ジャーナルセクションを最大限にご活用いただくため、メインの言語をお選びください:
English 日本語 Español Português

ジャーナルセクションに新しい機能を追加しました。コメントなどeditor@DiscoverNikkei.orgまでお送りください。

『北米時事』から見るシアトル日系移民の歴史

第2回 シアトル日系移民の元祖

前回は1850年頃からの初期のシアトルの様子に関する記事についてお話ししたが、今回は1890年頃に日本人として初めてシアトルへ渡った、日本人元祖の記事についてお伝えしたい。

日本人ビジネスの元祖

1890年頃、日本人がシアトルに渡りいろいろな事業を開始した。これらの人達が、その後のシアトル日本人社会の基盤を作り上げていった。『北米年鑑』1928年版には、シアトル日本人諸事業営業の元祖として様々な事業を開始した人が紹介されている。その中に挙げられている森田万次郎と古屋政次郎が、『北米時事』紙面でもその偉大な功績について紹介されていた。

シアトル在留日本人諸事業営業元祖(『北米年鑑』1928年版より)


森田万次郎

1934年11月2日号に、森田万次郎が87歳で亡くなったとの訃報記事がある。森田はシアトルに住む日本人として、当時の最高齢だった。文献によると、鮭漁獲、雑貨店経営、旅館経営等でシアトル日本人ビジネスの先駆者と称されている人物だ。訃報にあわせて、森田万次郎の功績を振り返る記事が11月2日、6日、8日の3号に渡って掲載されているので、それらの記事を要約しながら紹介したい。

「森田万次郎が87歳の高齢にて昨日、コロンビア病院で肺炎のため死亡。

1851年5月15日兵庫県に生まれた。米国に初めて来たのは1873年だが、無旅券者だったため、上陸後まもなく送還させられ、しばらくハワイ王朝の通訳官となった。

1889年*40歳の頃、カナダに渡り、太平洋沿いのビーシー州(ブリティッシュコロンビア州)で夏は鮭取り、冬は町に出てシガー店を経営した。2年ばかりこの生活を続けた。

1891年、カナダ東部、オンタリオ州のトロントに移り、小さな雑貨店を経営したが、運悪く火災に遭って焼きだされてしまった。

1892年シアトルに初めて入った。この頃シアトルは寒村を少しばかり町らしくした程度の田舎町で交通は船しかなく、地方へ行くのも楽ではなかった。特に冬は物資に欠乏し、時たま冬の食物や需給品等が品切れになることも多かったので、アラスカ方面に出稼ぎに来る者もシアトルで冬を過ごすのは困難だった。この頃の在米日本人は海員上りの者か、ハワイ廻りの気が荒い者が多くいた。

シアトルに来て、ユニオン湖畔に土地と家屋を購入し、シアトルの住民となった。森田はシアトルで日本人が土地を所有した元祖だった。この頃ワシントン州は人口が非常に少なく、手続きさえすれば容易にただで払い下げてくれた。それはこの土地を早く開拓してほしいという希望によるものだった。

1894年に酒を日本から取り寄せた。米国政府は、酒はアルコール度が高いので、とてつもない高い税金をかけることとなった。当時、白人と口が利けるものは森田の右にでるものはない、と言われるほど英語堪能で、通訳として日本人社会の面倒なことも進んで折衝した。森田は自分で通訳して、ビール並みの扱いにしてもらった。

1896年にはシアトルで初めての旅館(コスモハウス)を経営し、ひとかどのボスであった森田は、皆の世話役であり顔役であった。

海員時代から書生時代に変わった(海員として渡米するより学生として渡米する若者が増えた)。1898年頃には書生やハワイからの転向者を連れてワイオーミング州へ行き、ユニオン・パシフィック鉄道会社の人夫供給の請負をした。

このように森田は太平洋を背景として、日本人パイオニア時代の第一線で活躍した。晩年は元気でシアトル郊外に果樹を栽培していたが、3年前からメリノールに扶養されていた」

