Yuri Brockett

東京での大使館勤務後、夫の大学院留学のため、家族で渡米。ニューヨークでは子育ての傍ら大学で日本語を教え、その後移ったシアトルではデザインの勉強。建築事務所勤務を経て現在に至る。子どもの本、建築、かご、文房具、台所用品、旅、手仕事、時をへて良くなるもの・おいしくなるもの…の世界に惹かれる。ワシントン州ベルビュー市在住。

2015年2月 更新

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おばあさんの手紙 ~日系人強制収容所での子どもと本~

第四章 荒野の強制収容所:1942年から1946年にかけて — 後編(2)

第四章(1)を読む >>

忠誠登録その後

忠誠登録の目的は、アメリカに忠誠である者とそうでないものを分け、忠誠が確認されたものは、兵役につくか、仕事や学業で早くアメリカの一般社会に戻るように促し、不忠誠とされたものは隔離することでした。しかし、よく考えずに作成された質問表は、収容所内に不安と混乱をまねいたため、27番目の質問「二世の者がアメリカ軍入隊の意志があるか」を、女性に対しては「陸軍の看護部隊、及び婦人陸軍部隊で働く意志があるかどうか」と変え、28番目の質問「アメリカ合衆国に忠誠を誓い、日本国天皇への忠誠を『破棄』するか」については、アメリカ国籍も与えられないまま、日本への忠誠を否定すれば、国籍喪失の憂き目にあうと心配する一世のために、「米国の法律を遵守し、いかなる形でも、米国の戦争遂行努力を妨害するような行動をとらないことを誓約するか」に修正しました。

結果は、17歳以上の7万8000の日系人のうち、およそ6,700人が、「忠誠心なし」に分類され、約2,000人が条件をつけた回答をしています。登録をした83%にあたる6万5000人以上が、忠誠と認められています。


ノーノーボーイ

27番目と28番目のどちらの質問にもノーと答えた、米国に不忠誠だとされた若者がノーノーボーイと呼ばれました。主に日本で教育をうけた帰米二世です。政府はノーノーボーイの比率が一番高かったツールレイクを、隔離収容所として使う事に決め、警備をいっそう強化し、各収容所から日本への帰国希望者を含む、不忠誠者とされる者をすべてツールレイクに集めました。1

母親が帰国希望だったために、ペギー・アヤコ・ナガタは、10歳の時に、家族でミニドカからツールレイクにやってきました。日本帰国組の多いツールレイクでは、日系人自費による日本語学校が容認され、先生自らがガリ版刷りで教科書を作っています。アヤコの当時の教科書を見せてもらいましたが、国語、算数の教科書にまじって、日本に帰って困らないようにお作法の教科書もあり、アヤコの自筆で永田綾子ときれいな字で小さく名前が書いてありました。その頃のようすをアヤコはこう語ります。

毎朝学校が始まる前、校庭で体操をしてから教室に入ります。先生が教室に見えると、一斉に立ちお辞儀をしてからクラスが始まりました。授業は日本の地理、国語、お行儀、算数と、すべての教科を日本語で教わりました。交替で教室の掃除もしましたよ。日本みたいでしょう。女の子の髪はおかっぱか、わたしみたいにお下げで、男の子はすごく短いイガグリ頭でした。子ども会にも入っていました。みんなで早起きして太陽が昇るまえに集合して、そこで昇る太陽にむかってみんなでお辞儀をするんです。私にはとても日本的なことに思えました。2

帰米二世の若者は報国奉仕団を結成。留学中にツールレイクに収容された白井昇は、その活動を、著書「カリフォルニア日系人強制収容所」の中でこう伝えています。

男子は、全員丸坊主頭に髪を刈り、灰色のスウェットシャツをユニフォームとした。そして女子青年団員はピッグ・テールといって、頭の真中で髪を左右に分け、それを編んで両肩前に垂らすことを規制した。そして、男子女子青年団員は、ともに日の丸のマークを染め抜いた鉢巻きを結んでいたので、この青年団のことを「ハチマキ組」とか、「坊主組」などとも呼んだ。…… 午前五時から広場では1,200名のものが、まず日本の戦勝祈願と皇居遙排式を行い、次いで勇ましく国民体操を行った。それが終わると、一同は四列縦隊をつくって、所内ところかまわず、進軍ラッパを吹き鳴らしながらワッショイ、ワッショイと隅々まで駆け足行進を行った。3

これらの過激集団と収容所長との対立、また親日派と親米派とのぶつかり合いが多かったツールレイクでは、暴動やストライキが何度も起き、一度は、所内の治安が落ち着くまでの間、軍の管轄下におかれています。収容所内には留置所もありました。あるとき、アヤコの父親の知人が予告もなくキッチンの仕事を解雇され、父親は、その不当性を食事の時にみんなに訴えました。すると翌日、それを管理局に密告した人がいたようで、アヤコの父親は捕まり、3ヶ月も留置所にいれられています。そんな不穏な環境でしたが、アヤコは子どもたちにはどんなことがあっても、たちまち元気をとりもどす力があるようだったと語っています。4


条件付き回答

はじめてのアイススケートを楽しんだビリー(本シリーズ第三章)の写真を撮った、ビル・マンボーと妻のメアリーは、条件付きの回答をしています。エリック・L・ミューラーが公文書から掘り起こした興味深いデータによると、ビルは配偶者の国籍を聞かれて「アメリカ人?」とわざわざ疑問符を付けて回答し、国籍離脱願いを出したかとの問には「まだ」、アメリカへの忠誠を誓い、日本への忠誠を否認するかには、「もし、すべての[市民としての]権利が復元されたら……」と答えています。

