福田 恵子

(ふくだ・けいこ)

大分県出身。国際基督教大学を卒業後、東京の情報誌出版社に勤務。1992年単身渡米。日本語のコミュニティー誌の編集長を 11年。2003年フリーランスとなり、人物取材を中心に、日米の雑誌に執筆。共著書に「日本に生まれて」(阪急コミュニケーションズ刊)がある。ウェブサイト: https://angeleno.net 

(2020年7月 更新)

migration ja

Choices for Japanese People Living in America

31年間の米国生活から日本に引き揚げた後永住権を再取得した徳留絹枝さん

子どもの将来考え永住権取得

様々な理由で米国暮らしの後に日本に引き揚げたり、またアメリカに残る選択をしたりする新一世の話を聞くうち、一度日本に引き揚げた後に再びアメリカに戻ってきた人の話も聞きたいと思うようになった。そんな時、2019年の夏にオレンジ・カウンティーのアーバインで開催されたセミナーで、偶然再会した徳留絹枝さんのことを思い出した。徳留さんはユダヤ人と日本人の関係に焦点を当てた著書で知られる活動家(私はジャーナリストだと思っていたが、徳留さん本人は活動家と紹介してほしいと言う)で、再会した時「日本に一度帰っていたんですが、またアメリカに戻ってきました」と話していたのだ。再会から1年以上経ったコロナ禍の中、私はzoomで徳留さんの帰国の決断、永住権を取得し直して再移住した経緯を伺う機会をもらった。

徳留さんが最初に渡米したのは夫のアメリカ駐在への同行が目的で、1978年のことだった。二人の子どもは当時まだ幼く、土曜の日本語補習校には通っていたが、「子どもたちがこれから日本に帰ると言葉や生活習慣の面で苦労するに違いない」と思い、帰国辞令が出た時にアメリカに残る道も選択できるようにと、徳留さん夫婦は永住権を取得した。その後も徳留さんはホロコーストや旧日本軍米兵捕虜に関する著書に取り組むなど積極的な活動を続け、夫も会社から独立し起業した。そして、子どもたちがアメリカで社会人として巣立った後、転機が訪れた。2009年に夫が癌と分かり、日本での治療を選び、夫婦で帰国することを決めたのだ。

「夫が病気になるまでは老後は日本で暮らそうとか、あまり深く考えたことがありませんでした。しかし、(夫が)初めて病気になり、アメリカのかかりつけのドクターに紹介された専門医の診断を受けた後、保険で最初の段階の治療はカバーされても、次の段階になったら簡単には(カバレッジは)効かなくなるかもしれない、と治療費についての問題が出てきました」。故郷に暮らす夫の兄が「鹿児島で治療を受けたらいい」と熱心に勧めてくれたことが夫婦の背中を押した。

故郷では温かく迎えられた

2009年の5月に帰国し手術を受けた後、7月の長女のアメリカでの結婚式には夫婦で出席することができた。それから5年、徳留さん夫婦は鹿児島の家族や親戚、友人に囲まれて穏やかな時間を過ごした。アメリカで31年も暮らした後の日本、しかも地方の暮らしは不自由ではなかったかと聞くと、徳留さんは「綺麗事で言うのではなく」と前置きした上で次のように続けた。

「私たち夫婦が帰った目的が治療だったので、故郷の人たちは『大変でしょうね』と温かく接してくれましたし、少なくとも人間関係での苦労はなかったですね。受け入れてくれてとても有難いと感謝しました。アメリカのことも聞かれれば話すけれど、自分たちから『アメリカではこうだった』と話さなかったし、話す必要もありませんでした。それに、アメリカから何度も子どもたちを連れて鹿児島と、私の故郷の仙台には帰省して、私たちの家族の顔を見せていました。だから31年ぶりに突然、帰ってきたというわけではなかったんです」。