11月2日掲載された葬儀案内に、「妻、森田メリー」とある。彼女はフランス人で、万次郎が最後メリノールで扶養されていたとき付き添っていた。3日後掲載の「見たり聞いたり」には、「森田は高齢とはいえ、このような偉大な先駆者が亡くなることは非常に寂しい」とコメントされている。

森田万次郎は、「鮭取り」「シアトル初の土地購入」「酒の日本からの取り寄せ」「酒の取り寄せの税の軽減」「シアトル初のホテル経営」と何と5つもの元祖であったことは、これまで筆者が調べてきた文献には記述されていなかった。北米時事アーカイブを読んで知った、偉大な功績者である。


古屋政次郎

古屋商店と日本商業銀行の広告(『北米時事』1919年1月1日)

古屋政次郎の創立した古屋商店は、前回もお伝えしたように日本の食料品、その他、家具、和様雑貨、美術品、書籍類、靴等を販売する大商店だった。筆者の祖母も、1934年シアトルで理髪店を経営した頃に古屋商店から布団を買った時の一枚の請求書を残していた。東洋貿易会社、そして日本商業銀行(後に太平洋商業銀行へ改名)の創立へ至るまでビジネスを拡大し、シアトル在留日本人社会を支えた。

1918年5月21日号に「20年の努力古屋商店発展、古屋氏懐舊(かいきゅう)談」という記事があり、そこに古屋氏の肉声が綴られている。

「約20年前(1898年)37歳の時、エスラーウエーにあった小さな店から今のこのビルに移転してきた。以前の小さな店の家賃は25ドルだったが、このビルは75ドルだった。店はお蔭で繁昌して狭くなったので、2階を日本人会と分け合って借り増しした。数年後、ベースメント全部借り800ドルの家賃を払っていた。昨年(1917年)3月にこのビルを購入した。

今回、2階にあった銀行と郵便局は近くへ移転し、2階をすべて各部門の事務室とする大改築を行った。随分とお金がかかり、最初から新しいビルにした方が安かったかもしれない。現在従業員は62名、古屋商店は、シアトルが発展したことと比較すると、遅々たる牛歩の足跡を印したるに過ぎない。ここまで発展できたのは、皆さんのお引き立てによる事と深く感謝している」

取材した記者は、「例の如く講演の態度にも新築の喜びを禁じえない感じがみえて、目出度い」とのコメントで結んでいる。

「20年の努力古屋商店発展、古屋氏懐舊談」(『北米時事』1918年5月21日号)

この家賃の変化は、古屋商店の発展の様子を表しているだろう。最初の小さな店の家賃25ドルは当時の日本円で、約50円で、現在に置き換えると約5万円程度、その後800ドルの家賃は、当時の日本円で、約1600円、現在に置き換えると160万円程度となり、遂にビル購入に至ったという凄まじい発展ぶりがうかがえる。

1919年1月1日新年号に、当時の総理大臣原敬の論説が掲載された。原敬は10年前の1909年にシアトルを訪れていて、古屋政次郎を含めるシアトル日本人の要人と会って写真撮影をしていて、その際の写真が論説に添えられていた。中央原敬の写真右横にいるのが古屋政次郎、(当時48歳)である。古屋は、日本から要人が来ると必ず、シアトル日本人の代表として出迎えた。

1909年原敬(前列中央)がシアトルへ来た時の写真。古谷は原敬の隣、右から2番目(『北米時事』1919年1月1日)

北米時事記者は、この新年の総理大臣論説を掲載するにあたって、古屋を訪問して記事内容の相談をしたと記している。謙遜な古屋は、「私どもには別に意見は何もありません」と答えたそうだ。この頃の北米時事には、シアトルの経済状況の記事を掲載する際には、頻繁に古屋を訪ねてインタビューしていたようで、古屋からのコメント記事が他にもいくつかあった。古屋は、いつでもそれを快く受け入れ対応したのだろう。