メアリーも国籍を問われて「今の所は、米国。でも、そのことについては疑問に思っている」、配偶者の人種を聞かれて、「日本人。本人になんの落度があったわけではなく。我々の人種に誇りを持っています」と。「子供を日本に送ったことがあるか」との問いには、もうこんなくだらない質問はやめてもらいたいと思ったのか、「ノー、何のために?」とぶっきらぼうに書き込んでいます。陸軍看護部隊、または婦人陸軍部隊に入隊の意志があるかとの質問には、「イエス、でも正看護婦の資格をもつ私の友人が応募した際、なぜ入隊を拒否されたのですか? たくさんの看護婦が必要な時だったのに」と真珠湾攻撃後、二世を急に4-C(敵性外国人)の分類に入れ、入隊希望をすべて却下していた軍への反発を表明しています。アメリカへの忠誠を誓うかとの28番目の質問には「イエス」と答えた後、少ししかないスペースに「私は生まれながらにアメリカ人です」とも書き入れて、こんなわかりきったことを改めて聞かれたことへの不満を表しています。

このように条件付きの回答をした二人は、10月5日に収容所内で行われた聴聞会に別々に呼び出されています。ビルは、尋問にあたった係官にストレートに怒りの気持ちをぶつけ、「カリフォルニアからの強制立ち退き以来、アメリカ政府に対していい感情はもっていない。…… 市民であることからしても不当な扱いだと思っている」と言い、兵役に関しては、家族を有刺鉄線の囲いの中に閉じ込めたままで、軍隊に入るなんて考えられないとし、「まず、家族を家に戻し、それからだ」と語っています。

一方、メアリーの聴聞が行われた部屋では、係官がもう一度メアリーの書いた28番目の質問の答えを読み上げ、再びメアリーにアメリカへの忠誠を誓うかと聞き、メアリーは「はい、もちろん。なんと言っても、ここで生まれたのですし」と答えた上で、「わたしは、ちょっと短気な性格で、言わなくてもいいことを言ったりすることがあるんです」と付け加えています。「選べるとして、アメリカと日本とどちらの市民権を選びますか?」と問われて「今持っている方です。あちらの国のことは何も知りませんし、ここで生まれ育ちました。これまでも白人のなかで暮らしてきましたし、日本に行きたい理由は何もありません」と答えています。

転住局本部の結論は、ビルは「はっきり物をいう人で、強制立ち退きについて苦々しく思っているものの、以前ほどでもない」とし、メアリーは「とてもアメリカ化していて、自分のアメリカへの忠誠心が疑われていることに腹を立てていて、彼女の忠誠心問題の答えは、公民権への抗議であって、不忠誠ということではない」として、最終的に二人をアメリカに忠実だと判定しています。しかし、条件付き回答をした多くの人たちは不忠誠とみなされ、ツールレイクの隔離強制収容所に送られました。

第四章(3) >>


注釈:

1. Burton, Jeffery F., et al. Confinement and Ethnicity: An Overview of World War II Japanese American Relocation Sites. Western Archeological and Conservation Center, National Park Service, U.S. Department of the Interior, 1999. 
その時ツールレイクにいた約6,000人の忠誠者は他の収容所へ移されています。しかし、他の収容所に移るより慣れた所の方がいいと残った4,000人の忠誠者もいたため、所内は一時、18,000人以上にふくれあがりました。

2. Peggy Ayako Nagata Tanemura, interview by Yuri Brockett and Jenny Hones, November 21, 2013 at Seattle, WA.

3. 白井昇著「カリフォルニア日系人強制収容所」河出書房新社、1941年

4. Peggy Ayako Nagata Tanemura, interview by Yuri Brockett and Jenny Hones, November 21, …

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おばあさんの手紙 ~日系人強制収容所での子どもと本~

第四章 荒野の強制収容所:1942年から1946年にかけて — 後編(1)

第三章(6)を読む >>

先日、学校の補習が終ったあと、
今まで行ったことのないパン屋さんへ向いました。
バスを乗り継ぎ、地図アプリを頼りに歩き、
一時間近くかかって辿り着きました。

私の夢は自分のパン屋さんを持つことです。
来年の春からは、
地元のパン屋さんで修行を始める予定です。
その準備期間として、
この頃はいろんなパン屋さんへ足を運んで、
何か気づくことはないかとリサーチしています。

遠くにあるお店へ行くのは、
交通手段(と使えるお金さん)が限られた学生には
厳しいものがあり、正直大変です。

ですが、かんかんと太陽の照りつける中、
道を歩きながらわたしは「自由」を感じていました。
自分の好きなことへ向って、自分の足で歩いていける
進んでいけることこそ、自由の証拠だと思いました。1

山口さつきさんのこの弾むような気持ちを、ほぼ日刊イトイ新聞「今日のダーリン」で読んだ時に、これこそわたくしが探していたものだと思いました。収容所の中の子どもたちの生活はどうだったのか、収容所で幼い時を過ごした人々に聞いてみても、「楽しかった」という言葉が多く返ってきます。一見、屈託なく楽しそうに見えても、有刺鉄線の囲いの中の自由は、「自分の好きなことへ向って、自分の足で歩いていける」本当の自由とは根本的に違っています。そこのところをわたくしが伝えきれていないのをもどかしく思っていた時に、山口さんのこの文章と出会ったのです。収容所の中の子どもたちの文章と山口さんの文章とを比べて読むことで、わかる違いと、だれでもが「自分の好きなことへ向って、自分の足で歩いていける」社会を失わないように守る大切さを思い、山口さつきさんとほぼ日刊イトイ新聞の許可を得て、掲載させていただきました。

「人は強制収容所に人間をぶちこんですべてを奪うことができるが、たったひとつ、あたえられた環境でいかにふるまうかという、人間としての最後の自由だけは奪えない」と、ヴィクトール・フランクルは言います。強制収容所の中で、すべての人が「自分の好きなことへ向って、自分の足で歩いていける」社会を夢見て、フランクルの言葉を実証するような日系人の話をつづけましょう。

