ディスカバー・ニッケイ

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第18回(後編) 二世男子の柔道の隆盛

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ジム・ヨシダの柔道

『ジム・吉田の二つの祖国』の中にジム・ヨシダが柔道に励んでいたことが掲載されている。ジム・ヨシダはこの頃、フットボールに夢中で、父、龍之輔からの強いめで、始めはいやいや柔道をやっていたが、そのうち柔道が面白くなったことが書かれていた。

 丁度その頃と思われる1938年2月7日の記事1には、父の吉田龍之輔が天徳会の評議員をしていた。1938年2月には初段であったジム・ヨシダだが、翌年2月には2段に昇段していた。ジム・ヨシダも天徳会に属し日本人名、吉田克己(当時18歳)の名前も確認できた。

 筆者の父與(あたえ)は1929年に父、與右衛門(よえもん)の突然の死で日本へ帰国し、日本の旧制中学校と大学で柔道に励み、1936年6月に再渡米し1941年2月までシアトルにいた。この間に與は従弟にあたるジム・ヨシダと親しくしていた。

柔道の稽古も一緒にやり、なかなか手ごわかったと当時の思い出を話してくれた。與は1938、39年頃に撮影されたと思われる、ジム・ヨシダが柔道着を着た写真と自身の柔道着姿の写真を所持していた。

與とジム(右)

また下記の記事ではジム・ヨシダが天徳会の代表として、ワシントン大学へ柔道を紹介し、大喝采があったことが記されている。

「華大で柔道紹介」(1939年2月15日号)

「去る12月11日夜ワシントン大学篭球軍2とワシントン・エクート・カレッジ軍の試合が華大パビリオンにて行なはれた際、天徳館道場より吉田二段と小岩井初段が出場し、マイクの前に立った坂原氏の説明で柔道を紹介し、大喝采を博した」


嘉納治五郎の来シアトル

1938年3月8日号で当時東京オリンピック準備委員会の責任者だった嘉納治五郎はカイロ会議に出席のためアレキサンドリアに到着し、東京オリンピックは何が何でも開催するという強い意気込みを示す記事が掲載された。嘉納治五郎はカイロ会議終了後、帰国の途中にシアトルを訪れた。

 「嘉納治五郎翁明朝飛行機で来沙」(1938年4月18日)

「国際オリンピック委員会のカイロ会議に日本代表として出席された嘉納治五郎は飛行機で明朝11時30分に来沙されるので、シアトル柔道有段者会では歓迎準備に就き打合せ中であったが、今朝左の如く発表された。

『19日到着後オリンピックホテルに宿泊、19時より有段者との座談会、20日午後リセプション、21日晩餐会、22日氷川丸で帰朝』」 

「嘉納治五郎翁を迎え歓迎会と柔道大会」(1938年4月21日号)

「嘉納治五郎歓迎会は昨夕7時玉壺軒にて開催され、佐藤領事代理、中沢書記生を始め各道場員、父兄其他多数出席。熊谷師範が司会者となり、日商代表三原、新聞代表有馬、領事代理中沢諸氏の歓迎の辞あり。

食後、嘉納治五郎翁はカイロ会議の結果と報告を語られ、今回予定を変更して急遽帰国する理由はオリンピック大会に関する残った問題を片づけるためと報国更生団の仕事を始めるためであると説明された。それよりワシントン・ホールに於て嘉納師範歓迎柔道大会が開催された。

嘉納治五郎は大要左の如く訓話された。

『柔道は柔術を基礎にしたものであるが、ただ単に術を磨くのみでなく、一つの原理に基づいて研究したその原理を総ゆる方面に応用することである。只今諸君がやって居るのは、体を丈夫にし技術を覚えるためであるが、体を丈夫にする事は 一、体を健やかにし、二、体を強くして、 三、人生に役立たせる事でありいざと言ふ場合に人に勝つ方法であって物事に決して驚かない力を作るのであるから柔道は世界で最も優れたものであると信ずる。(中略)幸ひ当地に居られる坂田、熊谷の両氏は立派な師範であるから、今後益々努力せられ度い』

尚紅白試合の結果は左の如し(青年組と有段者で各々入賞者の氏名掲載)」

「報国更生団」について、1938年4月21日、22日号に講道館長、講道館文化会長の嘉納治五郎氏の詳細の解説の記事が掲載された。

「嘉納治五郎翁、船中にて逝く」(1938年5月4日号)

「我がオリンピック委員首席代表としてカイロ会議に出席、目下郵船氷川丸でシアトル経由帰朝中だった嘉納治五郎氏は,船中にて風邪にかかり治療中急性肺炎を起し、遂に東京時間5月4日午前5時23分逝去の旨同船より郵船本社に入電があった。尚氷川丸は6日横浜入港の予定である。

嘉納治五郎氏は1860年播州の酒造家嘉納家の一族に生まれ、年少より柔術を志し、遂に講道館柔道を開始し今日に至っている。同氏は各学校長、文部省普通学務局長を歴任し、1922年貴族院議員に選出せられた。(中略)