やがて、徳留さんは夫の父が開設した障害児向け施設で働き始めた。しかし、2014年に再度転機が訪れる。

「夫が逝去したのです。鹿児島の皆さんには未亡人になってからも、ここで暮らせばいい、施設で働き続けてほしいと言っていただきました。でも、私は90を過ぎて仙台で独り暮らしをしていた父と住むことにしたのです。2年後、同じ仙台に住む兄の考えもあり、父は快適な老人施設に入園しました。夫の三周忌を済ませた私も、アメリカのメディケアに入れるようになった2016年夏頃から、結婚してアーバインに住んでいた娘がアメリカに戻ってきたらと強く勧めてくれ、(再渡米を)決心しました」。

永住権は日本に帰国した時に返還していたため、娘のスポンサーで再申請し、1年後の夏に米国に戻ってきた。そして現在の徳留さんは娘と婿、二人の男の子の孫に囲まれて賑やかな生活を送っている。


日本のためになる活動を

8年ぶりのアメリカは徳留さんの目にどのように映ったかを聞いた。「あまり離れていた感じはしませんでした。娘一家と同居なので、いろいろな意味で恵まれていると思います。以前親しくしていたアメリカ人の友人たちとは、日本にいる間もメールでいつもやりとりしていたので、私が帰って来たのを喜んでくれて、すぐ元のような交際に戻り、ブランクを感じることはありませんでした」。

また、執筆活動を行う上でアメリカと日本のどちらがやりやすいかについては次のように答えてくれた。「書きたいテーマによると思います。私の場合は、米国に住んでホロコーストのインタビュー集や旧日本軍の捕虜となった米兵たちの問題を書いていましたが、どちらも日本ではあまり理解されていないテーマでした。そして取材対象者も米国にいましたから(米国に戻ったことは)都合が良かったです。今はエルサレムにある世界有数の障害児施設の創立者の回想録を日本語に訳しています。こういう時代ですので、物を書く仕事はどこに住んでいてもできると思います」。

娘一家と暮らし、ライフワークに取り組む環境としても理想的なアメリカに戻ってきた徳留さんだが、日本を恋しく思うことはないのだろうか。「この先高齢になって身体的に帰れなくなったらそう感じるかなとも思います。しかし、20代半ばからずっと米国暮らしで、子供たちもこちらなので、多分『帰りたい』と思うことはないだろうと思います。むしろ、高齢で米国訪問ができなくなり、子どもや孫たちと会えなくなる方が辛いだろうと想像します。これからも日本との繋がりが途絶えないように、日本で発表できるものを書いたり、ささやかでも日本のためになると思える活動に携わっていきたいと思っています」。

自分がどこに暮らすかよりも、誰と時間を過ごしたいか、何に対してどういう姿勢で取り組むかが重要なのだということを改めて教えてくれた今回の取材だった。


*徳留絹枝さんの運営サイト:「ユダヤ人と日本

 

続きを読む

migration ja

Choices for Japanese People Living in America

永住権当選から18年後の現在地 — 中島恒久さん

時給7ドルからのアメリカ生活

サンフランシスコ近郊のIT企業でCOOを務める中島さんと知り合ったのは、某日系ビジネス団体の会報向けの取材だった。取材後に彼のプロフィールをまとめるために名前で検索した。すると、てっきり日本からの駐在員だと思っていた中島さんが実は、同時多発テロ事件直後に永住権抽選プログラムでグリーンカードを手にし、自力で渡米した人だということが分かった。最近は狭き門となっている同プログラムだが、当選後にアメリカに移住した人たちのその後を知りたいと思っていたこともあり、改めて取材を申し込み、話を聞かせてもらった。

中島さんがアメリカを意識し始めたのは、高校生の頃、夢中になったジャズ音楽がきっかけだったと振り返る。「大学生になると、ますますジャズにのめり込んで、ベースを演奏していました。仲間の中にはボストンの音楽大学に留学する人もいました。でも僕は行くなら留学や、ましては旅行ではなく、地に足つけてアメリカで生活してやると思っていました。単なる妬みなんですけどね(笑)」。