* * * * *

1. 1943年(第三章からの続き)

3トンの本の贈り物———春

1943年の春、ミニドカに三トンの本が届きました。ヴィクトリー・ブックキャンペーンの余剰本が届いたのです。5月18日のクラインコップフ教育部長の日記には、「倉庫にはいっていた三トンの書籍が、やっとコミュニティ英語図書館の書棚におさめられ閲覧できるようになった。大部分は寄贈本で、同じ本が何冊もあったり、あまりに古くて価値のない本もみられる3」とあります。3トンの書籍って、いったい何冊ぐらいになるのでしょうか? 一冊500グラムとして、約6000冊です。

これらの大量の本は、戦争で急増した兵士や捕虜に本を送ろうと、全米図書館協会が行ったヴィクトリー・ブックキャンペーンという大規模な本の収集キャンペーンで集めたものです。メディアだけでなく、クリーニング店は顧客に返す洋服の袋の中にキャンペーンのちらしを入れたり、工場では作業場の中に本の収集箱をおいたり、集まった本の運搬はスーパーマーケットのトラックやハイウェイパトロールのおまわりさんも手伝ったということですから、まさに全米あげての本の収集活動でした。軍の調査では、兵士にもっとも望まれる本は、最近のベストセラーと過去十年間に出版された小説で、特に冒険小説、西部劇、探偵小説、推理小説が喜ばれ、建築学、航空学等の専門書も人気がありました。特に持ち運びに便利で戦場にも持っていける文庫本が重宝されていたようです。1942年の6月までに目標の1000万冊を収集。保存の悪い本を除いて約半数が軍関係機関に送られました。

このキャンペーンの余剰本が各収容所に大量に届けられたのです。しかし、これらの本はすべて英語で書かれています。一世や帰米二世のために、どうしても日本語の書籍も必要です。次に、アメリカ同化主義をとる収容所内にあっても、日本的文化空間の必要性を説き、日本語図書館設立へ尽力したトパーズ収容所のケースを見てみましょう。


日本語図書館設立への動き

トパーズ強制収容所でも、仮収容所で接収された日本語の本をもとに日本語図書館ができないかと考えていた人がいます。一世の浅野七之助6です。浅野の伝記を書いた長江好道は、収容所のようすをこのように伝えています。

入所当時の日系人の生活は混沌たるもので、住民7は秩序もなく、生活意欲もなく、ただ虚脱状態に陥っていた。さらに、住民間にはいたずらにデマと憶測が流布され、不安と混乱が転住所内を渦巻いていた。ただ一つの慰安は、短波放送で日本の放送を聴取、勝った勝ったの大本営発表のニュースを聞いて日々を過ごすことであった。そうなると勢い所内では国粋主義者が頭をもたげ「日本が勝っている、いまに見ていろ、われわれの時代がくるんだ」と言わんばかりに大道を闊歩し、転住所管理局にたてをつき、当局と住人の連絡に当たっている人々をかたっぱしからスパイ呼ばわりして、暴行を加えたり、サボタージュしたりする愚かな行為をする者が絶えなかった。8

こんな状況を打開するために、成人教育委員長をしていた京極逸蔵の提案で、有識者何名かが集まり対策を協議しました。浅野は、その場で日本語図書館設立を提案。当時、トパーズ収容所には2,400人の一世と800人の帰米二世がいましたが、日本語図書館が「健全な精神と心の交流をはかる9」場になり、「文学書は、住民のすさんだ心をいやして安らぎを与え、哲学・宗教書は、彼らの人生に展望を与え、科学書は、科学する心を培うにちがいない」と考えたからです。10 この案は委員長をはじめ数人の賛成を得、早速、委員長が管理局との交渉にあたりましたが、アメリカ化を計る計画にはもろてをあげて賛成する管理局も、日本語図書館の創立に関しては積極的ではありませんでした。でも、1942年の冬、ポストンやマンザナーで暴動(本誌第135号)が起きたことで、そういう事態を避けるために日本語図書館がなんらかの役に立つのならばと、1943年1月19日に、英語図書館の一角で日本語図書の貸し出し許可がおりました。条件は、日本語図書関係の司書一人分の予算はつけるが、本や運営資金は自分達で調達しろとのことでした。

それでも、この許可に大喜びの浅野は、早速、収容所内新聞、日刊トパーズ新聞1月19日付けで「明日から圖書館設立へ———驀進!! 一齊に書籍蒐集運動開始、市民の全幅的協力要請」「錦上更に花を添ふベく」と被収容者の協力を呼びかけています。この記事は浅野が自ら筆をとったもので、気骨ある一世の志をそのままご覧いただきたく思います。開館を直前にした2月5日付け同紙では「日本語圖書館愈々設立、明後日堂々開館式擧行」との記事の中で、被収容者からの支援に感謝の意を表しています。11

この日本語図書コーナーは、一世、帰米二世、それに本土の二世より日本語能力の高かったハワイからの二世に特に喜ばれ、本に飢えていた人々が押し寄せ、開館当時は館外貸し出しを一時ストップしなければ本が足らなくなるほどでした。備品や本の修理代を捻出するために、貸し出しは有料または本を提供してくれた人だけに限っていたため、多くの一世は図書館にこもって本を読んでいたということです。京極は、カリフォルニア大学バークレイ校の国際会館に置いて来た自分の本、600冊を寄贈すべく、自費で取り寄せます。4月13日のトパーズ新聞では「讀書子待望の豪華書籍到着す」との見出しで京極の寄贈本の内訳を紹介しています。『明治大正文学全集』(50冊)『世界文学全集』(40冊)『現代日本文学全集』(50冊)『世界大思想全集』(30冊)『世界美術全集』(50冊)『朝日常識講座』(10冊)『修養全集』(12冊)『夏目漱石全集』(12冊)『徳富蘆花全集』『日本家庭大百科』(3部)『国訳一切経』『国訳大蔵経』(100冊)、その他宗教、哲学、歴史、文学、大衆物の単行本で、アメリカでは手に入りにくい貴重なものばかりです。12

