分けて、お二人の壮絶な体験をご紹介したい。

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その2>>

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第3回 新世代のウチナーンチュウに聞く

山内優子さん (OAA オフィスマネージャー)

OAAのオフィスマネージャー、山内優子さんは、沖縄生まれのアメリカ育ち。沖縄県費奨学生として沖縄に1年間留学した後、さらに5年間、現地に 残って沖縄文化を吸収した。アメリカに戻った優子さんは、沖縄文化だけでなく、翻訳もできるだけの日本語力、さらにはウチナーンチュ新世代としての自覚を 身に付けていた。

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Q:ご家族のどなたが沖縄からアメリカに来たのですか?

A:私の父が、出稼ぎ目的で1960年代にアメリカに来ました。その後、沖縄に戻って結婚し、私が生まれました。私が7カ月の時、再びアメリカに来る機会を得て、私と母を連れて1971年に移住してきました

Q:子供の頃から沖縄の文化や食物には親しんでいましたか?

A:6歳の時から、母の勧めで琉球舞踊を習い始めました。しかし、当時は沖縄の文化が本土のそれと違う独特のものだとは知りませんでした。10代の時に、沖縄出身ではない日系の友人が沖縄音楽に耳慣れないということを知り、沖縄には独自の文化があるのだと認識しました。

Q:沖縄県費奨学生に申し込んだ理由は?

A:大学時代から家族に留学を強く勧められていたので、申請条件の最後の年の29歳で申し込みました。沖縄では、子供の頃から習っていた舞踊に加え 三線も習い始めました。2001年の3月に奨学生期間が終了する頃には、真剣に打ち込みたいと思い始めていたので、奨学生期間終了後も沖縄に残って働きな がら稽古を続けることにしました。6年間滞在し、2006年に戻ってきました。

Q:沖縄に暮らす前と後で何が大きく変わりましたか?

A:家族の歴史について理解し、沖縄に親しみを抱くようになりました。多くの日系人は家族の歴史とはアメリカに来た地点から始まると思っているようですが、アメリカに来る前の土地にも豊かな歴史があり、そしてそれは現在の私たちにめんめんとつながっているのです。
日本の企業で働いたのも良い経験でした。日本社会の仕組みや風習を理解できるようになり、今、県人会で沖縄県庁と連絡を取り合うときに非常に役に立ってい ます。また、沖縄で、ペルー、ボリビア、アルゼンチン、メキシコ、カナダなどほかの国から来たウチナーンチュと知り合ったことで、沖縄の海外移民の背景を 学ぶとともに、私自身の世界観が広がりました。

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Q:沖縄県民の気質についてどう思いますか?

A:一般的には、のんびりしていて温かいということが挙げられるでしょう。初対面の人にも心を開き、微笑みかけ、一緒に食事もするという開けっ広げ な性格。戦争が人々の心と土地に残した傷跡は計り知れない分、平和を愛する気持ちが強い。しかし被害者意識は強くなく、楽観的で物事を前向きに信じるタイ プです。

Q:OAAで働くことにしたのは?

A:私を奨学生として推薦してくれたOAAに、沖縄で素晴らしい経験を積むことができ
たお礼をしたいという気持ちもありました。また、個人史については理解したので、これからはOAAと北米への移民史についても学びたいと思ったことも理由です。

Q:今後の抱負は?

A:OAAが私のような有給のスタッフを雇用するようになったのは最近のことです。これが今後、組織を確固たるものにし、より発展していく最初の一 歩であることを望んでいます。また、私が県人会や沖縄からいただいたもののほんの一部でも、これからの私の働きでお返しができればと思っています。

 

* 本稿はU.S. FrontLine January 2008 (3rd week) からの転載です。

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第2回 3000人抱える大規模県人会

Okinawa Association of America
会長・ケン・カミヤさん  / ハワイ生まれ三世

アメリカには20を超える沖縄県人会がある。群を抜く会員数を抱えるハワイに次いで大きいのが、カリフォルニア州ガーデナに拠点を持つ北米沖縄県人会 (Okinawa Association of America、以下OAA) だ。2007年11月時点で、会員数は約3000人、750世帯を数える。

2006年から会長を務めているのがケン・カミヤさん。OAAはガーデナのウエ スタン通り沿いに3つの建物を所有し、会長であるカミヤさん自らが管理を引き受けている。豆腐会社のオーナーだった山内夫妻からの寄付金で購入したのが、 一番南側に立つヤマウチ・ビルディング。カラオケ設備もある建物の中ではセミナーやミーティング、パーティーが催される。隣接するヒガシ・ビルディングは オクスナードで農業を営んでいた東夫妻から寄付されたもので、琉球舞踊の練習会場に使用されている。そして、ガラスの外観が真新しいビルの中には、OAA の事務所と図書館がある。

