Yuri Brockett

東京での大使館勤務後、夫の大学院留学のため、家族で渡米。ニューヨークでは子育ての傍ら大学で日本語を教え、その後移ったシアトルではデザインの勉強。建築事務所勤務を経て現在に至る。子どもの本、建築、かご、文房具、台所用品、旅、手仕事、時をへて良くなるもの・おいしくなるもの…の世界に惹かれる。ワシントン州ベルビュー市在住。

2015年2月 更新

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おばあさんの手紙 ~日系人強制収容所での子どもと本~

第五章 戦後の新たな出発:1945年以降(1)

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そうです。青木祥子さんが前号(「子どもと本」第136号)の表紙に書かれたように、収容所を出た日系人は、長い間、負った傷をだれにも話さずに来ました。日系人には何の落ち度もなかったのですが、収容所に入れられたことで、何か自分たちに落ち度があったのかも知れないとの恥や罪の思い。話すことによって、心の底に埋めた怒りや痛みが吹き出してくることへの不安。済んだことは済んだこと、しかたがなかったとの諦め。子どもに食べさせるだけで精一杯で、他のことは考えられなかった日々。

ワシントン大学のテツデン・カシマ教授はこのような思いを「社会的記憶喪失」と呼び、次のように説明を続けます。精神的な病ではなく、集団で、ある出来事に関する感情や思い出を意識的に抑制する現象だ。監禁生活やコミュニティに亀裂を残した問題にふれることは意識的に避けた。完全に忘れたというのでもなく、意識下の彼方に葬り去り、その記憶をよび戻すには精神科医の手を借りなければいけない程でもない。同じ経験をした者どうしで収容所生活のささいなことやユーモアのある話をすることもあるけど、それ以上は決して深入りしなかった、と。1 

収容所での体験を書き綴っていたエステル・石郷がハートマウンテンを出る直前に目にしたのは———「老人が野原に行って小鳥を篭から出して、自由にしてやった。小鳥は広い広い大空に翼を広げた。精一杯飛ぼうとしたが、ほとんど飛ぶこともなくスーッと地上に落ち静かに横たわると死んでしまった」2収容所を後にした日系人は、はたして飛び立てたのでしょうか。

* * * * *

テツデン・カシマは、社会は、大きな出来事があるごとに、いままでの習慣が乱され、その出来事に対処できるように、古くからの習慣に新しい習慣を統合し、変化をくりかえしてきたとします。日系人に関しては、日本から移民した当時の危機的調整時を経て、20世紀初頭の排日の時代、それに続く適応の時代、開戦後の突然の強制収容、そして今回の生活の再調整期、それにつづく謝罪と賠償運動と、大きな出来事を経て、日系社会も日系というエスニックアイデンティティも変化を遂げてきました。3

再出発というと明るい響きがありますが、決してそうではなく、「米びつに手をいれても何も出てこない状況下で…… ドアをノックする音が聞こえ、出てみると食料品を入れた袋や温かい食べ物がおいてあることがあった。母は神様のしわざだと言っていたが、もしそうだとすると、神の使いは、僕たちの苦境を知った心やさしい日系の友達に違いない」とのダニエル・オキモトの当時のエピソードも、カシマは紹介しています。4


1. 危機的状況下での生活の立て直し
    <1945年から1955年にかけて>

やり直し———アヤコ・ナガタ5

ツールレイクを後にしたアヤコの家族は、シアトルに戻ってきました。二番街でバスを下り、荷物をかかえて徒歩でジャクソン通りの坂をのぼり、レニア通りとウエラー通りの角にある日本語学校に辿り着き、そこでキノシタ夫妻に会いました。父親の友人の紹介で、比較的大きな教室に住んでいたキノシタ夫妻は、一面識もなかったアヤコの家族に一緒に住むよう連絡をくださっていたのです。 

戦後のひどい住宅難と、いまだに日系人には家を貸したくない大家が多く、収容所からでた日系人は、住宅を見つけるのが難しく、仏教会、教会、トレーラー6等を仮の宿にしていました。幸い立ち退き前の家に帰れた家族は、複数の家族を世話しています。シアトル日本語学校にも、ミニドカから帰ってきた二十家族以上が教室を使って住んでいました。

父は老人ホームの料理人から住宅公団の野外整備の仕事まで、手にはいる仕事はなんでもしていました。でも、どの仕事もあまり給料がよくなかったので、常に新聞の求人欄で新しい仕事を探していました。ある日、肉を解体する仕事をみつけ、さっそく面接にでかけましたが、そこで、この仕事をするのには背がひくすぎると言われます。一度決めたらなかなか諦めない父は、一週間給料なしで働かせてくれと頼みこみ、一週間後には無事本採用になり、流れ作業で次々にやってくる牛や豚の解体の作業をしやすくするために、会社は背のひくい父のために踏み台をつくってくれたとのこと。たいへんな肉体労働だったようですが、約5年ここでがんばって……。

その後も、アヤコの父親はさまざまな仕事をして、三つぐらいの仕事を掛け持ちしていたこともあります。エレベーターの操作をする仕事をしていた頃のことですが、あまり英語が話せないという理由で、日本人の同僚が解雇された時、アヤコの父親はすぐにマネージャーのところに行き、子どもの多い同僚の代わりに、「僕を辞めさせて下さい」と申し出ています。会計事務所で仕事をすることになった時は、とても喜んでいたのですが、すぐに所長に呼ばれます。所長は申し訳なさそうに「私はあなたのことが気にいっているのですが」と切り出しました。もし日系人を雇うなら、他の職員が全員辞めると言っているというのです。父親は、「わかりました」とその場で辞職しています。

母は、強制立ち退き前に仕事をしていたシアトル・グラブ・ファクトリーに戻り、帆布と皮の作業用の手袋を縫う仕事を始めました。出来高払いで何の保障もありませんでした。母が引退する4年ほど前にボス製造工業がシアトル・グラブ・ファクトリーを買収した時に、はじめて母も長年一緒に働いて来た同僚と一緒に、組合並みの給料と健康保険、退職給付金を受けられることになりました。しかし、シアトル・グラブ・ファクトリーで33年働いた記録は、新しい会社には移されず、新しい会社で4年働いただけだったので、退職後は月々ほんの10ドル(1000円)の年金を受け取っていました。それでも母は、英語も話せず他の仕事につくことが出来なかった一世の女性たちに仕事の機会を与えて下さったと、シアトル・グラブ・ファクトリーの持ち主であったディビス夫妻に、いつも感謝していました。