日本語の蔵書が充実するにつれて本の貸し出しも無料になり、次の問題は場所です。浅野は英語図書館の片隅ではなく、日本語図書館だけのスペースが必要だと思っていたのです。一つには、音読の習慣のある明治生まれの一世が声を出して本を読めて、気兼ねなく会話ができ、お花や工芸品の展覧会ができる日本的文化空間を作りたかったこと。もう一つは、英語図書館の会館時間に縛られず、長い時間日本語図書館を開けておきたかったからです。5月6日、日本語図書館はブロック40のレクリエーションホールの半分を与えられ、独立をはたします。3日間、貝殻細工の展覧会で移転を祝い、開館時間は朝の10時から夜の10時までに延長されました。

晩年浅野は「トパーズ収容所でトラブルが多発しなかったのは日本語図書館の存在があったからである」「皆読書に没頭し……夜通し起きて、本を読んでいた」と語っています。13 必要だと思ったことは、やり通す明治生まれの一世たちでした。

第四章(2)>>

注釈:

1. ほぼ日刊イトイ新聞『今日のダーリン』2013年8月3日付けより
 http://www.1101.com/home.html 
糸井重里が『今日のダーリン』で「自由を大切にしたい」と書いたものを読んで、山口さんがこのメールを送られたそうです。糸井重里は山口さんのメールを紹介した後「彼女の『自分のパン屋さん』が、いつかできたら、ぜひ教えてもらいたいですね。電車やバスを乗り継いで、こんどは、ぼくが行きたい」と続けています。

2. ヴィクトール・E・フランクル著、池田香代子訳「夜と霧」みすず書房 2002

3. Kleinkopt, Arthur. Relocation Center Diary 1942-1946, Hagerman: Minidoka Internment National Monument, 2003.

4. Becker, Patti Clayton. Up the Hill of Opportunity: American Public Libraries and ALA …

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おばあさんの手紙 ~日系人強制収容所での子どもと本~

第三章 荒野の強制収容所:1942年から1946年にかけて — 前編(6)

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外の空気、自由の味

ヨシコの父親と母親が、転住局の特別許可をもらって、ハートマウンテンにいる父親のお母さんと妹を訪ねたことがあります。かごの鳥のような生活は知らず知らずのうちに、身と心に澱のようなものをためさせます。ヨシコは二人が帰って来た時の様子に驚きました。

戦争が勃発して以来初めて自分の母と妹に会えたことは、はかり知れないほど父の元気を回復させた。だがそれにも増して、二人の生気をよみがえらせたのは、ほんのしばらくの間だけでも父と母が有刺鉄線の囲いの外で自由に生活できた旅そのものであったのである。父と母がかえってきた時、二人はすっかり様子が違っていた。母はとても美しく朗らかに見えたし、二人とも元気を回復し、若さを取り戻したように思えた。1


有刺鉄線の囲いのなかから志願しろって
———

陸軍は二世の志願兵を募る方針を決めたと、ワシントンから連絡あり。日系人だけの特別編成の戦闘団をつくる旨。長いことこの機会をまっていた二世にとっては朗報だ。2

クラインコップフの日記、1月10日の書き込みです。

1942年11月、ソルトレイクシティに少数のJACLのメンバーが集まり、二世も志願できるように、また日系人だけの特別編成戦闘部隊の提案について、話し合いをしています。アメリカへの忠誠を示し、日系人に対する偏見をただすためには、日系人だけの特別編成戦闘部隊が必要だと言うのです。

政府もこの案を受け入れ、早速、陸軍からアーノルド中尉がミニドカにやってきて、新しい方針の説明会と志願受付をはじめました。2月7日、日曜日に行った第一回目の説明会でのスピーチの一字一句は翌日の2月8日付け、ミニドカ・イリゲーターに英語と日本語で伝えています。同じ紙面に、ルーズベルト大統領からスティムソン陸軍長官にあてた手紙も掲載しています。

陸軍省による、忠誠なる日系アメリカ市民からなる戦闘部隊結成の案をここに全国的に承認する……。3

次の手紙は高校生のベンが、ウィルス先生から、ガーフィールド高校の卒業生で志願した人がいるかとの質問をうけた時のものです。ベンの目をとおしての一世の気持ちが垣間見られます。

1943年4月11日

親愛なるウィルス先生、

志願したガーフィールド卒業生の名前全部はわかりませんが、今思い出せるだけの名前を書いてみます。まず、もちろんケイとエディ・サトウ、ジュン・ハヤカワ、サダオ・ババ、ハリーとビル・ヤナギマチ、フランク・ハタナカ……

すでに兵役についている人の名前をあげてみます。イワオ・カワカミ軍曹はアラスカのどこかの基地に、兵卒のジャック・ハマダはワイオミング、フォート・ウォレン基地にいます。ポール・サカイ軍曹もガーフィールドの卒業生じゃないかと思います。ポールの弟サムは、この学校に来ていましたから。ロバート・カークの名前は先生のリストにありますか?彼は戦争の始まった時にはフィリピンに駐屯していましたが、今どこにいるか、それからどうなったかはわかりません。ヘンリー・ストレノも軍隊に入りました。2、3ヶ月前聞いた話では飛行学校で訓練しているそうです。

