Keiko Fukuda

Keiko Fukuda nasceu na província de Oita, se formou na Universidade Católica Internacional e trabalhou num editorial de revistas informativas em Tókio. Em 1992 imigrou aos EUA e trabalhou como editora chefe numa revista dedicada a comunidade japonesa. Em 2003 decidiu trabalhar como ¨free-lance¨ e, atualmente, escreve artigos para revistas focalizando entrevistas a personalidades.  Publicou junto a outros escritores o “Nihon ni Umarete” (Nascido no Japão) da editora Hankyuu Comunicações. Website: https://angeleno.net 

Atualizado em julho de 2020 

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多重国籍認めない日本への思い・米在住と仏在住者に聞く

「改正しなければ子孫が苦労をする」 両親が日本人、もしくは片方が日本人の場合、海外で子どもが生まれると現地の公館に期限内に出生届を提出すれば、その子どもは日本国籍が取得できる。また、アメリカのように出生地主義を取っている国で生まれた場合、アメリカの国籍も取得できるため二重国籍となる。しかし、22歳になるまでにどちらかの国籍を選択しなければならないとの記載が、在外公館のウェブサイトにある(出典:「在シアトル日本国総領事館、各種届け出の受理」2022年現在、日本は国民に対して単一国籍しか認めていない。) 一方で、生まれながらの二重国籍ではなく、自分の意思でアメリカ市民権を取得した場合には、「その時点で日本の国籍を喪失したと見なされるため、日本国籍の喪失届を日本大使館や総領事館に提出するように」と在外公館ウェブサイトに記載されている。 しかし、日本では「外国籍を取得すると日本国籍を失う国籍法は違憲」と日本国を訴えた原告との裁判が進行中だ。そこで、多重国籍を認めない日本への思いについて、アメリカ在住の鷹松弘章さんとフランス在住のピレー千代美さんに話を聞いた。 ワシントン州のIT企業に勤務する鷹松さんは、日本在住だった妻をアメリカに呼び寄せるために2015年に市民権を取得した。「自分が永住権のままだと、妻の永住権取得までに8年から半永久的にかかるからです」。日本の人々向けて、「…

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海外の日本語ラジオ放送の研究を続ける平原哲也さん

北京放送やモスクワ放送から中南米諸国のラジオ放送へ 遡ること40年以上前、日本の深夜放送が終了した後、朝方近くに「北京放送」という日本語のラジオ放送が流れてきたことを筆者は思い出す。今回、話を伺った日本在住の平原哲也さんは、1970年から海外からの短波放送による日本語の番組を受信することに熱中し、モスクワ放送や北京放送などの日本語番組に始まり、さらに中南米諸国からの放送にも興味を持って聞くようになったと話す。 「当時はインターネットもありませんでしたし、現地のオンタイムの様子やそこで流行っている音楽を聴くにはラジオ放送は最適でした。中でも中南米では民間の放送局が運営していたので出力が小さかったため、私は親に買ってもらった受信機で受信に挑戦する楽しみもありました」。 現地向けのコマーシャルも平原さんの興味の対象だった。「将来、現地に旅行した際には、コマーシャルで聞いたレストランやホテルを訪ね、宣伝されていたビールを飲みたいと想像力を膨らませました。また、ペルーのラジオでは味の素のコマーシャルが流れていたことも面白かったです」。 平原さんが大学でスペイン語を専攻した理由の一つが、ラジオを通じて中南米に魅せられたことだそうだ。そして、卒業旅行ではメキシコからペルーまで2カ月をかけて国々を巡った。1980年のことだった。 「実際に現地に足を運び、中南米は非常に貧富の差が激し…

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Choices for Japanese People Living in America