当時大阪に住んでいた中島さんは、懇意にしていた会社経営者を通じて、パット・メセニーやハービー・ハンコックといった一流ミュージシャンと直接会う機会もあったという。そして、アメリカでミュージシャンとして活躍する自らの将来像を描き続けた末に、2001年、永住権抽選プログラムに応募すると、何と一発で当選。実際にアメリカに移住したのは2004年、25歳の時だった。場所は北カリフォルニアのバークレー。

「アメリカに来たら音楽活動をやっているだろうと想像していましたけど、全然思ったようにはいきませんでした。英語が喋れない、知り合いがいない、仕事がないという状態で、結局、アパートの近くのお寿司屋さんにキッチンヘルパーとして雇ってもらいました。日本では演奏活動の傍らインターネットの会社で働いていてそこそこ収入もあったんですが、いきなり時給7ドルからの再出発。しかもオーナーさんがフェアな人で、メキシカンの従業員より後から入った僕を彼らの下に置いたんです。最初の頃は疎外されているように感じましたが、しんどいなあと思いながらも、メキシカンの彼らと同じ物を食べ、同じ音楽を聴くようにするなど、自分なりに溶け込めるように努力しました」。

やがて寿司屋を辞め、色々な仕事を転々とする不安定な生活を続けていた2010年に次の転機が訪れる。「実は僕、日本で結婚していて、奥さんと一緒にアメリカに来たんです。でも、彼女にしたらいつまでこんな(安定しない)生活が続くの?と不満が募っていったようで、別れを切り出されました。一緒に住んでいた家を出ることになり、仕事も同時に失って、友人の家のガレージに転がり込む羽目に。もう日本に引き揚げたいと親に相談すると、『今のような状態で帰って来たら負け犬のままだ。胸を張って帰って来れるようになるまで帰って来るな』と言われたんです。確かに、それまでの僕はお寿司屋さんの下働きに始まり、なんとかギリギリのところでやっていました」。そこで覚悟を決め、改めて仕事探しに奔走した結果、旅行会社の営業に転職、次に食品商社の事務員になり、その後マネージャーにまで昇進した後、現在のIT系企業への転職を果たした。

日系人と日本人をつなぐ触媒

今は仕事と音楽活動の二足の草鞋だけでなく、北加日本商工会議所をはじめとしたコミュニティーの活動にも積極的に携わっている。その活動の根幹にあるものについて聞くと、中島さんは次のように答えた。「在米の日本人社会は分断しています。同じ日本人なのに、たとえばレストランなどの飲食業界と僕が今身を置いているITの業界は別の世界です。その点、僕は両方の社会に属していた結構珍しい人材なんです。これまでライブ演奏、レストラン、旅行、食品、物流そしてITの業界に属していたことがあり、8年前に市民権を取得しているのでジャパニーズアメリカンの一世でもあります。だから、異なる業界の間、また日系人と日本人の間をつなぐ触媒のような役割を果たしたいというミッションを自らに課しています」。

次に中島さんがなぜアメリカの市民権を取得したのかを聞いてみた。「国籍ってたまたま生まれた場所によって決まるもので、自分で選べないじゃないですか。それを変えた時に、自分の中にどのような心境の変化が起こるんだろうということに興味がありました。果たして日本人ではなくなるのか?と。しかし、国籍がアメリカに変わっても、僕が日本人であることに変わりはありませんでした。どこをどう切っても日本人です(笑)。そして、市民権を取得した大きな理由は、アメリカの中でいろんなことがあったけど、この社会の中でなんとか生き延びることができたから、アメリカという国に恩返ししたいということなんです。そのために義務も責任も果たして、この国の一員になりたいと思って市民権を取得しました」。