…… どうして僕が志願しないのかの理由を少しあげてみます。まず、僕がまだ政府に恨みをもっていることをご理解いただきたい。でも、それだけが僕の志願しない理由ではないのです。政府は、強制的に収容した者に対して、志願しろという立場にはないと信じます。いずれにしろ、遅かれ早かれ徴兵されるという気はします。アメリカ人は徴兵を免れませんから。もし軍隊にはいるのだったら、僕は陸軍です。でも、ほかの軍を希望する人には、すべての分野が開かれていることを希望します。収容所から出て生活している人から志願兵を募るのだったらいいと思います。収容所から出て半年から1年ぐらい自由な生活をしている人からだったら……。

多くの一世は、アメリカ政府にたいして憤慨しています。平気で市民権のある自分たちの子どもを囲いのなかに投げ入れ傷つけておいた上で、志願しろとか、あげくの果ては徴兵もありうるなんて。第一次大戦の時、志願した一世もいました。その功績でこの国への市民権を約束されました。それまでよりもいい待遇を約束されました。これらの年老いた一世は言います。今のおれたちはどうだと。アメリカの市民権はもらったか?前よりもいい扱いを受けているか?僕たちの仕事はどうなった?子どもたちは、アメリカ人なのに、犬のように踏みにじられている。それもアメリカ人に。政府は前の戦争の時にたくさんの約束をした。今度の戦争でもまた多くの約束をしている。今回の約束も過去の約束と同じ位の価値しかないさ、と。

ウィルス先生、どうして多くの一世がアメリカ政府にたいして厳しいか、お分かりになりますか?

それだけじゃないんです。僕たちがこの転住所に着いた時には、まだ建設中だったんです。本当に数多くの家族が、全然知らない家族と一つの部屋を共同で使わなければなりませんでした。また、レクリエーション用のバラックに見知らぬ家族と一緒におしいれられた人もいました。暑いし、いつも風がふき、部屋のなかまで砂埃で、もやがかかったようです。部屋から砂埃を追いだすのは不可能。母が日に6、7回部屋中を拭ききよめていたのを覚えています。お湯は出ませんし、水は塩素を含み、そのにおいと味は胸が悪くなるほどです。便所は野外です。男性用は仕切りがありません。(いまだにないんです。)気温が零下(摂氏では零下18度以下)になるとトイレに行くにもこたえます。また、暖をとる石炭も不足しています。雨が降ると埃はおさまる反面、道はぐじゃくじゃになり、長靴を履かなくてはいけません。端的にいえば、収容者が辛辣になったとしても、誰もとがめることができないほどの、不必要にして心地悪い生活をしいられています。

…… 僕は今、自動車整備工のクラスで勉強しています。……ケイ・サトウが徴兵されたらすぐに、僕はもっとこの方面の知識を得るために自動車整備工の助手として自動車修理工場に行くつもりです。自動車整備工としての勉強をした後の方が、より軍隊に貢献できると感じています。また、日系人だけの戦闘部隊には反対です。もう少し待てば、もう一回、志願する機会があると考えています。……

本を書こうとは思っていなかったのですが、長くなりました。僕の長々としたおしゃべりをお許しください。
                                                                いつまでも    ベン4

忠誠登録———早春

政府は、再び収容所で暴動がおこらないように、アメリカに忠誠を誓う者とそうでない者を区別する必要性を感じていました。忠誠を誓うものは、早く収容所から出して、普通の生活に戻すのが妥当だとも思い始めていました。陸軍も、志願兵を募る時に、忠誠かそうでないか区別する必要があるので、今回政府は、陸軍と一緒に使える質問書を作り、17歳以上のすべての被収容者に配りました。 

この質問書の目的は、「内陸部の地区に転出を許可してもいいのは誰か、を見極めること。二世の男性達に、兵役を通して、アメリカ魂を見せる機会を与えることで、世論の改良をはかること。そして、アメリカ政府に不忠実と見られる人物を隔離すること」でした。物議をかもしたのは、質問書最後の二つの質問で、「27番目の質問は、二世の者がアメリカ軍入隊の意志があるか、28番目の質問は、アメリカ合衆国に忠誠を誓い、日本国天皇への忠誠を『破棄』するか」というものでした。5

この二つの質問は家庭内だけでなくコミュニティを分裂させることになります。この問題にイエス、イエスと答えた人、ノー、ノーと答えた人、条件付きで答えた人のその後と、トパーズ収容所で日本語図書館設立に奔走した一世たちの話は次回でゆっくりと。

第四章 >>


注釈:

1. 前掲「荒野に追われた人々———戦時下日系米人家族の記録」

2. Kleinkopf, Arthur. Relocation Center Diary 1942 - 1946, Hagerman: Minidoka Internment National Monument, 2003.

3. 前掲「日系アメリカ人のエスニシティ———強制収容と補償運動による変遷」

4. Letter dated April 11, 1943. …

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おばあさんの手紙 ~日系人強制収容所での子どもと本~

第三章 荒野の強制収容所:1942年から1946年にかけて — 前編(5)

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2. 1943年

子どもの日常———冬

1ヶ月前から、ハートマウンテンの大人たちは、管理局も日系人も力を合わせて、収容所内に数カ所ある窪地に、消火栓のホースで水をまき、アイススケート場をつくっていました。待ちに待ったスケートリンクのオープニングは1月19日。前の週から気温が下がりはじめ、オープニング当日は摂氏零下33度を記録しています。異常な環境にあっても、出来るだけ子どもたちを楽しませたいと力を合わせて作業した大人たち。もちろん子どもたちも大喜びです。ベーコンのレポートです。

雪の季節になると、雪だるまを作ったり、雪合戦をしたり。……アイススケートリンクも出来たんです。すると、子どもたちはみんなスケート靴が要るでしょう。氷の上を滑る練習はすごく楽しかったですよ。でも、親にとっては、子どもたちみんなにスケート靴を買うのは家計上、大変なことだったでしょう。もちろん、収容所内にはデパートなんてありませんから、スケート靴のようなものはシアーズ・ローバックやモンゴメリー・ワードといった店の通信販売カタログから注文するしかありません。多分、こんな店は収容所からの注文で、すごい売り上げがあったんじゃないでしょうか。2

