Yuri Brockett

東京での大使館勤務後、夫の大学院留学のため、家族で渡米。ニューヨークでは子育ての傍ら大学で日本語を教え、その後移ったシアトルではデザインの勉強。建築事務所勤務を経て現在に至る。子どもの本、建築、かご、文房具、台所用品、旅、手仕事、時をへて良くなるもの・おいしくなるもの…の世界に惹かれる。ワシントン州ベルビュー市在住。

2015年2月 更新

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おばあさんの手紙 ~日系人強制収容所での子どもと本~

第五章 戦後の新たな出発:1945年以降(6)

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4. 子どもにとっての痛み

収容体験が子どもにあたえた影響は、一人一人異なりますが、年齢、それまでの生活環境、サポートグループの有無、親の精神的安定度等によって大きく違ってくるようです。日系アメリカ人であることだけで、収容所にいれられたわけですから、日系であることを恥じたり、日系であることに罪の意識をもつことになりました。

しかし、幼少期を収容所で過ごした多くの人は「楽しかった」、「一日中野球をしていて楽しかった」と言います。親が子どもを守ってくれていましたし、子どもは、愛してくれる人がいれば、どんな所でも逞しく生きて行ける力をもっているようです。ベーコンも、「僕らのようなティーンエージャーにとって、収容所の生活は楽しかった。周りは日本人ばかりで、友達はたくさん出来たから。収容所に入る前は農場にいたので、家と家ははなれていて、野球をしようにもすぐに仲間が集まれる環境ではなかったけど、ハートマウンテンではすぐに野球もできたし、フットボールも、ハイキングだってすることができた。お金や物はなくても、いろんな遊びができて、すごく楽しかった。……でも、収容所での生活が子どもにとって良かったと言っているのではなく、ただ不当に行われた状況を受け入れ、その状況を最大限に生かしたということです」と。1

その一方、いまだにその時のことを話すことをためらう人もいます。一世の親から「男は泣くな」と育てられたので、泣きたくても泣けないという人にも会いました。どの方に伺っても、最後は親にたいする感謝の言葉で終わります。子どもにとっての一番の痛みは、親世代の経験した苦難なのかも知れません。いまも苦しんでいる人々に一日も早く穏やかな日々が訪れることを祈っています。


5. 未来につなげる試み  

戦時中、日系人におこったことは、だれの上にも簡単に起こりうることです。9・11直後、アメリカはまた同じ過ちをくりかえす寸前までいきました。とどまらせたのは、ハートマウンテンで子ども時代を過ごした当時の運輸長官ノーマン・ミネタの存在でした。ミネタはアラブ系アメリカ人やイスラム教徒にたいする人種差別を非難し、彼らを隔離しようとする圧力を拒否したのです。

「アメリカ合衆国は、建国以来、ある一部の人々に対しては平等の精神で接して来たが、万人に対しての平等が目標だ。この理想を達成するためには、少なくとも他者に対するある程度の理解が必要だ。私たちは、国家として、偏見や先入観で行動を起こさないように気をつけなければならない。この半世紀で、平等への扉は開いてはきたが、すべての人に平等な待遇への道は遠い。でも、達成可能であることを願う。戦争中、日系アメリカ人が被った排除や強制収容がなぜ起こったのかを知るだけでなく、こんなひどい政策が、どのように進められていったのかを知ることが大切だ。このプロセスを理解するためには、国がこれほど大規模に正義を踏みにじる計画にのりだしていった道筋への洞察力が必要。これをすべてのアメリカ市民に理解してもらうことだけが、このような不正義が他のアメリカ市民の上に再び起こらないことを確実にする」とカシマは著書Judgment without Trialで述べています。2

日系人に起こったアメリカンストーリーを明日につなげる試みを2、3ご案内します。


ブリードさんへの手紙———全米日系人博物館

1988年、長年住み慣れた自宅を処分して、老人ホームへ移る準備をしていた82歳になったブリードは、大切にしまっていた箱を見付けます。箱の中は、本をおくることで子どもたちを励まし続けた、ブリードのもとに届いた子どもたちからの感謝の手紙でした。懐かしくて、思わずそこに座こんで、子どもたちの顔を一人一人思い浮かべていました。しかし収納場所がわずかしかないホームに持ってはいけません。ブリードは「ブリードさんの子どもたち」の一人エリザベスに託すことにしました。一旦、引き受けたエリザベスは、ロサンゼルスにある全米日系人博物館に寄附し、ボランティアの手で一枚ずつデジタル化された子どもたちからの手紙は、コンピューターをつかえば、世界中のどこからでも見ることができるようになりました。3


Densho(伝承)

少し前に、ピーター・アイロンズが、ゴードン・ヒラバヤシの最高裁での判決を左右する重要な資料を、司法省が隠蔽していた事実を発見したと書きましたが、どのようにして見付けたのか、その時どう感じたのかをアイロンズ教授自らが話しているインタビューがDenshoにあります。歴史の本で読んだことが、すぐに、その場で、実際にご本人の顔を見ながら直接話を聞ける、世界中どこにいても。こんなことができるのもDenshoならではです。