後にアヤコの母親が病気になり手術をしたことがあります。術後、まだ麻酔のかかったままの母親の手が小刻みに動いています。何だろうと一瞬考えていたアヤコでしたが、ああ、これは手袋を縫う母の指が生地をミシンの針へと送っている動きだと気づき、「ああ、お母さん、長い間本当にありがとう」と感謝の気持ちで一杯になったといいます。

ルーバーブ農園———ジュンゾーとリヨ・イタヤ7

ビリーのおじいちゃんとおばあちゃん、ジュンゾーとリヨ・イタヤの最後の望みだったルーバーブ農園はどうだったのでしょう。 

話を一旦立ち退き前に戻し、ジュンゾーが1942年3月13日にFBIに逮捕され、立ち退き準備を一人でしなくてはならなくなった母親のために、カリフォルニア大学バークレイ校で勉強していた21歳のサミーが、学業半ばで帰ってきたところから始めます。

サミーは借りている10エーカーの農園のルーバーブをどうするか考えた末、苗の持ち主の自分と、ルーバーブの世話をする新しい借地人と、地主のポール・ウイルソンとの3人で契約書をかわしました。4月27日、立ち退きの前日に。それほど時間がなかったのです。この契約書には、ルーバーブの苗はこの農園で大切に育てられ、戦争が終わり次第、サミーがウイルソンに154ドルの土地滞納代を払えば、すべてサミーに返却される、その間は、新しい借地人がルーバーブの世話をし、ウイルソンが収穫物の販売にあたり、利益は三者で均等に分ける、と明記されていました。

しかし、カリフォルニア州ノーウォークにあるルーバーブ農園の持ち主だと思っていたウイルソンは、とんでもない人だったのです。すべてが嘘で、農園は1937年に税金不払いでカリフォルニア州に差し押さえられていて、すでにウイルソンのものではなかったにもかかわらず、ウイルソンは法律の網の目をかいくぐって、長年イタヤ家から借地料を徴収していたのです。その上イタヤ家が仮収容所に移って何か月もしないうちに、農園を鋤で掘り返し、ルーバーブの苗をめちゃくちゃにしていました。農場の中でイタヤ家が所有していた二棟の移動式建物も、壊されたのか持ち去られたのか、最後の望みは、跡形もなく消えていました。

ジュンゾーとリヨは、1946年にカリフォルニア州ハリウッドに戻って自動車修理店を開店したビリーの家族のもとに行くしか仕方ありませんでした。幼かったビリーにとっては、バラックの裏に積み上げてあった石炭の残り火の中に飛び込んだ時に負った小さなやけどの跡だけが、収容所生活で残った傷跡で、精神的に傷つくことはなかったそうです。しかし、ビリーの祖父母は、苦労してこつこつと築いてきたものをすべて失い、もう一度やり直すには年を取りすぎていました。
 

ベインブリッジ島での「おかえり」

新米レポーター、ポール・オオタキとそれに続く仲間が、ウォルト・ウッドワードの新聞に送っていた収容所便りを、島に残った人々は興味深く読んでいたようです。「……一週間に一度だったと思いますよ。誰が結婚したとか、どこに赤ちゃんがうまれたとか、どなたか亡くなった方もいましたね。みんなは収容所でも野球をしていたんですよ。それで、だれがチームに入っているかとかそんな事でしたが、面白かったですよ。収容所に行ったみんなが元気でいるか、どうしているか知るために、島の人はみんな読んでいました」と語るのは、高校の野球部員だったアール・ハンセンです。8

幸いにもサリー・シマコ・ニシモリ一家が島に帰って来た時には、家も家具も農園も残っていました。友達や隣人が世話をしてくれていたお陰です。島に残して来たものでサリーたちが必要なものを収容所まで送ってくれたりもしています。しかし、サリーにはとても心配していたことがありました。

「高校でみんなに受け入れてもらえるか」って。13歳になったかならなかった頃で、本当に怖かったんです。学校がはじまると、いままでのシマコじゃなくて、アメリカ風にサリーって出席簿にサインすることにしました。それからと……あ、最初の日に、幼稚園から同じクラスだったシャノン・スタッフォードとレイ・ロウリィがやってきて「おかえり!」って言ってくれた時には、もう天にも昇る気持ちでした。だって、だれも私を受け入れてくれないと思っていたのですから。9

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注釈:

1. Kashima, Tetsuden. (1980). Japanese American Internees Return, 1945 to 1955: Readjustment and Social Amnesia. The Phylon, the Atlanta University Review of Race and Culture, Vol. XLI No. 2.

2. エステル・石郷著、古川暢朗訳、「ローン・ハート・マウンテン———日系人強制収容所の日々」石風社 1992

3. Kashima, Tetsuden. (1980). Japanese American Internees Return, 1945 to 1955: Readjustment …

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おばあさんの手紙 ~日系人強制収容所での子どもと本~

第四章 荒野の強制収容所:1942年から1946年にかけて — 後編(6)

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3. 1945年

キャンセルになった対抗試合———

1年中砂嵐は止まず、雪もちらつく早春のマンザナーですが、高校の男子バスケットボールチームは近くの町のビショップ高校との親善試合に備えて熱気にあふれていました。何しろ初めて相手校に出向いて行く試合でしたから、みんなの気合いも相当なものです。西部防衛司令部の外出許可もとり、チームが出発するという2、3時間前に、ビショップ教育委員会は急に試合をキャンセルしてきました。町に日系人がやってくるというので、コミュニティからの反発があるかもしれないという理由で。転住局が残したこの件についての報告書の中に「若者と偏狭な親の世代との考えの違いを浮き彫りにするために」と、添付してあった手紙をご覧下さい。

1945年1月23日
カリフォルニア州マンザナー
マンザナー高校、生徒会 

親愛なる学生のみなさま、

マンザナー高校、ローリン・フォックス校長から事情をご理解いただいたとのお手紙をいただき安堵しました。

マンザナー高校のバスケットボールチームとの試合が急にキャンセルになったと知らされた時、僕たちは教育委員会の決定を覆すべく、全生徒の署名をあつめて嘆願書を提出しました。学校では、デモクラシー及び米国憲法はいかなるアメリカ人にも平等な扱いを保障していることを学んできました。でも、教育委員会の何人かは、私たちの嘆願書を認めようとはしませんでした。