1919年6月6日の記事で、シカゴ大学教授で当時移民研究の権威と言われたパーク(Robert Ezra Park)博士が古屋商店について次のように絶賛している。「シアトル同胞は理想的発展状態にある。古屋君の成功の歴史は日本人発展の歴史となる。これだけ秩序的に発展している処は他になし」。古屋商店はシアトルを本店とし、ポートランド、タコマ、バンクーバー、横浜、神戸にも支店をおく、在米日本人社会一の大商店となり、アメリカの大商店にも匹敵した。

古屋政次郎は、1938年2月15日に横浜で76歳で他界。当日発行号に次のような内容で訃報が記された。

「昨年(1937年)7月病気静養のため帰国した古屋政次郎は2月15日に横浜で死亡したと古屋商店に入電があった。享年76歳、古屋は幼少の時苦労を重ね、村の教師となり、その後3年間軍隊生活を送った。 1890年4月に28歳で渡米、シアトルにて女者仕立屋を開業、1892年雑貨店を経営しての古屋商店の基礎を作った。現在(1938年)の太平洋商業ビル新築と同時に同所へ移転、各地に支店を設け、銀行を経営する等、大いに活動した。

1931年太平洋商業銀行破綻後に、ロサンゼルスに転住し、グローサリー業(野菜果実店)を経営、昨年7月に病気のため帰国し、横浜で静養中であったが萎縮腎により他界した。山梨県出身」

シアトルでは日本人美似教会で、友人代表として日本人会長を歴任した伊東忠三郎、奥田平次、シアトル各界要人他400人近い人が参列し古屋の死を悼む追悼会が行われた。 古屋死後も命日には毎年追悼会が開かれた記事が掲載され、シアトル日系移民の初期から発展期まで長期間に渡る偉大な功績を讃えた。

森田万次郎、古屋政次郎、いずれも1892年に、シアトルに定住し、その後のシアトル日本人社会形成の先駆的な役割を果たした。前回お伝えしたように、1890年頃のシアトルは人口4、5万人規模の小さな町だった。文献によると、古屋は1892年2月にシカゴ、セントルイスを歴訪し、帰路にサンフランシスコとロサンゼルスを視察。その結果、未開のシアトルを自己の生活と営業の中心地として選んだ。

1900年以降、多くの日本人が先人を頼り、一稼ぎしようとシアトルへ次々と向かっていった。次回は、1917年以降のシアトルの発展と日本人ビジネスの発展の様子について掲載された記事についてお伝えしたい。

森田万次郎、古屋政次郎年譜(『北米時事』より)(クリックして拡大)

(*記事からの抜粋は、原文からの要約、旧字体から新字体への変更を含む)

*編注:『北米年鑑』1928年によると、森田氏は明治21年(1888年)に鮭漁獲を始めたとあるが、『北米時事』では「明治22年(1889年)にカナダに渡りビーシー州で夏は鮭取りをした」とあるため、ここでは表を含め、1889年に統一してある。


参考文献

『北米年鑑』北米時事社、1928年
 加藤十四郎『在米同胞発展史』博文社、1908年
 竹内幸次郎『米国西北部日本移民史』大北日報社、1929年

 

*本稿は、『北米報知』に2021年7月3日に掲載されたものです。

 

© 2021 Ikuo Shinmasu

Furuya Shoten Immigrants Issei Manjiro Morita Masajiro Furuya North American Times Seattle

このシリーズについて

北米報知財団とワシントン大学スザロ図書館による共同プロジェクトで行われた『北米時事』のオンライン・アーカイブから古記事を調査し、戦前のシアトル日系移民コミュニティーの歴史を探る連載。このシリーズの英語版は、『北米報知』とディスカバーニッケイとの共同発行記事になります。

第1回から読む >>

* * * * *

『北米時事』について 

鹿児島県出身の隈元清を発行人として、1902年9月1日創刊。最盛期にはポートランド、ロサンゼルス、サンフランシスコ、スポケーン、バンクーバー、東京に通信員を持ち、約9千部を日刊発行していた。日米開戦を受けて、当時の発行人だった有馬純雄がFBI検挙され、日系人強制収容が始まった1942年3月14日に廃刊。終戦後、本紙『北米報知』として再生した。