さらに、中島さんは、日本人の新一世の親の下に生まれた日系二世の若い世代に社会で活躍するためのキッカケを与えるために尽力していると話す。「彼らを見ていると、アメリカ社会の中ではマイノリティーであり、(ルーツの)日本でも暮らせない、一種のアイデンティークライシスが透けて見えます。20代、30代でもまだマチュアではない人もいて、いろんなことがうまくいかないことを他の人のせいにするようなところも見受けられます。それは自己を肯定できない、自信のなさから来ているように思えます。そういう二世とじっくり付き合って、『やるかやらないかは自分にかかっている。親を恨むのではなく、自分の行動を変えるべき』と伝え、機会を与えられればと思っています」。

「うまくいかないことを人のせいにしない。やるかやらないかは自分にかかっている」、それは永住権抽選から紆余曲折あった中島さん自身が、一番身に沁みている言葉に違いない。

 

続きを読む

migration en ja

Choices for Japanese People Living in America

アメリカを終の住処とせず日本に引き揚げる人たちの理由

在米48年後、夫婦で日本へ

私の周囲で日本に引き揚げる人が増えている。私自身も節目を迎えつつある。日本で働く長男が私の両親と住んでいるので安心ではあるが、彼らの介護が必要になってくると一人っ子の私が日本に引き揚げて親の面倒をみなければならない。新一世の中にはアメリカを終の住処とせず、私のように「日本に残してきた親の面倒をみるために引き揚げる」という人もいれば、「医療費が高いアメリカでは老後は過ごしづらいから日本へ」という人もいる。そこで、遠からずその日を迎えようとしている自分自身の予習の意味も込めて、長年住んだアメリカから日本に引き揚げた人の話を聞かせてもらった。

今年の2月にロサンゼルスから九州北部に引き揚げたRさんは現在70代。渡米してきたのは1972年だというから、アメリカ生活は実に48年にも及んだ。アメリカで日本人の配偶者と一緒になり、共に生涯、アメリカで暮らしていくと考えていた。

「退職したのは63歳でした。その頃には、アメリカという国の良さ、懐の深さがだんだん薄れていくように感じていました。また、西海岸は車の運転をしなければ動けません。老後の準備をしなければならないと感じ始めましたが、子も孫もいないので、伴侶が先に逝ってしまった場合、私一人で、アメリカで亡くなってしまったら、姉妹は頼りにならないし、甥や姪が始末に来てくれるとはとても考えられませんでした。周りに迷惑をかけない生き方をしなければと帰国を考え始めました」。

若い頃、Rさんは、「年齢、性別、国籍関係なく働く職場がある」アメリカを素晴らしいと実感し、一生住み続けようと思っていたと振り返る。ロサンゼルスにかつてあった日系引退者のための施設、敬老にも20年間ボランティアとして貢献した。シニアコンドにしばらく住んだ後の住居として敬老を検討していたのかもしれない。しかし、「人に迷惑をかけない生き方」を実践するためにRさんは、九州の妹に相談した上で夫と二人で日本への永住帰国を果たした。それまで住んだトーランスのシニアコンドの処分では、壁にカビが発生してその工事に多少手間取ったそうだが、無事に売却することができた。グリーンカードは更新作業をしなければ効力を失うだけなので、そのままにしているそうだ。彼女は48年もアメリカに住みながらグリーンカードのままで、市民権を取得することはなかった。その点を質問し忘れてしまったが、いつか日本に引き揚げることを心の奥で覚悟していたのかもしれない。

さて、これから日本に引き揚げる人にアドバイスをと頼むと、彼女は次のように話してくれた。「まず、永住帰国は80歳まで。40歳、50歳代で日本に戻ると必然的に仕事をせねばならず、アメリカとは大きく異なる日本の仕事の環境に慣れず、再びアメリカに戻ってくる人は多いです。また80歳を超えると体力的に(引き揚げることは)難しいと思います。次に思い切って断捨離してから帰国すること。再出発するなら物がない方が良いでしょう。そして、日本では身寄りがいる地域に住むこと。私は妹と姪の住む場所の近くに決めた。事前に生活費などの情報を聞いて下準備をすることもできました」。