今回の写真は、ビル・マンボーの一人息子、3歳のビリーが、おじさんのサミー・イタヤとおぼしき人に、しっかり手をつかんでもらって氷の上を歩くレッスンを受けているものです。しっかり握った手と手が、全幅の信頼を預けているビリーと、強制収容所にあってもビリーに変わらぬ愛をそそぐ、家族やおばあさん、おじいさん、おじさん、おばさんの存在を感じさせます。周りの大人にとって小さなビリーの成長が将来に夢をつなぐよすがだったのかも知れません。撮影はもちろんお父さんのビル・マンボー。プロの写真家でなく、趣味のカメラで子供の成長と収容所内の日常を記録しています。3


日系人は甘やかされている?
———

年が明けてすぐのこと。カリフォルニア選出共和党議員、F・レロイ・ジョンソンは「収容所の日系人は卵、バター、砂糖、コーヒー、肉等の巨大な輸送を受けている。これに反し、収容所の周辺に居住するアメリカ人は割当てられた量分の食料品すら入手に困難を感じている事態にある……」との十分な証拠のない報告を受け、「かかる報告の真相につき宜しく調査が行われるべきである」との決議案を議会に提出。4

そこで、トルーマン(下院非米活動)委員会が、各地の収容所を回って調査をはじめます。委員会がミニドカに来る日、高校の各学年代表が収容所入り口で出迎え、学校を案内することになっていました。雨の中、ヘンリーたちは二時間半も門の側で待っていたのですが、委員会の面々は来ませんでした。委員会の人たちは、一歩も収容所内には足をふみいれていなかったのです。

しかし、後日ヘンリーはミセス・ポーラックの勧めで、連邦議会議事録に収められている委員会の報告書を手に入れて、驚きます。その報告書には、食卓にはリネンのテーブルクロスがかかり、ウエイトレスの運んでくるすばらしい料理を銀のナイフとフォークで食したと書かれていたからです。ミセス・ポーラックに見せると、先生は即座に「あら、これは管理者用の食堂のようすだわ」と。委員会の人たちは、有刺鉄線の囲いの外にある管理者用の地域にだけ行き、そこで食事をし、報告書を書いていたのです。5


収容所で一番おいしかったもの

ヒラ・リバーで­は、当初、食べ物の量は仮収容所の時よりもさらに少なかったそうです。ジーンの母親は、必ずパンを残し、バラックに持ち帰り、乾燥させて茶色の紙袋にいれていました。非常用の食料として準備していたのです。次のジーンの言葉をトルーマン委員会の面々に聞かせたかったものです。

……一方、ぼくたち子供の世代にとっては、直面する飢餓感のほうが問題だった。ぼくたちは貯蔵倉庫からジャガイモをくすねてきて、その周囲に泥を塗り、砂漠の中で焚火をし、かざして焼いた。兄のヨシローには調理場で働く知合いがいて、二度ほどパンと卵をもらってきた。我が家には調味料の小壜があったので、兄はホットプレートを使ってオムレツをつくった。かなりの量ができたから、ぼくの家族の全員に、オムレツ・サンドイッチの半分が渡った。ぼくは自分の分をゆっくりと、なるべく時間を長びかせるようにして食べた。その後、食料の配給量が増え、たえず悩まされていた飢餓感はどこかにいったが、収容所で一番おいしかった食べ物といえば、砂漠でやいたジャガイモとオムレツ・サンドイッチといえるだろう。6


図書館でレコード鑑賞会
———

多くの図書館でレコード鑑賞会も定期的に行われていました。トパーズでは毎日出版するトパーズ・タイムスに加え、毎週土曜日に出されていた新聞もありました。その1943年1月15日の紙面では、こんなお知らせが出ています。

午後8時から9時まで、図書館でおこなわれる1月20日のコンサートはフランツ・シューベルトの調べです。幕開けは軍隊行進曲と白鳥の歌からレルシュタープの詩による歌曲第四曲、セレナーデ、その後、マリアン・アンダーソンによる歌唱二曲、アヴェ・マリアと白鳥の歌からレルシュタープの詩による歌曲第五曲「わが宿」を挟んで、シューベルトの交響曲第八番ロ短調「未完成」で幕をとじます。7


夜のボランティア

なにもかもが不確かな生活が長引くにつれて、子どもたちの中にも変化が出てきます。ミニドカの教育長だったクラインコップフの日記にも、高校図書館でサボったり、タバコを回しのみしているグループがいるとの記載がたびたび見られます。ところで、この夜のボランティアって、何だと思いますか? この父親の話を聞いて下さい。

青少年の間で様々な教育問題があった。高校、中学、小学校と教育施設は一応あったが、キャンプは教育する場ではなかった。というのは、長男のタイラ啓志が夕暮れに「バランティアに行ってくる」と、外出することが時々あった。夜のバランティアとは何だろうと思い調べてみると、これが農園にしのびこんで畑のものをチョクチ(失敬)することだった。そういうバランティアの仲間に誘われたらしい。私は教育環境が悪いと思ってキャンプを出ることにした。8

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注釈: 

1. Heart Mountain Sentinel, Vol. II  No. 4, January 23, 1943.

2. Muller, Eric L(ed). Colors of Confinement: Rare Kodachrome Photographs of Japanese American Incarceration in World War II, Chapel Hill: University of North Carolina Press, 2012.