心から、いつかマンザナー高校のチームと試合ができるように祈っています。

                                                     敬具、

ミッキー・ダフィ
ビショップ高校、生徒会会長1


ルーズベルト大統領の死———

「あのな、今度のような事態でいちばん大きな被害を受けるのは、お前のような子供たちなんだ。砂漠の中の収容所のようなところで、人格形成期を過ごさなければならないんだからな。ヨシローや俺にはあまり影響はない。もう人格が出来あがっているからな。だけどお前の場合は、失うものがかなり大きい」と軍隊の基礎訓練を終えて休暇で収容所に戻ってきた兄のゴローが散歩しながら言った言葉を、12歳になったジーンは時々思い出しては考えていました。その頃、「自由のうちに発想され、人間はみな平等に創られりという主張をば実現せんとする新しい国家」のくだりの文章が好きで、リンカーンのゲティスバーグ宣言を暗記したジーンは、両親と移ったポストン収容所で、4月12日、ルーズベルト大統領の死に直面しました。

……追悼式でゲティスバーグ宣言を暗唱するようエヴァンズ先生に頼まれた。ぼくは承知したが、式の時間が近づいてくるにつれ、どうにも気が落ち着かなくなってきた。南北戦争のときにリンカーンが述べたこととルーズベルト大統領の死とは、どう考えてみても関係なかった。ぼくは先生のところに行き、ゲティスバーグ宣言の暗唱はしたくない、それがルーズベルト大統領の追悼式にふさわしいとは思えないのだ、と説明した。先生は反論し、説得しようとしたが、ぼくの決心は変わらなかった。……ぼくたちを収容所に入れた張本人なのである。ぼくは彼の死には悲しみを感じなかったし、何の感慨も湧いては来なかった。2


戦争の終結———盛夏

16歳の誕生日を待ってヘンリーは、一人で収容所を出て、シアトルに戻ってきました。両親が収容所からもどる前に、住む所や諸々の用意をしておこうと思ったのです。ヘンリーは、すでに年をとっている両親が生活を改めて構築する苦労をすこしでも和らげられるよう、お金をためておきたいと、芝を刈る仕事を始めます。ドイツが降伏したときも芝生を刈っていて、その家の人に「ドイツが降伏したよ。ヨーロッパでは戦争が終わったのよ」と知らされ、広島に原子爆弾が落とされた時も、違う家の裏庭の芝を刈っていました。財閥のジョン・ノードストロム家の斜面になっている裏庭の芝を苦労して刈っている時に、いつも親切にしてくださるノードストロム夫人がレモネードの入ったガラスのピッチャーをかかえて、満面の笑みで庭に現れ、「ヘンリー、あなた方の心配はもう終わったのよ」と。ヘンリーは日本降伏をノードストロム夫人から知りました。3

ヘンリーのいたシアトルから南に45マイル[約72キロ]下った所、マクニール島連邦刑務所に徴兵拒否4で服役していた須子正二も、やはり芝刈りをしていました。「1945年8月14日、刑務所長宅で草刈機を押していた。所長宅の窓から短波にのってくる天皇陛下の終戦の詔勅を聞いた。私は草刈機を無性に押して流れる涙をぬぐおうともしなかった」と、伊藤一男に手記を送っています。5

一方、まだツールレイクにいたアヤコは、二、三軒先のバラックで帰米二世の若者たちが隠し持った短波ラジオをかこんで日本降伏のニュースを聞きながら涙を流しているのを、窓の外から見ていました。アヤコの家族は戦後日本に帰る予定でしたが、ここでお父さんはアメリカにとどまるよう大決心をします。「日本は長い間戦争をしていて、みんな大変だ。今は日本に帰る時ではない。今帰っても、家族や親戚に負担をかけるだけだ。アメリカにいて、仕事をして少しでもお金を送ってあげた方がいい」と。6


イタヤ夫妻———

前年の11月から療養生活に入ったビリーのおばあちゃんリヨは、9月の末になっても、いらいらしたり音に過敏になったり頭痛に悩まされ、食欲もなく眠りも浅い状態がつづいていました。医師はノイローゼと診断しています。最後まで残っていた唯一の家族、メアリーとビリーも7月にはクリーブランドで仕事を始めたビルのもとへと旅立ってしまいました。一人減り二人減りの収容所内にあって、ジュンゾーとリヨは、本当に二人だけになり心細い気持ちでした。立ち退きの際に持ってきた小額のお金は随分前になくなっています。最後の望みは、管理を頼んできたカリフォルニアのルーバーブ農場だけでした。7


別れの時———晩秋

3年半前のことです。立ち退きの準備をしていたお母さんの「アヤ、持って行くのに好きなおもちゃを一つ選んで」との言葉で、三つの本棚にきれいに並べられた本やおもちゃがある所に走って行ったアヤコ。アヤコはその時のことをこう書いています。

愛読書だったきれいなイラストのついた『マザーグースの歌』、大きな『グリム童話』の絵本、隣に住んでいたレニーにもらったところどころ青色が薄れて消えかかっている表紙の古い詩歌集。レニーは8歳上だったけど、どちらも一人っ子だったので、姉妹のようにして育ちました。まだ、箱にはいったままの人形、ぬり絵、クレヨン、ゲーム、何時間も夢中で絵を描いていた黒板のイーゼル……そこで目に留まったのが、前の年のクリスマスにレニーにもらったかわいい赤ちゃん人形のパッツィでした。大きな青い瞳、かわいい鼻と口、ほっぺにはえくぼ。ピンクの帽子の中にカールした短いブロンドの髪が隠れています。白い薄手の生地に小さなピンクの水玉模様の、後ろで結ぶようになっているドレスの上には、帽子とお揃いのピンクのコートをはおっています。折り返しの縁にレースの飾りのついた白い靴下と、白いメアリー・ジェーンの靴をはいてお出かけのよそおいは準備万端。パッツィを取り上げて、腕の中で抱いた時、わたしと一緒にキャンプにいくのはこの子だわと思いました。8