安全、清潔、便利な一方で

次に話を聞いたMさんは、私が仕事でお世話になった元クライアントだ。15年以上前、彼がロサンゼルスで勤務していた日系企業の宣伝活動のために私が文章を書いていた。ところが、まさに15年前、Mさんは突如会社を辞め、妻とまだ幼かった息子と日本に帰ってしまった。そして昨年、SNSで交流が再開した。彼は妻と共にヨガスタジオを九州北部に開設し、700名の生徒を抱えるまでになっていた。帰国して15年、大成功を収めたと言っていいだろう。

帰国した時、Mさんは55歳だった。その少し前に体調を崩し、日本で手術を受けたものの健康状態に不安を感じていた時に、妻に勧められてヨガを習い始めたのだと言う。夫婦でヨガインストラクターのライセンスを取得して、帰国後はスポーツクラブや市民センターで教え始めた。その後、アメリカンスタイルのヨガの流行に乗り、教える場所も増え、生徒も増えていった。「今では石を投げればヨガの先生に当たると言うほどですが、私たちは本当にタイミングが良かったと思います」と話す。

もともとサーファーだったMさんは、ハワイからアメリカ、メキシコ、さらにアメリカと18年間を海外で過ごした。「私が日本を離れている間、さぞかしグローバル化が進み、日本人もオープンな生活を楽しんでいるのだろうと想像していました。ところがいざ住んでみると、グローバル化など全く見当たらないことにショックを覚えました。とても小さな社会で生きている人が多いのが実態です」。

Mさんには日本の良い点も挙げてもらった。「とにかく治安が良い。犯罪に巻き込まれる可能性が本当に低いことです。また、街が清潔で綺麗であること。さらに生活がしやすい。なんでも簡単に手に入ります。外食でも安くて美味しいものが食べられる一方で、お金を出せば一流のものが揃います。まさにピンキリです」。

Mさんにもこれから日本への帰国を考えている人へのアドバイスを求めた。「日本人が必要とする専門職のライセンスを取得することをお勧めします。日本の一般的な職業に就くとアメリカに慣れている人にはその窮屈さが耐えられない可能性が高いからです。また、身寄りがまだ存命のうちに彼らがいる土地に住むこと。私の知り合いはハワイに40年間住んだ後、夫婦で帰国してきましたが、なぜもっと早く帰国しなかったのだろうと後悔しています。なぜなら身寄りがもう亡くなっているため、保証人になってくれる人がいないのです。高齢になると家を貸してくれないし、保証人が必ず必要だからです」。

前出のRさんが80歳までに帰国を、しかし早すぎると仕事で苦労すると話していた。その点、Mさんは自身が証明しているように手に職を付けて独立して働いていく自信があれば早い時期に帰国した方がいいということを強調していた。さらにMさんは「もし、日本に身寄りがいない場合でも、過疎化を阻止するために移住を推進している地方に引き揚げれば、住居だけでなく仕事探しまでサポートしてくれる制度があります。そういう制度を活用すると、特に子供がいる人は自然の中で育児ができて理想的な田舎暮らしができるのではないでしょうか」というアイデアも教えてくれた。

自身の引き揚げの予習という意味では、RさんとMさんの経験談は共に大いに参考になった。快く取材に応じてくれた両名に心からお礼を申し上げたい。そして、電話の向こうからMさんが「恵子さんも帰っておいで」と何度も呼びかけてくれた言葉が、今も耳の奥に残っている。

 