3. この写真の撮影時期を知りたくて、ハートマウンテンの収容所内の新聞をあたってみました。すると、アイススケート場がオープンした日にちがわかりました。1943年1月19日でした。次はビル・マンボーが禁制品だったカメラをいつ手に入れたかです。ハートマウンテンの所長の「収容所にいる外国人(日本人)が写真機を所有又は使用することを禁止した規則はあるが、立ち退きしたアメリカ人(二世)に禁じた規則は知らない。しかし転住区以外にカメラを持って出たり、公共施設や軍用建築物の写真を撮ったりすることは慎むがよかろう」———が1942年12月24日の新聞に出ていますから、その後、ビルはすぐにカメラを手に入れたと思われます。所長の声明と同じ頃ジェロームとグラナダの収容所でも、二世のカメラ使用が許可されたとの記載があります。それで、この写真の撮影時期は1943年の1月か2月ではないかと推定できます。オリジナルのスライドを保管するワイオミング大学のアメリカンヘリテッジセンターはこの写真の撮影時期を1942年から1944年としています。

しかし、軍事制限地区にある収容所では、依然としてカメラは禁止されていたため、3年間、1枚も自分の生きてきた証がないという、なんともやりきれないような子どももいるのです。

政府の写真家や、アンセル・アダムスによる収容所の写真は、すべて白黒です。ビル・マンボーの写真は、被収容者の視点と生き生きとしたカラーで、収容所生活を切り取っているところに面白みがあります。当時ハートマウンテンにはカメラクラブもあったので、他のクラブ員が撮った写真が、今もどこかの屋根裏部屋の箱のなかに静かに眠っている可能性があります。

Heart Mountain Sentinel, Vol. I  No.10, December 24,1942.
Heart Mountain Sentinel, Vol. II  No.4, January 23,1943.

4. The Minidoka Irrigator, Vol. II  No. 4, …

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war ja

おばあさんの手紙 ~日系人強制収容所での子どもと本~

第三章 荒野の強制収容所:1942年から1946年にかけて — 前編(4)

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収穫の手伝い———晩秋

実りの秋でもあります。農産物の収穫期ですが、カリフォルニア、アリゾナ、アイダホ、ワイオミングとどこの農園でも人手不足に悩んでいました。いままで収穫に携わっていた者は、兵役にとられたり、軍需景気にわいていた都市に出かけたりしていて、誰もいません。困った知事は、地元出身の上院議員や戦時転住局に「愛国者の義務として」日系人被収容者に刈り入れを手伝わせるようにかけあいます。囲いからでるチャンスですから、多くの高校生も応募し、ブリードさんの子ども達のルイーズも「学校新聞を作るための基金集めに」級友と綿摘みに出かけています。シアトルのウィルス先生に、ベンが農園のあるアイダホ州のツインホールズから出したはがきです。

1942年11月12日

親愛なるウィルス先生、

甜菜畑での仕事が終わり、あと2日で転住所に戻ります。あまりにも長い間キャンプから出ていたので、また初めからキャンプの生活に慣れなくてはいけません。同封しました新聞によると、ミニドカでは今、有刺鉄線のフェンスをたてていて、8つの監視塔があるそうです。ピュアラップのキャンプ・ハーモニーを出た時に、こんな不便なことは全部置いて来たと思っていたのに。どうやら、昔の生活がまた僕の新しい生活です。どの方向を見渡しても、どこまでもセージブラシュしかない所に僕たちを投げ込んでおいて、政府はどうして囲いをする必要があるのか、どうにも理解しかねます。

もし、これがデモクラシーというならば、僕は厳格な独裁制の方を選びます。そうすれば、少なくとも有刺鉄線のフェンスのなかに追いやられることはないから。

いつものように、 ベン1


ミセス・ポーラック
———晩秋

ミニドカのハント高校は、ベンの戻った11月14日にやっと新学年を迎えています。高校一年生になったヘンリー・ミヤタケは収容所内の先生について「長い間インディアン保留区の子どもを教えていた先生のように教えることに意欲を失っている平凡な先生から、使命に燃えている先生までいろいろでした。僕の高校一年の時の先生、ミセス・ポーラックは幸運なことに後者でした」と語ります。

……先生は収容所に入っている人に対して、何か不正義が行われたと感じ、被収容者のために自分にも出来る事をしたいと、とても高潔な意図をもって、なんとかその不正義を修正したいと感じていらしたんです。ご主人は海兵隊で家をあけていらしたので、空いた時間をぜひ収容所の日系人のためと、それと自分のキャリアになるなにか建設的なことをしたいと思って、収容所の先生になられました。

とても献身的で、才能もあり、知的な先生でした。キャンプの中の状況もよく把握なさって、何がどうなっているかをきちんと判断なさっていました。僕たちの勉強にたいする意欲が低いこと、いい学生になる努力をしなくなっていることに気づかれ、……「今は臨時的な状況です。2、3年もすればこのキャンプを出て、もとの所に戻って通常の教育を受ける事になります。そのために、今勉強を続けなければならないのです」と。

ただ単に教えるだけじゃなく、僕たちが教育の過程でもう一段上に上がれるように準備することが先生の気持ちを駆り立てていたようです。先生の出されたプロジェクトの一つに、自由に自分の将来の環境を想像してみる、というのがありました。そうすると、このキャンプの生活が暫定的なものと思え、将来どんなキャリアをもちたいか、どんな職業につきたいかを考えることになります。こんな考え方は初めてでした。両親のとも、これまで出会ったどの人のとも違っていました。……「どんな大学にいきたいか?」というちょっと面白そうな課題を与えられたことも。先生はすごい数の大学のカタログをとりよせて、先生の机の上と本棚に並べて、僕たちが自由に手にとることができるようにしてくださいました。マイアミ大学なんて、いままで聞いたこともなかったんですが、マイアミ大学のもハーバード大学のカタログもありましたよ。……2

