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『北米時事』から見るシアトル日系移民の歴史

第8回(前編)日本人理髪業の発展

前回はシアトル発展に多大の貢献をしたシアトル航路についてお伝えした。第8回では1918年以降のシアトルの日本人理髪業発展について、シアトル日本人理髪業組合に関する記事や1939年頃に理髪業を目指す二世達の記事などを2回に分けて取り上げる。

シアトル日本人理髪業

シアトルでは、日本人経営の理髪業が1910年以降に大きく発展した1。1916年にはシアトルには日本人経営の理髪店が76軒あった。一方同年のシアトル市全体の白人経営の理髪店は325軒。白人経営の理髪店からは、日本人理髪店を排除しようという動きがあった。そんな中で、1907年に伊東忠三郎を組合長として創立された日本人理髪業組合は、白人同業者と調和共存していくために懸命な活動をした。彼らの努力の痕跡を、『北米時事』の中で見ることができた。

「シアトル日本人理髪店軒数」(『北米時事』1918年1月14日号記事及びその他文献より。1918年のデータは記事からの推測値)


シアトル日本人理髪業組合

「理髪店組合総会」(1918年1月14日号)

「昨日午後より日本館ホールに於てシアトル日本人理髪店組合総会が開かれ午後7時より新年会が開かれた。参加者は男女の組合員約200名に達し、来賓としては松永領事、北米日会の高橋、築野、菊竹、大北日報の竹内、北米時事社の宮崎、白人側は理髪試験官、白人組合副会頭等夫妻数名にて『まねき』の仕出しの料理、折詰等の宴席があった。

伊東忠三郎が司会者として松永領事を紹介し、日英両語の演説をおこなった。次に前試験官レイ、高橋北米日会長、白人組合副会頭アイビイ、大北日報の竹内、現試験官マックゴーヂ、北米時事社の宮崎らが逐次所感を述べた。片山通弁は組合顧問として英語演説を和訳し、何れも大喝采を博した。第一式終わり第二式に移り、各種演芸は来会者の大喝采を博し、近来稀なる盛会なりき」

「理髪店組合総会」(『北米時事』1918年1月14日号)

このように、伊東を中心とする理髪業組合のリーダーシップの下で、多くの日本人の理髪業者が新年会に出席し、皆の親睦を図り、結束を高めていっただけでなく、白人同業者とも協調しながら、安心して仕事ができる環境が出来上がっていた。

同日号の「見たり聞たり」には、理髪業組合について記されていた。

「理髪業組合は現有会員175名で男子88名、婦人87名。婦人が男子より一人少ないだけで、それが皆理髪業の免状を受けて立派に行なっているとは頗(すこぶ)る意を強くする。斯(かか)る強大な同胞理髪業組合を有する処は米国の何処にもあるまい。前試験官レイ君は昨夜の新年会に記者の隣席に居って耳言(じご)にて日(いわ)く。

『斯く多数の日本婦人理髪業者があろうとは意外であった。日本婦人は用意周到、清潔丁寧であるから白婦人のバーバーより評判がよい。就中(なかんずく)男子より手が柔らかいから、一度日本婦人に顔を剃らせた白人は必ず華主になる』と云っていたが至極尤(しごくもっと)もである」

「見たり聞たり」(『北米時事』1918年1月14日号)

この記事から1918年1月時点では、約87軒の夫婦共稼ぎの日本人理髪店があったと推測される。筆者の祖父、與右衛門も1918年にはワシントン街163に夫婦共稼ぎで理髪店を開き、多くの白人客で繁昌していた。

「理髪業組合新役員」(1918年1月25日号)

1月13日の定期総会で新役員が決定されたことが同号に掲載され、役員の名前が記述されている。文献住所録による出身県の内訳は、山口県10名、福岡県8名、広島県2名、静岡県1名となっている。

評議員の佐藤律は『北米百年桜』で白人組合との苦闘の歴史を克明に語っている。1907年シアトルに来た時、伊東に助けられ理髪業を始め、第二次世界大戦前は会計の原実三と共に副組合長として伊東を支えた。同大戦後もシアトルで理髪店を開いたが、昔の苦しかった時代とは隔世の感がすると語っている。