続きを読む

identity en ja

南カリフォルニア生まれの2世: 米国トヨタのクリストファー・ヤング氏

日本語のモチベーション

アメリカで生まれた日系2世が日本語学校や日本語補習校へ通う理由、それは親が「ルーツの国の言語を習得してほしい」と望むからだ。私の2人の子どもたちもそうだった。土曜の朝になると、気乗りしない様子の彼らを急かすようにして日本語学校に向かったものだ。子どもたちのその後は分かれる。「月曜から金曜まで学校に通っているのに、その上なぜ土曜も学校に行かなければならないのか」と反抗し、途中で挫折する子もいれば、勉強よりも自分と同じルーツの友達と会うことが楽しみで日本語学校に通い続ける子もいる。親の姿勢も大きく作用する。どんなに本人が嫌がっても親が背中を押し続ければ、後々、自分がバイリンガルとなったことがいかに貴重な財産であるかを本人が親に感謝する日がやって来る。現在、テキサス州に本社がある米国トヨタのバイス・プレジデントで、国際顧問弁護士のクリストファー・ヤングさん(以下クリスさん)もその1人だ。

流暢に日本語を操るクリスさんは、カリフォルニア州トーランスで生まれ育った。ヤング(楊)という名前から分かるように、父親は台湾生まれの中国人だ。幼い時に家族で台湾から東京に引っ越して来たクリスさんの父親は、日本人女性と結婚。二人で移住したアメリカで、クリスさんと弟が誕生した。

「家の中で話していた言語は英語と日本語のミックスでした。さらに、土曜日に日本語学校にも通っていました。でも、当時は親に無理やり『行かされている』と感じていました。親に『日本語を使うことはないから、学校に行きたくない』と反抗して、土曜の朝は毎回、喧嘩でした(笑)。今は親が正しかったことが分かり、心から感謝しています」と振り返る。「日本語を使うことはない」どころか、現在は日本語と英語を駆使し、北米トヨタの法務部のDeputy General Counselとして日米の架け橋的な役割を担っている。さらに、Toyota Connected North Americaという、トヨタのデータやテクノロジーを専門に手掛ける新会社の取締役でもある。

クリスさんの日本語を学ぶモチベーションは、親の励まし以外にもあった。それは剣道。出会いは、日本の祖母の家で偶然、『六三四(むさし)の剣」という、剣道がテーマのアニメをテレビで見たことだった。自分でも剣道を始めると、みるみるのめり込んでいった。高校生の時にはアルバイトで貯めたお金で、日本中を武者修行と称して、岩手から鹿児島まで剣道場を訪ねて回った。いわゆる「道場破り」だ。

福岡大学附属大濠高校でも剣道の修行経験を積んだ。さらに大学は「剣道だけに没頭できる」ところに進学したいと希望した。しかし、将来の職業も見据えた上で進学した方がいいとの親のアドバイスを受け入れ、カリフォルニア州立大学バークレー校へ。そして、3年生の時に剣道では強豪の筑波大学に留学した。筑波では「その1年間、僕はほぼ体育専門のビルに剣道部の仲間と一緒にいました」と話す。つまり、剣道だけに没頭できる学生生活が日本で実現したのだ。
 

強く優しい剣士

アメリカに戻り、大学を卒業したクリスさんはジョージタウン大学のロースクールに進学、弁護士資格を手にし、大手法律事務所に入所した。そこでの仕事は想像以上に厳しく、2003年にその事務所に入所した同期は全部25人いたが、退所する時にはクリスさんが最後の一人になっていたと言う。弁護士として多忙な暮らしを続けながらも剣道をやめるという選択肢はなかった。むしろ反対に、剣道の世界選手権に向け、仕事を1度ならず2度までも休職したことさえあった。クリスさんは剣道のアメリカ・チームの代表選手を、1997年の18歳の時から約18年間務め、さらに2006年から2015年の間は主将という重責を担っていた。弁護士事務所を休職した目的は、日本の警視庁で剣道の修行を積むためだった。

「世界一と言われる日本の剣道代表チームの選手の本職は警官です。剣道にも仕事として取り組んでいるんです。やはり一流の選手になるには、世界一の選手たちと一緒に修行しないといけません。そのために、警視庁の剣道チームに溶け込んで一緒に稽古をするのが一番なのです」