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事務所で出迎えてくれたカミヤさんに、「どうして、沖縄の県人会は活発で、絆が強いのか」という素朴な質問をぶつけてみた。「もともとは、日本本土 の人たちから差別的な待遇を受けることも少なくなかっため、沖縄の中での結束が非常に強かったという歴史的背景があると思います。その後、海外に移住して からも互いに助け合っていたことが尾を引いているようです。私が11年生まで育ったハワイでの沖縄出身者同士の結束はここ以上でした。夏休みの3カ月間は 毎週末、大勢集まってピクニックをしていました。そこでは沖縄の音楽と踊りが披露されていたので、二世や三世も子供の時から沖縄の文化に触れていたので す」ハワイの沖縄出身者の中には、子供が大学に進む前に本土に移住する家族が少なくない。カミヤさんの一家もより良い教育と就労の機会を求めてカリフォル ニアに渡ってきた。当時のハワイの密な交流に比べると、アメリカ本土での沖縄出身者の交流は非常に淡泊に感じられたと、カミヤさんは振り返る。

誰にでも門戸を開放

2006年にカミヤさんがOAAの会長に就任してからは、子供を含めた若い世代を対象にした新たなイベントに力を入れている。OAAが所有する建物や図書館などの財産を次世代にしっかりと引き継いでいくためにも、沖縄文化の魅力を積極的に伝えていくことが急務だと語る。

今では熱心にOAAの運営活動に取り組むカミヤさんだが、沖縄県主催の世界ウチナーンチュ大会(世界中の沖縄出身者5000人が那覇に集合するイベント、5年おきに開催)に参加するまでは、県人会長を引き受ける意思はなかったという。

「私が会長になってもお役に立てないのではないかという気持ちが強く、推薦を断っていました。しかし、世界ウチナーンチュ大会に初めて参加したと き、大勢の沖縄出身の海外移住者と出会い、彼らの熱い思いに触発されたんです。また、そこで沖縄の人々に『お帰りなさい』と迎えられて私の中の何かが変わ りました。カリフォルニアに戻る頃には、会長職に立候補しようという気持ちが固まっていました」

OAAのイベントカレンダーには年間40近いイベントが並ぶ。人形劇、親睦会、ファンドレイジング、ピクニック、バザー、婦人部主催のクッキングク ラスやウチナグチ(琉球方言)のクラスなど。沖縄から最近渡米してきた人は、OAAに連絡すれば在米の親戚探しを手伝ってくれる。また、沖縄に縁がない人 にも、文化や料理に
興味があれば、「イチャリバチョオデエ(会えば皆兄弟)」精神で門戸を広く開放している。


北米沖縄県人会: www.oaamensore.org

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* 本稿はU.S. FrontLine January 2008 (3rd week) からの転載です。

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第1回 海外めざしたウチナーンチュ 19世紀末にハワイ・米国上陸

日本ではここ数年、沖縄がブームだ。新垣結衣、山田優、オレンジレンジ……芸能界でも沖縄出身者が大活躍している。また、温暖な気候と自然に恵まれた環境を求め、本土から転居する人が後を絶たない。

ここアメリカには、ハワイを経由、または直接沖縄から移住してきたウチナーンチュ(沖縄の人)のコミュニティーが各州に形成されている。戦前に渡米してきたウチナーンチュの子孫、戦後、親戚や家族を頼って渡米してきた人、そしてビジネスや留学目的でやって来た人々。世代や渡米の目的は違えど、変わらぬ強い絆で結ばれたウチナーンチュの熱い息吹が感じられる。

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世界に30万人はいるといわれる、沖縄出身の海外移民。最初に北米に渡ったのは、1889年にバンクーバーに上陸した河津恵三だといわれている。河 津はそのままカリフォルニアに南下した後、アリゾナに移り、定住した。その10年後の1899年、沖縄の移民の父と呼ばれる当山久三に率いられた26人が ハワイに植民。1912年までにハワイには1万人以上、アメリカ本土には150人が沖縄から移住している。沖縄からこれほど多くの人々が海外をめざしたの は、狭い面積の中での人口増加が限界に達し、食料難と就職難が大きな問題となっていたからだといわれる。1913年になると、外国人の土地所有を禁じた法 案がカリフォルニア州で施行され、さらに24年に全米で移民禁止法が法令化された。これにより、沖縄を含む日本からの移民は渡航先を南米へと変えることに なる。

しかし、それまでに定住していたハワイの沖縄県人は世代を重ねて増加する一方で、その一部はさらにアメリカ本土へと移住した。第2次世界大戦時に は、ペルー在住の沖縄出身者が大勢、アメリカ国内の強制収容所に移送されてきた。ペルーとアメリカ政府との契約によって、日本軍捕虜となっていたアメリカ 兵との交換要員にするのが目的だった。日本行きの船に乗ることを拒否した沖縄出身者は、戦後、ペルーへの帰国も許されなかった。米国内に残留した沖縄系を 含む日系ペルー人の多くは、身寄りを頼って南カリフォルニアに移住した。

戦後は、全米各地の沖縄系組織の主導により、米軍の管理下に置かれた沖縄から留学生を迎え入れるようになった。戦後初の留学生は、1949年に渡 米。3名がハワイ大学での1年間の学生生活を送った後、本土の大学に編入した。その後も、沖縄に駐屯していた米軍からの影響で、アメリカの親族を頼って渡 航を希望する若者が増加の一途をたどった。

2005年1月現在、北米における県人会の登録人数は、ハワイが9500人、後出する南カリフォルニアの北米沖縄県人会が3000、北カリフォルニアが370、ワシントンDCが300、アトランタが同じく300となっている。

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*本稿はU.S. FrontLine January 2008 (3rd week) からの転載です。

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