前回は1917年以降のシアトルの日本人理髪業発展に関する記事について紹介した。今回はシアトル日本人ホテル業の発展について2回に分けてお伝えしたい。
日本人ホテル業発展の歴史
シアトルの日本人ホテル業は、第2回でお伝えしたように1896年に森田万次郎によってはじめられたものが最初だ。1900年以降、シアトルの人口増加に伴って続々と日本人経営のホテルも誕生していった。日本人ホテル業組合議長だった沖山栄繁(えいはん)は、1919年1月1日号の新年特別版で日本人ホテル業発展の歴史について語っている。
「沙港(シアトル)同胞ホテル業の将来」(1919年1月1日号)
「1909年開設されたアラスカ・ユーコン太平洋博覧会にシアトル市を紹介すると同時に多数のホテルが増築された。博覧会開会中多数の漫遊客と労働者の来市により殆ど二か年の間、予期以上の利益を上げ、ホテル業者並びに家主等は吾も吾もと競って新建築を促進した。閉会後これら特殊の労働者が仕事中止のため各方面に四散。漫遊客の中絶のため、当時の人口に比較して空き家が数多くなってホテル業者は商況不振のため倒産が相次ぎ、我が同胞も辛き経験を味わった。想うに1911年から15年は最もホテル経営難の時代であったと同時に又、同胞の真価を知るべき試験的時代でもあった。
1916年、市が禁酒法実施したため労働者が他州に分散しないかとの杞憂があったが、禁酒法により従来の不生産的方面に蕩尽(とうじん)された金が生産的方面に使用されるのでホテルやレストランの市場も漸く愁眉(しゅうび)を開くに至った。
1914年開始された欧州大戦争は米国が、軍器船舶製造と食品の供給国となった結果、国家的経済好調の影響がシアトル市にも及び、造船の注文が来り。東洋貿易、繁雑を極め、多くの労働者、資本家がシアトルへやって来、恰(あたか)も蟻の甘きに集るが如く、どこのホテルも満員という好況になった。
特に1917年アメリカが参戦してより、シアトルは米国屈指の造船地となり、政府の大注文が櫛の歯を引くが如くなり、白人の労働者が各都市より殺到した。(中略)この時ホテル業界は空前の好景気となった。従来一室10ドルにて売買されたホテルも50ドル、200ドルとなった。朝に10,000ドルのホテルが夕には12,000ドルに羽が生えて飛ぶという暴騰がおこり、ホテル成金が雨後(うご)の筍(たけのこ)の如くできた。
1918年2、3月までは日本人ホテルはエスラー以南に発展したが、今や市端より隅にいたるまで同胞ホテル業者を見ないところがない程、盛況である。(中略)今や日本人によるホテル経営が二百有余軒になり、一軒あたり5,000ドルの投資とすると、合計投資額は100万ドル1を超える。その迅速な発展は停止する処を知らない」
下記にある写真左のフライホテルは白人経営の大ホテルで、1940年1月1日号で沖山栄繁が「今一息という所で日本人の手に入るのであったが休戦と共に頓挫した」と述べている。
日本人ホテル業の繁栄
1917年以降の日本人ホテルが大繁昌した様子を『北米時事』の記事の中に見ることができた。
「ホテル業大繁昌」(1917年12月26日号)
「降年祭(クリスマス)前より市内各ホテルは大繫昌にて何れも空室なく、地方よりの出市者は野宿せざるを得なくなる事態。各ホテル廻りをして漸くベッドに身を横たへたり」
「日本人のホテル」(1918年8月22日号)
「シアトルにおけるホテル業は日本人の誇りである。米国何処に行ってもシアトルほど日本人のホテル業の発展している処はあるまい。現在組合に属するホテル数は140軒、その他に小さなのが15、6軒ある。其内エスラー街以北に在るのが25軒で何れも高級ホテル。合計の投資額は約100万ドルに達するであろう」
シアトルの日本人ホテルは、白人経営のホテルを圧倒する発展をしていた。『北米年鑑』1928年版によると「ホテル業の如きは約二百に近き営業者があり、その営業振も堂々白人の同業者を壓(お)し米国何れの日本人社会に見られざる発達をなしている」と評している。
シアトル日本人ホテル業組合
ホテル業組合は1910年に、藤井長次郎を会長としてシアトル旅館業者組合として創立し日本人ホテルの発展を支えた。 藤井長次郎は客室70を持つ藤井旅館を経営した。
「 ホテル組合総会」(1918年1月15日号)
「 昨日実業クラブにおいてシアトル日本人ホテル組合総会、新年会及び宮川万平氏送別会を兼ねて開かれた。来会者50余名に達した。橋口、木村両氏の宮川氏送別辞と答辞あった。会食に移り、総会議事を終了した。役員選挙の結果、会長に宮川万平、副会長に藤井長次郎、会計に太田時雄、理事に橋口長策諸氏当選、評議員は12名が選ばれた」
宮川万平は、第6回でお伝えした伏見丸で、同年2月9日に佐藤大使と一緒に帰国した母国視察団のメンバーだった。当時、日本へ帰国する要人に向けて送別会をするという習慣があった。
第4回で取り上げた「一日一人人いろいろ」1919年2月14 日号で宮川万平について掲載されている。
「シアトルホテル組合長、彼はホテル成金と呼ばれている熊本県の男で、ホテル事業では相応に苦労をしている。成金と戦争は付きものだが彼も又御多分に漏れず戦争大明神で頼母子講や借金でかなり首が廻らなかった時、乾坤一擲(けんこんいってき)今のピューゼットホテルを経営して以来トントン拍子に福運が向いて遂に角成金と唄われる迄になった。機を見る事、利を見る事、頗(すこぶ)る敏(さと)い男。金が出来るとなかなか良い知恵が出る」
1920年1月1日号 には、「吾等の覚悟」として宮川万平自身の肉声も掲載されている。
「何ですか私はホテル成金とか元老とか或は成功家などゝいはる事を好まないです。実際未だ其域に達していないばかりでなく、そんな事を新聞や雑誌などに書いたり、言いふらすねたにすると、人心を軽薄ならしめ、種々面白からぬ結果となりますからね!アハゝここ三年の間に実に目覚ましき、事業の勃興を見ましたが、此のままで尚二三年も続いたらば確かに同胞発展の基礎が出来ますが、私の考へでは事業は余り手広く広げると云う事は不得策だと思います」
宮川万平はディアボーン街南第6街の角に445室を有する大ホテル「ピューゼットサウンドホテル」を経営した。
(*記事からの抜粋は、原文からの要約、旧字体から新字体への変更を含む)
注釈:
1.100万ドルは当時の日本円で約200万円、現在価格に置き換えると約20億円となる。
*本稿は、『北米報知』に2021年12月4日からの転載です。
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