日本の警察は敵チームである米国の選手を修行という目的で受け入れてくれるのか、との率直な疑問が浮かんだ。その問いにクリスさんは「純粋な気持ちで修行したいという僕のような人間なら、たとえ、敵のチームのキャプテンであっても快く受け入れてくれます」と答えた。そして、クリスさんが主将を務めた2006年の世界選手権では、日本を負かして米国代表チームが2位になった。

その後、クリスさんは2011年に弁護士事務所を辞めて、彼が育ったトーランスに当時本社を置いていた米国トヨタに転職した。激務に関わらず、同期の中で最後の一人になるまで頑張ることができたのは剣道で鍛えられた精神力のおかげだと話すが、一方で、プロジェクトが終わるとまた新しいクライアントのためにゼロから働くことの繰り返しに寂しさを感じたことが退所の理由だと振り返る。

同じ会社のために、それまで積み重ねてきた弁護士としての会社法の知識と実績、バイリンガルの能力、さらには日本での生活や留学経験で培われたバイカルチャラルなバックグランドを生かしたいと望んだクリスさんは、それが叶う転職先として米国トヨタを選んだ。さらに2016年には、本社移転に伴い、家族と共にカリフォルニアからテキサスに移った。現在はプレイノの本社を拠点に世界中を飛び回る多忙な生活を送りながら、新たに剣道のプレイノ道場も開設した。「自分にとって居心地のいい場所は生まれ育ったカリフォルニアのトーランスでした。でもここに移ってきたことで新しい出会いに恵まれました。ここで自分は『一皮向けた』ように感じます」と、2019年5月にプレイノで会ったクリスさんは話してくれた。その際に、若い世代の社員のミーティングに彼が参加する様子を見学する機会に恵まれた。クリスさんは彼らの声に真摯に耳を傾け、的確なアドバイスを与えていた。米国剣道の第一人者であるクリストファー・ヤングさん。彼は最も強い剣士であるだけでなく、同時に非常に心優しいリーダーだという印象を筆者に強く与えた人物の一人だ。

 

続きを読む

business en ja

2017年渡米、「楽観」ラーメンの伊東良平さん

移住までに6年かけて準備

2017年7月にロサンゼルスのダウンタウンに店を開けてからサウスベイのレドンドビーチ、さらにサンタモニカと開店が続いた楽観ラーメン。Rakkan USAのCEO、伊東良平さんは自らのラーメンを武器に米国移住を果たした人物で、現在はロサンゼルスを拠点に、全米、ヨーロッパへの進出も視野に入れている。伊東さんが海外移住を志すようになったのは、専門学校を卒業後に世界を巡るNGOの大型船にシェフとして乗り込んだ10年以上前にさかのぼる。

「1年くらいかけて世界を2周しました。その時はアメリカには来なかったのですが、その後、まずアジア各国を数カ月かけてバックパッカーとして旅して回った後、バイトでお金を貯めて、アメリカに上陸。ロサンゼルスから入ってシカゴ、マイアミ、メキシコ、さらにキューバまで足を伸ばしました。当時のアメリカの印象? 正直に言うと、疎外感を感じたというか、あまり優しさに触れることができず冷たい印象を受けました。当時はベジタリアンだったので自分自身にパワーがなかったせいかもしれません(笑)。ロサンゼルスではベニスビーチのユースホステルに滞在していたんですが、観光客とホームレスの人々が大勢いることで混沌としたイメージも抱きましたね」。

しかし、ロサンゼルスには伊東さんが好きなものも共存していた。「自然が好きなので、ここは大都会だけれど同時に海や山を身近に感じられる点に魅かれました。ロサンゼルスは自分にとっての鍵となる場所だと思いました」。

子どもの頃から活発だった伊東さんは、将来は日本一周と世界一周をしたいと夢見ていた。日本一周は早くに果たし、船の乗組員とバックパッカーとして世界一周の夢も実現させた。次に夢を見たのはアメリカへの移住だ。しかし、アメリカでの旅を終えた時点で二十代前半、すぐに移住を実行に移すより前に日本でやるべきことがあると伊東さんは移住準備に6年を費やした。