今回カイロ会議の帰途、米大陸を飛行機で横断、シアトルに出で柔道大会に出席。バンクーバーより氷川丸に乗船。帰国の船中にて遂に不帰の客となった。享年78歳」

『北米時事』1938年5月4日

「嘉納治五郎翁遺骸今日横浜に着く」(1938年5月6日号)

「帰国で船中急逝した我が国スポーツの父嘉納治五郎翁の遺骸乗せた郵船氷川丸は6日午後3時船尾の半旗も悲しく横浜港に静かに到着した。79歳の老身に鞭打ってオリンピック東京大会確保の為去る2月16日に元気よく東京出発、カイロでのアイ・オー・シー総会に日本首席代表として活躍、遂に東京大会開催確保に大成功を土産に国民挙げて歓呼の声に迎へらるるべき凱旋は、今は悲しい無言の凱旋となった」


慶応大学柔道部の来シアトル

慶応大学柔道部一行がサンフランシスコからシアトルにやってきた記事が掲載された。

「米国遠征の慶応柔道部選士」(1938年6月7日号)

「慶応柔道部先輩団たる柔友会では近来対米関係の悪化を懸念されているのに鑑み、在米の荒谷氏の斡旋で、母校慶応柔道部の米国遠征を挙行する事となり来る。6月23日の横浜発の郵船龍王丸で出発、7月7日サンフランシスコに上陸、約一ヶ月半に渡って米国西部地方の諸大学を歴訪。

柔道を紹介かたがた、これを通して日米親善の一助となす意気込みでゐる。遠征団の顔ぶれは左の通り。団長、飯塚九段(以下学生氏名掲載)」 

「慶応選士を迎え盛大な柔道大会」(1938年8月8日号)

「飯塚九段と慶応大学柔道部一行歓迎柔道大会は昨日午後3時日本館で開催されたが、入場者満員にて盛会であった。学生の労働季節として出場しなかった者もあったらしいが、農繁期にも拘わらず地方から多数の出場者があった。幼年組紅白試合では白軍が勝ち、青年組紅白試合でも白軍が勝った。

それより各代表の歓迎の辞があり、続いて飯塚九段が柔道の原理に就いて形を示しつつ講演された。(以下取り組み選士名掲載)それより賞品授与が行はれ、12時過ぎに閉会された。

尚一行は今朝11時道場を見学し、午後3時半よりワシントン大学にて柔道を紹介、それより領事館邸の茶会に出席する。

明日は午前11時ホテルを出発し、ㇾニア登山、シアトルへ帰ってからは三田会主催の歓迎会に出席。明後日はラインスローにて一日を過ごす」

『北米時事』1938年8月8日


嘉納治五郎氏始め多くの日本の柔道家がシアトル二世男子に柔道を日本の精神修養として授けようとした。二世男子の多くが日本のスポーツ、柔道に興味を持ち、熱心に取り組んでいたことが記事から伺える。ジム・ヨシダもそのひとりだった。

次回はシアトル在住日本人が結束を計った県人会についての記事を紹介したい。

(*記事からの抜粋は、原文からの要約、旧字体から新字体への変更を含む)

注釈:

1.特別な記載がない限り、すべて『北米時事』からの引用。

2. バスケット 

 

参考文献

伊藤一男 『北米百年桜』日貿出版、1973年
『北米年鑑』北米時事社、1928年
在米日本人會事蹟保存部編『在米日本人史』在米日本人會、1940年
ジム・吉田、ビル・細川『ジム・吉田の二つの祖国』文化出版局、1977年

 

*本稿は、『北米報知』に2022年9月27日に掲載されたものに加筆・修正を加えたものです。

 

© 2022 Ikuo Shinmasu

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このシリーズについて

北米報知財団とワシントン大学スザロ図書館による共同プロジェクトで行われた『北米時事』のオンライン・アーカイブから古記事を調査し、戦前のシアトル日系移民コミュニティーの歴史を探る連載。このシリーズの英語版は、『北米報知』とディスカバーニッケイとの共同発行記事になります。

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『北米時事』について 

鹿児島県出身の隈元清を発行人として、1902年9月1日創刊。最盛期にはポートランド、ロサンゼルス、サンフランシスコ、スポケーン、バンクーバー、東京に通信員を持ち、約9千部を日刊発行していた。日米開戦を受けて、当時の発行人だった有馬純雄がFBI検挙され、日系人強制収容が始まった1942年3月14日に廃刊。終戦後、本紙『北米報知』として再生した。

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執筆者について

山口県上関町出身。1974年に神戸所在の帝国酸素株式会社(現在の日本エア・リキード合同会社)に入社し、2015年定年退職。その後、日本大学通信教育部の史学専攻で祖父のシアトル移民について研究。卒業論文の一部を日英両言語で北米報知とディスカバーニッケイで「新舛與右衛門― 祖父が生きたシアトル」として連載した。神奈川県逗子市に妻、長男と暮らす。

(2021年8月 更新)

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