同じく評議員の岩見福次郎は山口県出身。1928年に著者の祖父である與右衛門が不慮の事故で亡くなった際、葬儀案内に友人代表として名前があった人物だ。また、與右衛門と同郷で親戚の上杉竹次郎、吉田才助、吉田龍之輔2の名前も役員として記述されている。

1919年10月9日号記事には、吉田才助、吉田龍之輔が故郷へ一時帰国する前に、「玉壺軒」で盛大な送別会があったことが報じられていた。吉田才助は龍之輔の兄で、「桜華樓」の経営を行うなど、シアトルでは有名人だった。

白人組合と協調して料金値上げ

「法外な理髪値上」(1918年4月24日号)

「法外な理髪値上」(『北米時事』1918年4月24日号)

「現在45仙の理髪料金を明日から突然75仙(理髪料50仙、髭剃り25仙)に値上げするとは思いきって上げたものだ。日本人理髪業組合は白人のユニオンと行動を共にするという認諾(にんだく)はあるが、実際そこまで上げなくてもよい。やむを得ず値上げするとはムズ痒い話。物価騰貴の際、値上げもやむを得ぬが、突飛至極(とっぴしごく)だ」

45仙は当時の日本円で約90銭、現在に置き換えると推計900円ほど、75仙は当時の日本円で約1円50銭、現在に置き換えると推計1,500円ほど。

「理髪値上げに就て」(1918年4月26日号)

「組合長伊東氏来社し語るところによれば、白人家持当業者にて最低75仙で決着したと日本人側に通知があった。当方も余り突飛なれば先ず、60仙にし、次に75仙に値上げを交渉したが応ぜず。若しこれに反すれば、ユニオンの客が来なくなるので突飛としりつつやむを得ず値上げせしなり」

伊東の提案は当初白人組合幹部の理解はあったが、白人組合内での総意を得ることができなかったようだ。4月30日号には「独立理髪計画」で組合を離脱して日本人だけのお客に限定して営業していこうという動きまで起こった。しかし、最終的に伊東は、白人社会との協調を計るため、苦渋の選択として、やむなく白人側と同じ値上げに踏み切った。

次回は後編としてシアトル総ストライキ、1939年頃に理髪業を目指す二世達の記事などを紹介したい。

(*記事からの抜粋は、原文からの要約、旧字体から新字体への変更を含む)

注釈:

1. 日本人経営の理髪業の繁栄については、「新舛與右衛門 – 祖父が生きたシアトル 第2回シアトルでの最初の仕事と生活」も参照。
2. 龍之輔は、『ジム・吉田の二つの祖国』に登場するジム・ヨシダの父親。

参考文献

『北米年鑑』北米時事社、1913年
竹内幸次郎『米国西北部日本移民史』大北日報社、1929年
伊藤一男 『北米百年桜』日貿出版、1969年

 

*本稿は、『北米報知』に2021年11月13日に掲載されたものに、加筆・修正したものです。

 

© 2022 Ikuo Shinmasu

1900s Japanese barbershops Seattle

このシリーズについて

北米報知財団とワシントン大学スザロ図書館による共同プロジェクトで行われた『北米時事』のオンライン・アーカイブから古記事を調査し、戦前のシアトル日系移民コミュニティーの歴史を探る連載。このシリーズの英語版は、『北米報知』とディスカバーニッケイとの共同発行記事になります。

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『北米時事』について 

鹿児島県出身の隈元清を発行人として、1902年9月1日創刊。最盛期にはポートランド、ロサンゼルス、サンフランシスコ、スポケーン、バンクーバー、東京に通信員を持ち、約9千部を日刊発行していた。日米開戦を受けて、当時の発行人だった有馬純雄がFBI検挙され、日系人強制収容が始まった1942年3月14日に廃刊。終戦後、本紙『北米報知』として再生した。