1963年渡米、2018年に日本へ 再び帰米予定の白澤誠さん

渡米のきっかけは『なんでも見てやろう』  白澤誠さんは、過去、ロサンゼルスのダウンタウンに本部がある南加庭園業連盟の活動に積極的に取り組んでいた。同連盟主催の家庭菜園の講義を、7年間受け持ち、日本語新聞の『日刊サン』でも野菜作りの連載コラムを担当していた。さらに連盟のYoutube動画にも登場し、家庭菜園に関する情報を一般向けに日本語で発信していた。 しかし、白澤さんはパンデミックを迎える前に、生活の拠点をアメリカから日本の鹿児島県に移し、現在も同県霧島市に住んでいる。当初私は、白澤さんはてっきり日本に「引き揚げた」のだと思ったが、パートナーと一緒に暮らすために「引っ越した」だけで、最終的にはまたアメリカに戻ってくる計画だと知った。 白澤さんが渡米したのは今から60年近く前の1963年のこと。小学校5年の社会科の教科書にあった日本とアメリカの文明の差に驚いたのが最初で、小田実の旅行記『なんでも見てやろう』に影響を受け、自分の目でアメリカを実際に見てみたいと思ったのが渡米の理由だったと振り返る。 「最初は旅行の資格でアメリカに渡りました。でも、半年だけでは到底アメリカを実体験するには時間が足りませんでした。それで、時間延ばしのために、大学に行くことにして学生ビザに切り替えました。私は日本の東京農大出身ということもあり、ロサンゼルス郊外にあるカリフォルニア・ポリ…

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Choices for Japanese People Living in America

2011年渡米、ヤクルトを全米に普及・コロナ渦中に帰国した清水実千男さん

「ビジネスマンであれ」 アメリカではアジア系以外の人には馴染みがなかった健康飲料のヤクルトを、ヤクルトUSAのプレジデントとしての在任中に、50州中49州にまで普及させたのが清水実千男さんだ。清水さんは2011年に前任地のシンガポールからロサンゼルスに赴任し、同地で10年間を過ごした。その後、コロナ渦中の20年、ロサンゼルスから日本に帰国、ヤクルト本社を退職すると同時に故郷の鹿児島県霧島市に転居した。目的は、長らく離れて暮らしていた母親と同居するためだった。 「ところが、私が日本に戻る辞令を受ける10日前に母は亡くなりました。96歳でした。私としては、1年、いや数カ月でもいいから母と一緒に住みたいと思っていました。私が大学に進学する17歳までしか一緒に住んでいませんでしたから。シンガポールに出る時も母に『戻ってくるまで待っていてほしい』と言って許可を得ていました。父は私がシンガポールに赴任して3年目に亡くなりました。そして、母の時も私の帰国が間に合いませんでした」。 シンガポールの後、横滑りで赴任したロサンゼルスでは、米国法人の代表として清水さんには多くのやるべきことがあった。「まずは、ヤクルトのアメリカ国内での工場の開設です。十分な量を流通させるためには、自国生産を行う必要がありました。そして15年にオレンジ・カウンティーに工場をオープンし、流通する州も、西海岸から始…

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1960年渡米、65年からオックスナードで農場経営・永利ファームの永利国光さん

短期農業労務の後に再渡米 これまでにアメリカで日本野菜を栽培している農場のオーナーを取材してきたが、今回、ご紹介する永利さんはカリフォルニア州のオックスナードで広大な農園Nagatoshi Farmを経営し、さらに野菜果物の卸業であるNagatoshi Produceのオーナーでもある人物。福岡県出身の永利さんは1939年生まれ。21歳の時、短期農業労務者のビザで3年の期間限定でカリフォルニアにやって来た。 オックスナードの農園で研修という名の農作業に従事している間、彼の目線は常に「自分が経営者だったらどうするか」というものだったと話す。「9人兄弟の8番目。自分の居場所は日本にありませんでした。人に使われるのは好きではなかった自分の目標は、海外で農場を経営すること。アメリカか、もしくは南米に移住したいと思っていたから、最初の3年間も仕事が苦しいとかきついとかいう気持ちはなく、農場の経営について吸収したい、習いたいと必死でした」。 当時、1ドルは360円。「日本で働いていた時は1日の日給が300円でした。ところがアメリカに来たら、1時間1ドルもらえました。そして、1日、12時間から13時間働き、週に6日、時には7日働き続けました。3年で貯めたお金は5000ドル。もったいなくて使えませんでした。日本円にして180万円です。日本では100万円あれば一軒家が建つ時代でした」。お…

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