パッツィは、ピュアラップ、ミニドカ、ツールレイクと、アヤコの行くところにはどこにでもついて行きました。ここ、ツールレイクで親しくなった友達にユミとサチがいます。ある日、前触れもなくユミとサチの父親がノースダコタ州ビスマークにある司法省管轄の留置所に連れて行かれた時は、ユミの家族は「お父さん、日本で会いましょう」と言いながら悲しい別れをしています。11月、収容所を出てシアトルに戻ることにしたアヤコの家族を、ユミを抱いたお母さんとサチが有刺鉄線の囲いの所まで見送りにきてくれた時のこと———

みんな心の中ではもう二度と会えないと思っていたので、とても寂しい、涙の別れでした。父親を置いて、三人で日本に帰らなくてはならないユミたちをかわいそうに思いました。わたしの後ろで門が閉まる間際に、持っていたパッツィを急いでユミに手渡しました。ユミはゆっくりとパッツィを受け取り、腕に抱き体にすりよせました。わたしが今までに何度も、何度もそうしたように。9


出たくない———晩秋

この3年半で、日系人は不毛の土地を耕し野菜をつくり、殺風景なバラックの周りに花を植え、日本庭園をつくり、手にはいるもので工芸品をつくり、図書館をつくり、猛暑をやわらげるよう簡易冷房装置を工夫し、アイススケートリンクを作り、歌を詠み、「この異常な状況から、可能な限り尋常な状況を絞り出すこと」を達成しました。しかし、4度目の秋を迎えた収容所に残っているのは、いまや一世のお年寄りと子どもたちだけです。3、40年働き詰めに働いたあげく、強制収容で家も仕事もなにもかも失った一世の中には、いまだに排日の気運が残る社会に戻るよりも、最低限でも衣食住の保証されている収容所内にとどまりたいと考える人もいました。

持てるだけの荷物を持ってむりやり強制収容所におしこめられたのが1942年、今度は一人25ドルと片道切符を渡されて、むりやり外の世界に投げ出されたのです。1945年11月末までにツールレイクを除くすべての強制収容所が閉鎖。1946年3月20日、ツールレイク隔離センター閉鎖。

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注釈:

1. Lindquist, Heather C. (Ed.). Children of Manzanar. Independence: Manzanar History Association, 2012

2. 前掲「引き裂かれたアイデンティティ−−−ある日系ジャーナリストの半生」

3. Henry Miyatake, …

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おばあさんの手紙 ~日系人強制収容所での子どもと本~

第四章 荒野の強制収容所:1942年から1946年にかけて — 後編(5)

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2. 1944年

交換船で日本からの慰問品届く———早春

日米間の捕虜の交換船で懐かしい祖国の薫りが届きました。日本での「敵国在留同胞救援資金募集」で集まった資金で調達した物資が、赤十字経由で届いたのです。1 第一次交換船では緑茶が、第二次交換船では緑茶、味噌、醤油、薬品、娯楽品、書籍が届いています。シアトルの日本語学校の先生をしていたミニドカ収容所の吉武とみかの日記から——— 

二月一日  
二十度 [摂氏マイナス6度]。晴天。雪もとけて道の悪い事おびたたしい。然し、暖い事、春のやう。日中は七十度 [摂氏21度] を越した。夜、日本からの慰問品として、亀甲萬(当エリアに四百四十樽)をそれぞれ分配して頂き、一人あたり一パイント [約2カップ] と少しで、うちでは、一ギャロン一パイント [約4リットル] を頂だいした。今更乍ら祖国の有がたさをしみじみと感じた。祖国は今や未曹有の非常時に遭遇して居て、物資も無限に必要であらうのに、我々の事まで心にかけ、かくて多量の品をはるばると送り来り、直接、拝領したといふ事は、感謝惜くあたわざるものがある。三拝九拝して頂だいす。2

どんな薬品が届いたかは、3月25日付けハートマウンテン・センチネルに「太田胃散十六箱、タカヂアスターゼ百九十九壜、マキュリクロム百二壜」と懐かしい薬の名前があがっています。同じくハートマウンテン・センチネルの4月1日付けに「日本から在米同胞への慰問品着く」との見出し記事の中で、「娯楽品は将棋盤三面、同駒七組、碁盤四面、碁石七組、楽器類は尺八五管、明笛二管、ハーモニカ一個」とあり、書籍類はすべて検閲済みのもので、『大衆文学全集4、正木不如丘集』『宇野浩二集』『源氏物語』『新日本文学全集第九巻』『歎異抄』『十字架の救』等の文学書や、宗教書に、偉人伝や欧米式礼法などの教養や科学に関するもので、総数百冊余りとあります。3 多分、文学全集は各巻別々の収容所に行ったものと思われます。もう一つ嬉しかったのは、懐かしい故郷からの便り「赤十字通信」が交換船で届いたことです。母親からの便りを手にしたミニドカの小平尚道はこう記しています。

……一番嬉しかったのは母のズーズー弁丸出しの生き生きしたハガキだった。「尚ちゃん。元気でしか?今年の夏はしじしい」なんて書くので嬉しくなってしまう。母親のズーズー弁は素晴らしい。これを読んでいると、母の暖かい声が聞えてき、顔が見えてくる。そして「八月十四日の晩はとても良い月夜でした。月皎々照萬里海 母黙々想異郷児 噫知誰老母心中 只祈天帝汝至誠」と漢詩がかかれていた。4

戦争になると交戦国間の外交のルートは機能しなくなります。そんなとき表舞台にでることなく、苦しむ人々に寄り添ってくれた国際赤十字社、各国の赤十字社、各中立国の働きがあったことも忘れられません。アメリカ国内では、日本政府の依頼をうけて、在米スペイン領事が度々各収容所に足を運んで、日系人の話を聞き管理局との折衝にあたってもいました。


ヘンリーの選択

「アメリカにおける民主主義­­­­­———それが私に意味するもの」これがミニドカのハント高校2年生、ヘンリー・ミヤタケが公民のクラスをとった時の期末レポートの課題。公民のクラスではアメリカ合衆国の憲法や政府の仕組みについて学びます。一年の時に聞いたゴードン・ヒラバヤシの話(本シリーズ第三章)も心に残っているヘンリーは自分でもアメリカ合衆国の憲法と基本的人権を擁護する権利章典をていねいに読み込み、資料を集め、レポートを書きあげました。