「世界を回った時に確実にラーメンは受けるという手応えを得たことで、アメリカでラーメン店を開けることで移住しようと将来像を描きました。しかし、いきなり外国で勝負するのではなく、日本でまず経営の経験を積むのが先決だと思い、2011年、西麻布に楽観ラーメンを開けました」。

日本ではテレビ番組に取材されて行列の店になるなど話題を集めた。「場所を西麻布にしたのは、世界からのお客さんに触れることができる、日本の中でもグローバルな場所だからです。そして常にアメリカに店を出すことを虎視眈々と狙っていました。でも資金的な面で結果的に6年、7年近くかかりましたね」。

2014年からは海外のフランチャイザーが参加する食のエキスポにも出展を始めた。そして、ロサンゼルスの食品商社とコネクションができ、ロサンゼルスのダウンタウンに売り物件が出ていることを知り、2017年に晴れて楽観ラーメンのアメリカ1号店であり、海外1号店のオープンにこぎつけることに成功した。

「オープン前後は単身で渡米し、店と同じ並びにある大丸ホテルで生活しました。その後、嫁と息子を日本から呼んでサウスベイで一緒に暮らし始めました」。

「日本人には楽観的になってほしい」

2020年、伊東さんがアメリカに拠点を移してまもなく3年を迎える。この3年間でアメリカの印象がどう変わったか、何を学んだかを聞いた。「日本は他の人と足並みを揃えないといけないけど、アメリカは個人の希望やペースを尊重してくれる、そこが非常にいい点だと思います。アメリカ社会は多様な人種で構成されているので、人々が寛容だし、自分も柔軟な姿勢で他者を尊重しなければと思っています。価値観の幅がアメリカでの年月で広がったように感じています」。もともと、周囲のことはあまり気にせず自分のペースで突き進むタイプだという伊東さんには、アメリカが合っているのかもしれない。主張すべきだと思うことは主張する、嘘はつかない、という姿勢でこの3年間、アメリカでのビジネスを乗り切ってきたと語る。

そして、5歳と3歳の男の子の父親としては、子どもたちの教育をどのように考えているのかも聞いた。「私たち夫婦が日本人なので、親の姿を見て日本の感覚や姿勢を学んでほしいと思っています。言葉に関しては、学校ではどうしても英語になるので、家庭では日本語を徹底しています。妻は子どもたちを日本語学校に通わせたいと言っています。でも、これから彼らはアメリカで生活していくことになるだろうから、親がどうこう押し付けるのではなく、アメリカ的な感覚で生きていってほしいというのが私の希望です」。

再び話をラーメンの事業に戻そう。伊東さんがアメリカに移住した3年前にはすでにロサンゼルスでは多くのラーメン店がしのぎを削っていた。それでもラーメンで勝負をかけようと思ったのはなぜなのか。「ビジネスは考え方次第です。東京の方がロサンゼルスに比べられないほどラーメン店の数は多いわけだし、自分はそこでビジネスを続けていたという自負があります。日本の人口1億に対してアメリカは3億。まだまだ入り込む余地はあります」。実際に楽観は、2020年3月時点でテキサス州ヒューストン、イリノイ州シカゴ、ジョージア州アトランタ、コロラド州デンバーへの出店が決まっているそうだ。

2019年、初めて伊東さんに会った時、彼の言葉で忘れられなかったのが店名の由来。「日本人にもっともっと楽観的になってほしいという意味を込めました」と彼は答えた。アメリカの日系社会は縮小している。駐在員の数が減り、筆者のような日本生まれの新一世たちもアメリカでの高額な医療費を理由にある程度の年齢になると日本に帰国する人が後を絶たない。日本国内だけでなく、今やアメリカの日系も「悲観的」だ。だからこそ、伊東さんのような人がアメリカでチャレンジすることで、日系社会に新しい風を吹き込んでくれるのではないかと、私は密かに、そして「楽観的」に期待しているのだ。

ウェブサイト:楽観ラーメン

 

続きを読む