こんな事もありました。ある日、ミセス・ポーラックは、ゴードン・ヒラバヤシが今ミニドカに来ているという話をどこからか聞いてきて、クラス代表をしていたヘンリーに、クラスに来てもらって、話をしてもらったらどうかと持ちかけます。ゴードン・ヒラバヤシは当時ワシントン大学の学生でしたが、日系人にたいする夜間外出禁止令を故意に破り、強制収容命令に背き、自発的にFBIに出頭し投獄されています。日系人に対する政府の処置は「人間の尊厳を侵し、生きる権利を否定するものだ」とし、自らの信念を貫いて行動した一人です。3

クラスのほとんどは、彼のことは何も知らなかったし、何をしたか、また何をしようとしているのか全く知らなかった。後にアメリカ憲法史上の伝説的人物になる人が、僕たちに直接話をしてくれた。ゴードン・ヒラバヤシの講義はクラスのみんなに深い感銘を与えた。僕にも。ゴードンの話は僕の心に焼きついた。4


図書館で午後のお茶———

1942年12月2日発行のトパーズ・タイムズから。お茶のサービスのある図書館は、どんなにか心休まる空間だったでしょう。図書館ができてからデマやうわさ話が減ったという報告もあります。

コミュニティ図書館がレクリエーションホール16にて正式にオープンしました。かなり豊富な蔵書をかかえた図書館の利用者を喜ばせたのはノブオ・キタガキ館長率いる図書館員による午後のお茶のサービスです。5


マンザナー暴動
­­とサンタクロースとレモンの箱にリンゴをいれるな———

12月5日夜、ソルトレイクシティでのJACLの会議から帰ったばかりの二世、フレッド・タヤマが襲われ、殴られる事件がおこります。タヤマは6人の暴徒の中の1人を、キッチンの仕事をしていた帰米二世でターミナル島出身のハリー・ウエノだと証言し、ウエノは捕らえられ、訊問を受けるために近隣のインディペンダンスの刑務所に拘留されます。常々、「ある収容所管理官が食料庫から肉と砂糖を盗み出して、闇で売っている」と警告していたウエノでしたから、ウエノを捕まえたのは、その警告をもみ消すための工作だろうと、人々はすぐにウエノの釈放を要求。人はどんどん集まるばかりで催涙弾を投げても効果なし。しまいには石を投げたり、誰も乗っていない車を警察官の方にむけて暴走させたりと事態はエスカレート。危険を感じた警察官が発砲し、たまたまそこにいた17歳のジェームス・イトウが即死。後にその時に受けた傷からもう1人死亡。ほかに9名が負傷しています。これがマンザナー暴動です。

真珠湾攻撃からちょうど1年目にあたる2日後の晩、メアリー・マツダは、兄のヨネイチからマンザナー暴動のニュースを聞き、驚くと同時に恐怖感にかられたといいます。「なにかがどこかで間違っている。暴動はここでも起こるのだろうか。政府はどう出てくるのか。私たちに何が起こるんだろうか」と。メアリーは後に暴動の原因をこう説明します。

異なる力のぶつかり合い。一つは、冷酷な立ち退き、強制的な監禁、劣悪な環境、やりがいのある仕事がないこと、その他もろもろのキャンプ内の問題からくる不安。特にひどい目にあったターミナル島の人々の気持ちは推して知るべしです。怒りを抱いたターミナル島の人々がマンザナーにいたということ。もう一つは親米派の日系アメリカ人市民同盟(JACL)の存在。……JACLがキャンプ内の“トラブルメーカー”の名前を秘密裏に管理局に渡しているとのうわさもあり、他の被収容者はそうとう怒っていました。6

水面下深くでふつふつと湧き上がっていたマグマが、一気に爆発したのがマンザナー暴動です。暴動の直後、マンザナーに戒厳令がひかれ、学校も、郵便局も何もかも閉鎖。キャンプ中、重苦しい空気に包まれていました。管理局で仕事をしていた人も、収容所外に退避したのですが、どうしても残りたいと残っていた一人の先生がいます。そのミス・イーライが見たものとは……

郵便配達もなかったので、クリスマス直前の郵便局は配達しなきゃいけない手紙や小包でふくれあがっていました。そして、奇跡が起こったんです。すごく上機嫌なクエーカー教徒のハーバート・ニコルソン———みんなから寄附されたおもちゃをたくさん運んで来てくれたのです。バラックとバラックの間にちょっと広い防火地帯があるんですが、そこの真ん中にトラックをとめて、トラックの上からおもちゃを配り始めたんです。すると、急にキャンプ全体の雰囲気が変わったんです。7

一方、ベインブリッジ島のウォルトとミリー・ウッドワードは、何度も連絡を試みていましたが、戒厳令のひかれていたマンザナーには通じず、やっと島の人々の安全が確認されたのはしばらくしてからでした。ウォルトは早速、「気性の荒いカリフォルニアの人のなかに、穏やかなベインブリッジ島の人々をいれるのは間違っている。レモンの箱にリンゴをいれるようなものだ。ベインブリッジ島の人々は同郷のシアトルの人のいるミニドカに移すべきだ」との強い口調の手紙を戦時転住局に送りつけています。8

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注釈:

1. Letter dated November 12, 1942. Elizabeth Bayley Willis Papers. Acc. No. 2583-6, Box 1. University of Washington Libraries Special Collection.

2. Henry Miyatake, interview by Tom Ikeda, May 4, 1998, Densho Visual History Collection, Densho.

3. 自らの信念を貫いて行動した者はヒラバヤシの他にも、強制収容の不当性を訴えたフレッド・コレマツと、夜間外出禁止令の合憲性を問題にしたミノル(ミン)・ヤスイが有名ですが、ミツエ・エンドウもツールレイクの収容所の中から拘留を不服として裁判所に申し立てをしています。

4. Henry Miyatake, interview by Tom Ikeda, May 4, 1998, Densho Visual History Collection, Densho.

5. Topaz …

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