キャンプに入れられたフラストレーションや僕たちに起こっていることで権利章典とにらみ合わせて、おかしいとおもわれることを、つらつらと13枚も書いたんです。ええ、もちろんトルーマン(下院非米活動)委員会のインチキ報告書(本シリーズ第三章)のことも、南部での黒人に対する扱いについても書きました。5

と語るヘンリーですが、公民の先生、ミス・アママンに呼び出されて、書き直さなければ受け取れないと言われます。悪いことに、その頃、学生の真面目に勉強する意欲がなくなっていることに苛立ちを感じていた学校側が、もし一科目でも落とせば、その学期の全科目を落第にするという、なんとも不可解な規則を作っていて、学生側はこの規則を変えさせようと運動していた時だったのです。このクラスを落とさなければ、卒業に必要な単位は全て取り終えていたヘンリーでしたが、断固として書き直すことはしませんでした。


シローと442連隊———春から秋にかけて

5月、シロー・カシノは日系二世だけで編成された部隊、第442連隊戦闘団の一員としてヨーロッパ戦線に出かけて行きました。イタリアでハワイからの二世の部隊、第100歩兵大隊と合流、まずイタリア戦線でドイツ軍、イタリア軍と戦い、その後、9月にフランスに。10月、フランス東部にある山岳地帯アルザス地方で、ドイツ軍に包囲されていたブリエラの街を攻略。なにしろ一帯は、山岳森林地帯であるため戦車も、上空からの援助も使えず、激戦を繰り返しながらの徒歩での戦い。死者、負傷者も多数出しながらの苦しい戦闘でした。

ブリエラ開放後も、町の東方の攻略を続けていた折り、10月24日には、テキサス大隊がボージュの森でドイツ軍に包囲され、孤立する事件が起こります。同じテキサス出身の連隊が救助を試みたものの失敗し、25日にルーズベルト大統領から直々に、第442連隊に「失われたテキサス大隊」救出命令が出されます。満足な休息もないまま、再び山岳森林地帯での厳しい戦闘を「当たって砕けろ」を合い言葉に4日間闘い抜き、ついにテキサス大隊を救助しますが、212名のテキサス兵を助けるために、日系連隊は216名の死者を出した上、600名の負傷者を出すことになりました。6

この間、手紙だけが、ルイーズとシローを結びつけていました。ルイーズはシローを元気づけるために毎日のように手紙を書いていましたが、たまに来るシローからの手紙は、戦線のことには何も触れず、書く内容にも注意していたのでしょう、検閲で消されていた箇所はなかったとルイーズは言います。シローはイタリア・フランス戦線で6回負傷していますが、病院にいる時はいつも赤十字の便せんで手紙が届くのでルイーズにはすぐ分かりました。シローはそんな時でも「あぁ、ちょっと鉄砲の弾があたったので休憩している。もうすぐ戦線にもどるさ」と明るく伝えてきます。

二人が知り合うきっかけとなったのは、なんと、ピュアラップ仮収容所でジム・アクツが始めたトレイ・サービス(本シリーズ第二章)で、ボランティアのルイーズが足指の手術をしたシローに食事を届けたのがきっかけだったそうです。7


まだ見ぬ土地で仕事を探す———晩秋

ハートマウンテンのビリーは、お父さんとお母さんと3人で小さなバラックに住んでいました。ちょうど、お母さんの実家、イタヤ家の人々が同じバラックの二軒先に住んでいたので、ビリーはみんなに可愛がられていました。イタヤ家の人々とビリーを一緒に撮った写真もたくさん残っています。それらの写真と比べてみて、ビリーにアイススケートのレッスンをしていたのは、おじさんのサミーではないかと思われますが、1943年の秋までには、そのサミーおじさんも兵役で、18歳になったユニスおばさんもシカゴで仕事をするために、収容所を出て行きました。イタヤ家のご両親、ジュンゾーとリヨのもとに残ったのは、ビリーの母親メアリーだけになりました。ビリーの父親、ビル・マンボーも妻子を残し、クリーブランドに仕事を探しに出かけています。11月、いずれ自分達だけになると考えたジュンゾーはニュージャージーにある冷凍食品会社、シーブルック社の面接を受けに出かけました。シーブルック社は戦争中から人手不足解消のため、収容所内の一世、二世を積極的にやとっていたのです。採用の通知を持って、ジュンゾーはリヨを迎えにハートマウンテンに帰って行きましたが、ジュンゾーの留守の間に、リヨは強度の精神的緊張からか、神経衰弱で長期療養が必要となっていました。ジュンゾーはリヨの側にいることにし、シーブルック社には断りの連絡をいれました。8


少年の冬 

子どもには不思議な力があるようです。トイレやシャワーに仕切りのないことも楽しんでいるようです。ベーコンの三度目の冬のレポートです。

男性用のトイレは便器と便器の間は2フィート[約60センチ]も離れていなかったし、仕切りもなかった。時には、ぼくたちは並んで用をたしながら「今日何しようか」と相談した。仕切りのないシャワーでは濡れたタオルの一方を持って、もう一方を裸の友達めがけて投げ、どれだけ相手の皮膚をひりひりいわせられるか、競い合ったりした。一度は、トイレットペーパーをもちだし、トイレットペーパーを巻いてタバコのようにすった。ひどい味だったので、二度としなかったけど。だれかの父親のパイプ用タバコを盗んできてもらって、それを巻いた方がよっぽどましだった。凍るほどさむい雪の降る夜中にトイレまで走って行くのはたいへんだったが、他の家とちがって我が家はおまるを置いていなかった。おまるを使っている家の人は、朝はやくおまるに布をかぶせてトイレまで足早に通っていたので、すぐ分かった。雪の日には雪の上に黄色の点があらわれた。9


西部沿岸立ち退き令解除、間近

12月17日に米国陸軍省は「来年1月2日から西部沿岸立ち退き令を解除する」と発表。これで、西海岸にある立ち退き前の家に帰れるのです。翌日、マイヤー転住局長官が1945年末までに全部の強制収容所を閉鎖するよう指示。

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注釈:

1. 中立国スイスの仲介で日米は捕虜交換のための交換船を2度出しています。第一次交換船は、1942年7月、日本側の浅間丸とコンテ・ヴェルデ号がアメリカからのグリップスホルム号と、ポルトガル領東アフリカ(モザンビーク)ロレンソ・マルケス港で乗客と積荷を交換しています。この時に野村・来栖両駐米大使はじめ商社員、銀行員とその家族、都留重人や鶴見俊輔、鶴見和子のような研究者や留学生、中南米からの引き上げ者をふくむ約1500人が日本に帰国しています。第2回目は日本の東亜丸とアメリカのグリップスホルム号が、1943年秋、インドの当時ポルトガル領ゴアで、やはり約1500人の捕虜と物資の交換をしました。この交換でグリップスホルム号はお茶、味噌、醤油、楽器、薬品、慰問図書、また日本にいる親戚や知人からの懐かしい手紙、約1万5千通の「赤十字通信」を12月1日、アメリカに持ち帰っています。

桝居孝著、「太平洋戦争中の国際人道活動の記録(改訂版)」日本赤十字社 1994

鶴見俊輔、加藤典洋、黒川創著、「日米交換船」新潮社 2006

粂井輝子著、「慰問品うれしく受けて」———戦時交換船救恤品からララ物資へとつなぐ感謝の連鎖­­ 海外移住資料館

2. 伊藤一男著、「アメリカ春秋八十年」シアトル日系人会  1982

3. Heart Mountain Sentinel, Vol. III No.13, March 25, 1944.

    Heart Mountain Sentinel, Vol. III No.14, April 1, 1944.

4. 小平尚道著、「アメリカ強制収容所———戦争と日系人」玉川大学出版部 1980

5. Henry Miyatake, …

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おばあさんの手紙 ~日系人強制収容所での子どもと本~

第四章 荒野の強制収容所:1942年から1946年にかけて — 後編(4)

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子どもの日常———夏 

高校生ぐらいになると、野球、バスケットボール、ダンスパーティと組織的な娯楽が多くありましたが、ローティーンの組織的活動は限られていて、グループで収容所内をぶらついていて、問題を起こすことが多かったようです。そこで、管理局はボーイスカウト、ガールスカウトの活動を導入したり、少年を集めてタクル・フットボールチームを作ったりしています。ハートマウンテン収容所で少年時代を過ごした13歳のベーコンのレポートから子どもの日常を———

もう少しすると、キャンプの敷地を離れなければ、有刺鉄線の囲いの外に出てもいいことになり、近くの丘にハイキングに行き、りすやガマガエルやうさぎを探したりできるようになった。……  暑い日、一日中外であそんだあと、たまにはみんなで売店によって5セントの一段きりのアイスクリームコーン1を奮発したんだ。

ずっと年上の二世の人も僕たち少年グループの事を気にかけてくれて、バルサでグライダーの作り方を教えてくれた。だれのグライダーが一番長く飛んでいるか競争もしたし、グライダーにプロペラを付ける方法も、輪ゴムをまいてモーターにし、手をはなすと短い間飛ぶことも教えてもらった。ある日、その人は、僕たちが普通の生活がどういうことか忘れないように、近くの町に行ってみようと提案してくれた。許可をもらって、バスで12マイル離れたパウエルという町に出かけたんだけど、パウエルで一つだけ鮮明におぼえていることは、ある店のウインドウにあった「日本人お断り」の貼り紙。もうすぐ14歳に手がとどきそうな僕だったけど、はじめてのことで本当に怖かった。

同じブロックに住む男の子たちと近くの川で野宿をしたことも。食堂に行って、ソーセージとひとかたまりのパンをねだって、ちょうど監視兵のいない横のフェンスから抜け出して、ハイウエイの下の直径6フット [約1.8m] の排水渠を通り抜け、ショーション川に通ずる深い渓谷を抜け、持ってきた毛布でテントをこしらえた。近くにスイカ畑があったけど、あいにくどれが食べごろか皆目見当がつかなくて、一人の男の子がポケットナイフをつっこんで、熟れぐあいを調べはじめた。最初のはまだ甘くなかったので、甘いのが見つかるまで次々にスイカを割っていった。……まもなくして週一回発行されていたキャンプ内新聞に、収容所のスイカ畑が荒らされたとの記事が載った。今ではあのエピソードに自分も一役かったことを深く恥じていますよ、本当に。2


夢をみる、本
をよむ———盛夏

夢をみること、本をよむことで有刺鉄線の囲いも自由に飛び越せることを子どもたちは知っていたようです。ブリードさんは子どもたちがポストン強制収容所へ移った後にも本を送り続けています。マーガレット・イシノの8月4日付けの手紙です。

親愛なるブリードさん、

ときどきわたしは、自分がウエブスターやウインストン [英国の代表的な辞書] だったらいいのに、と思います。そうすれば、あなたがわたしに送ってくださった美しい本のすべてに、「ありがとうございます」以外の言葉で感謝を述べることができますから。でも、ただのマーガレット・イシノでよかったとも思います。なぜなら、あなたからこんなにたくさんの素敵な本をいただけるのですもの。

この世界に再び平和が訪れたら、三つの国に旅行したいと思います。真っ先に、「真夜中の太陽の国」アラスカに行って、エスキモーや彼らの住むイグルー [雪や氷で作るドーム型の家] を見てみたいと思います。流れをさかのぼる鮭も見てみたいです。『霧の海の子』を読んでますます行きたくなりました。

二番目にフランスを見たいと思います。なぜだかわかりませんが、フランスに親近感を覚えるのです。フランス語を習いたいとずーと思っています。わたしたちのクラスでは、それぞれがどこか一つの国を選んで期末レポートを書きました。パリを見るまでは死ねないとずっと思ってますので、わたしはフランスを選びました。

最後は日本です。おばの家の裏の小川でスイレンと小さな魚がゆらゆら泳いでいるのを見たいです。日本には春夏秋冬の四季があり、それぞれが異なっていて絵のように美しいのです。それからわたしは残りの日々を、わたしのスイートホームであるアメリカで安らかに暮らしたいと思います。

もう一度お礼を申し上げます。……神の恵みが豊かでありますように。   かしこ

マーガレット・イシノ3  

次は、エリザベス・キクチがポストンでの夏をどう過ごしたかについて話しています。父親が牧師で、立ち退き前は牧師館や教会にすんでいて自分の家を持たなかったエリザベスに、ブリードは『エリザベスのための家』という本を送っています。ブリードの父親も牧師でしたから、いつか自分の家がほしいと思うエリザベスの気持ちが痛いほどわかったのでしょう。一人一人の子どもたちに向き合って本を選んでいたのですね。

わたしたちは夢を見つづけていた子どもでした。朝四時か五時には起きていました。日が昇って暑くならないうちに3〜5マイル [約4.8~8キロメートル] ぐらい歩いて川に行き、午前中から午後いっぱいをそこで過ごし、夕方涼しくなってから戻って来ました。そこにいる間、わたしたちはよく絵を描きました。わたしたちは十代の少女で、収容所を出た後の大学の寮や、自分の家での生活を思い描きました。よく砂の上に部屋の配置図を描きました。わたしのベッドはここ、サイドテーブルもあるのよ、などと言いながら、バラックの向こうにある、より良い生活に思いを馳せていたのです。ブリードさんが『エリザベスのための家』という本を送ってくださった時、「わたしたちは自分の家に住んだことがないわね。」と母に言ったのを覚えています。わたしは牧師館や教会、それから馬小屋、そしてバラックに住んでいました。だからブリードさんからこの本をいただいた時、特別な思いがありました。ブリードさんが、わたしの本当の家に関する本を送ってくれたのだと思いました。彼女は、わたしたち一人一人に送る本について、慎重に配慮してくださったに違いありません。4  


ヒラ・リバー収容所でのジーン一家の住むバラックはキャンプの端の方にあり、すぐ裏のブロックは倉庫として使われていました。ある日、倉庫になっているバラックの一つに本が積みあげられているのを見つけたジーンと友達は、窓から中へ忍び込みます。

…… 外部の各団体から寄贈された使い古しの教科書などが、いくつもの山をつくって積まれていた。…… 手あたり次第に本の山をひっくり返した。大部分の本は「ディック・アンド・ジェイン」タイプの教科書で面白くとも何ともなく、『詩歌名作選』が唯一の収穫だった。部屋に持ち帰った本をゴローに見せると、兄も大喜びだった。二人してたくさんの詩を一緒に読んだ。兄がことのほか気に入ったのは、エドガー・アラン・ポーの『アナベル・リー』で、これを感情豊かに朗読する。続いてぼくが朗読を受け持つと、ヴァイオリンを弾く真似をしたとき同様、またもや胸をかきむしる。ヘンリー・ワズワース・ロングフェローの『村の鍛冶屋』やウォルト・ホイットマンの『おお「船長」、僕の「船長」よ』も一緒に読んだ。ぼくはこの三編の詩が気に入って、兄がいなくなってからも繰り返し愛読した。これらの詩は、遠くからぼくに何か呼びかけているようだった。5

後に大学で文学を専攻したジーンは、「数多くの詩を読んだけれども、兄と一緒にヒーラで盗んだ本から味わったような親密感は、ついぞ一度も得られなかった」と言います。有刺鉄線の囲いが高ければ高いだけ、制約が多ければ多いだけ、その中で出会った一編の詩がより深く心に響くのでしょうか。


ぶらんこの少女­­­———晩秋

寒々としたハートマウンテンのバラックを背景にして、一人でブランコをこぐ少女は、カメラを向けられて反射的に少し微笑んでいるような気がしますが、カメラマンがじゃまする前は、物思いにふけりながら一心にブランコをこいでいたのでしょう。何を思っていたのでしょうか、遠くを見つめるまなざしは何を見ていたのでしょうか。撮影は、後に二世で唯一転住局の正式な写真家になったヒカル・イワサキ6で、11月24日のことです。

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注釈: 

1. 柄のついた半球状のアイスクリームすくいで、一すくいしたアイスクリームをコーンの上にのせたもの。

2. 前掲 Colors of Confinement: Rare Kodachrome Photographs of Japanese American Incarceration in World War II

3. ジョアンヌ・オッペンハイム著、今村 亮訳「親愛なるブリードさま」柏書房 2008

4. 前掲「親愛なるブリードさま」

5. 前掲「引き裂かれたアイデンティティ———ある日系ジャーナリストの半生」

ジーンはその時の気持ちをこのように説明しています。

今日ふたたび読み返してみると、この三編の詩にぼくが魅せられたのは、それらが失恋、父の死、失意の人生をうたっていて、この絶望感に共鳴したのだということが見えてくる。中でもホイットマンの詩は、いちばん難解だったがいちばん興奮させられた。詩の主人公、「ぼくの父」でもある「ぼくの船長」は、苦難に満ちた遠征の使命を成し終えて、船の甲板に横たわり「冷たくなってこの世を去った」。ぼくは悲運の主人公に哀惜の情は感じたが、どこか心の隅に安らぎが得られた。この詩が安心感を与えることは、ぼくが父の死を望んでいるということかと、ぼくはいささか不安になった。

6. イワサキは1944年から1945年にかけて、転住局のカメラマンとして収容所を出て新しい生活を始めた人々を訪ねて写真をとり、丁寧なキャプションをつけています。一足先に収容所を出て新天地で元気に仕事をしている人々の写真が、外に出ることを躊躇している人々へのなにがしかの力になればと思っていたのです。      

 

* 子ども文庫の会による季刊誌「子どもと本」第136号(2014年2月)からの転載です。

 

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おばあさんの手紙 ~日系人強制収容所での子どもと本~

第四章 荒野の強制収容所:1942年から1946年にかけて — 後編(3)

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出立のとき

27番目と28番目の質問に「イエス、イエス」と答え忠誠と認められた人々は、入隊、または仕事、学業で早く収容所を出て、アメリカ中西部や東部の町に移るよう奨励されました。学業半ばで立ち退きにあった二世の学生を大学に戻す手助けをするために、クエーカー教徒のアメリカン・フレンズ・サービス委員会が後押しをして、全国日系アメリカ人学生転住協議会をつくり、すぐに仕事にとりかかり、4,000人以上の学生を軍事制限地区以外にある6,000以上の大学へ送る手助けをしています。クエーカー教徒は、新しい都市に来た日系人の一時的な宿を提供するホステルも用意しました。トパーズのヨシコ・ウチダ、ミニドカのルイーズ・ツボイとシロー・カシノにも、それぞれ出立のときが来ました。


ヨシコ・ウチダ
———

私は全国日系アメリカ人学生転住協議会(ここの職員はすでに友だちのように思われた)にあてて何十通も手紙を書き、数え切れないくらいの書類に必要事項を記入し、たとえスミスカレッジへの奨学金が現実のものとならなかったとしても、必ずどこかに行くのだと決意した。姉も、自分の専門の仕事で空きがみつかることを願って、おびただしい申し込み用紙に記入をしていた。1

まずヨシコの姉、ケイコにマサチューセッツ州にあるマウント・ホリヨーク・カレッジの教育学部が運営する保育園で助手として働いて欲しいという、知らせが届きます。すぐに、ヨシコにもマサチューセッツ州のスミス・カレッジから奨学金付きの入学許可が届きました。5月24日、待ちに待った転住局からの出所許可書もおり、二人は長かった収容所生活に別れを告げます。

姉と私にとって、寒い暗い冬が終り、今、ようやく、春の手の中にいた。私たちのながかった荒野の捕囚も終わった。私たちは、ついに、一年以上も断ち切られていたあの世界へ戻る道をたどっていたのである。2


ルイーズ・ツボイ———初夏

ルイーズはすでに高校を卒業していたので、アメリカに忠誠だと判断されるや否や、母親はルイーズにシカゴの4年制の大学で勉強するように勧めました。子どもたちにいい教育を受けさせたい、これがルイーズのお母さんの夢でした。ルイーズは六人兄弟の3番目。一番上の姉はニューヨークのジュリアード音楽院でピアノを、その下の兄はカリフォルニアで航空工学を勉強しています。お母さんの次の目標がルイーズでした。

シカゴ行きをすすめるだけでなく、初めて一人旅をする17歳のルイーズの不安をやわらげたいと考えていたお母さんは、仕事場の病院で、ある二世の看護婦さんと彼女のボーイフレンドの医師希望の若者が、収容所を出て学校に行くということを耳にすると、途中までルイーズも一緒に連れて行ってくれるよう二人に頼みます。三人は汽車に乗り込み、カンザスシティで一泊し、また汽車に乗り込みセントルイスまで。ここで三人はそれぞれの道をいくことになります。看護婦さんはセントルイスの看護学校に、若者はフィラデルフィアの医科大学に、ルイーズはシカゴではじめての自活生活。出発前、立ち退きの際に店を売ったお金だったのでしょう、お母さんは2,000ドルの小切手を、ルイーズの肌着に安全ピンでとめることも忘れませんでした。6月のことです。

当時ルイーズは、鉄条網の囲いを出た喜びよりも、知らない街で学校や住む所を自分で決めなくてはいけない不安の方が大きかったと言います。シカゴについたルイーズは一旦クエーカー教徒の運営する、アメリカン・フレンズ・ホステルに落ち着き、学校探しを始めました。いま両親がおかれている状況では資金がいつまで続くかわからないこともあって、4年制大学よりも1年間の専門学校に行くことにしました。最初にグレッグ速記学校に願書を出しましたが、日系人ということで断られ、シカゴ・コマーシャル・カレッジという、先生一人に生徒一人のような小さな学校に決めました。小さいからこそ、とてもいい教育が受けられたと言います。3


シロー・カシノ———初秋

一方、ルイーズのボーイフレンドのシローは、ミニドカで陸軍からの連絡を待っていました。すでに志願していたのです。ルイーズがシカゴに発って2、3ヶ月した頃、シローにも軍隊から決定通知書が届き、9月、訓練のためミシシッピー州のキャンプ・シェルビーに向かいました。4


子どもにとっての忠誠心問題

ヒラ・リバーのジーン・オオイシ一家も兄のヨシローとゴローは軍隊に入り、アメリカ生まれで日本で教育をうけた、帰米二世の長男ニマシは忠誠心問題でキャンプ中大もめになっていた時、親日強硬派として逮捕された後、アリゾナ州のポストン収容所に移されています。姉婿も帰米二世で、ニマシと共に逮捕され、ポストン収容所に転住させられていたため、姉のヒロコは子どもを連れて、姉婿のいるポストンへ。ホシコはミネソタの大学に。ジーンはこう言っています。

ぼくは収容所内を荒れ狂っていた政治論争については、だいたいのところ分かっていた。けれども口出しはしなかった。子供はみんなそうだった。もちろん兄や姉など年上の者が、戦争について、強制収容について、政府の日系人への態度について、論争をたたかわせていることは知っていた。……

ぼくにとって忠誠心問題は病気と同じで、ぼくの家族に襲いかかっては、次々とその数を減らしていった。…… ぼくの家族はちりぢりになり、崩壊したといってもよい。いずれにせよ、その根底にあったのは忠誠心の問題だったが、ぼくは長らく原因と結果を別に扱い、関連づけるのを避けてきた。深入りしたくなかった。5

第四章(4)>>


注釈:

1. ヨシコ・ウチダ著、波多野和夫訳「荒野に追われた人々−−−戦時下日系米人家族の記録」岩波書店 1985

2. 前掲「荒野に追われた人々−−−戦時下日系米人家族の記録」

3. Louise Tsuboi Kashino, interview by Yuri Brockett, Jenny Hones and Hitomi Takagi, August 22, 2013 at Bellevue, Washington.

ルイーズのお父さん、カキチ・ツボイは小豆島出身。『二十四の瞳』の著者、壷井栄はおばさんにあたります。子どものころからアメリカで生活するのが夢で、船員としてアメリカに行き、そこで船から飛び降りる計画をたてました。一回目は失敗し、二回目に夜の闇にまぎれて船からロープを伝わって身をきられるように冷たい2月の海におり、泳いでシアトルに上陸。1913年のことです。その後、色々な仕事をし、5年後にはお嫁さんを探しに日本に一時帰国。おじさんの紹介で結婚することになったタミエもやはり小豆島出身。この時は合法的にアメリカに入国しています。二人は苦労のすえ、立ち退き前にはシアトル市内に二つのグローサリー・ストアを経営するまでになっていました。

4. Louise Tsuboi Kashino, interview by Yuri Brockett, Jenny Hones and Hitomi Takagi, August 22, 2013 at Bellevue, Washington.

5. 前掲「引き裂かれたアイデンティティ−−−ある日系ジャーナリストの半生」

 

* 子ども文庫の会による季刊誌「子どもと本」第136号(2014年2月)からの転載です。

 

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