Denshoは、ウエブサイトにある資料やインタビューの充実と検索の簡易化を計る一方、子どもに接する先生方へのワークショップにも力を入れています。この2年間で、アメリカ各地のみならず日本、カナダ、イギリスでもワークショップをおこなっていますので、日本でもどなたか参加された方もいらっしゃるでしょうね。4

面白いのは、提供された写真や資料はデジタル化して、Denshoのオンライン上で記録保管し、現物は提供者にお返しするというシステムです。手で触れられる展示物を持たない新しい試みの博物館です。


CyArk

今回の写真は、マンザナー強制収容所の跡地に立って、デジタル技術で忠実に再現したバラックを画面にいれた、マンザナー強制収容所のイメージをiPadで見ているところです。国立マンザナー強制収容所跡地のバーチャルツワーの潜在的な可能性を示すためにCyArkが作成したものです。

2001年にアフガニスタンでおきたタリバンによるバーミヤンの大仏の破壊に端を発し、他の世界的文化遺産が「自然災害で消え去る前に、人間の侵略攻撃で破壊される前に、時の経過で荒廃する前に、新しいテクノロジィを駆使して無料の、3Dオンラインライブラリーを作ろう」とたちあがったのが、CyArkで、国際的な非営利団体として2003年に設立されました。そのような場所を世界中の人と分かち合い、人類共同の遺産の一つ一つユニークな物語を、新しく魅力のある方法で紡いでいきたいと。

日系人収容所プロジェクトは、アメリカの歴史上の暗かった時代を一般の方に理解してもらって、法にさだめられている人権が二度と踏みにじられることのないように願っておこなわれたもので、マンザナー、トパーズ、ツールレイクが完成しています。5


エピローグ

今、この連載を終わるにあたって思うのは、一世、二世の高潔で強靭な精神と、それぞれの環境で各自が考えて出来ることを行動にうつした個人の力です。本を送ることで子どもたちを励まし続けたクララ・ブリード、辞めたいという新米レポーターに辞めるなと手紙を書いたウォルト・ウッドワード、サラミと学校を運びつづけた先生姉妹、ぬかるみに困っている同胞に下駄を作り続けたおじいさん、ヘンリーたちに自由に自分の将来の環境を想像してみる課題を与えたミセス・ポーラック、何もない所から図書室をつくった人々……そんな人々が心に残ります。子どもの側にこういう人がいたことが、子どもにとってどんなに救いであったか。

やわらかい春の光のさす日、ウイングルーク博物館の図書室にミニドカから返ってきた本があるというので、出かけてみました。そこで新聞を読んでいた時、半世紀前にポートランドの「集合所」で受けた図書のサービスに感謝して、マルトノマハ・カウンティ図書館財団に匿名で1万ドル(100万円)の寄付を寄せた80歳の日系女性の言葉を見つけた時に、ふっとわたくしが探し求めていたおばあさんに出会えたような気がしました。

日本人や日系人に対してひどい嫌悪がみちみちていた頃でしたから、キャンプに本を届けるのは容易なことではなかったはずです。でも、本と本を届け続けてくれたあの思慮深い図書館員のお陰で難しい時を乗り越える事ができました。6

(終)

注釈:

1. Sakatani, Harumi Bacon, personal communication, March 10, 2014.

2. Kashima, Tetsuden. Judgment without Trial: Japanese American Imprisonment during World War II. Seattle: University of Washington Press, 2003.

3. ジョアンヌ・オッペンハイム著、今村亮訳「親愛なるブリードさま」柏書房 2008

4. Tom Ikeda, personal communication, March 11, 2014. Densho.
Densho e・news, March 2014.

5. Devon Haynes, personal communication, March 12, 2014.  CyArk.

6. Rubenstein, Sura. (1998, January 26). Gift thanks county library for war …

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おばあさんの手紙 ~日系人強制収容所での子どもと本~

第五章 戦後の新たな出発:1945年以降(5)

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公聴会———1981

7月から12月にかけてアメリカ各地で開催された公聴会が、シアトルにやって来た時のことです。その頃、マコ・ナカガワの父親は、自らの米寿の祝いに誰を招待するかで頭が一杯だったのですが、この公聴会で証言することは大事なことだと考えて、娘と一緒に参加しました。

父は耳が遠くなっていたので、二人で合図を決めました。ポン、ポン、ポンと父の肩を軽く3回叩くと、「始めて、お父さん。何でも好きな事を話していいよ」という意味です。「お父さんが話おえたら、私がそれを英語に直してから、お父さんの証言を読むからね。分かった?」父は「よし、分かった」と言ってから、椅子に腰掛けました。会場のみんなが落ち着くまで少し待って、父の口元にマイクを近づけて、ポン、ポン、ポンの合図を送りました。すると父は急に「もう、初めていいのかな」と、凄い大きな声でいったものだから、会場から思わず笑いがあがりました。

「来年で88になります。」と父は語り始めました。聞いている委員たちに八十八の意味がつたわるかどうか気になったけど、そんなことにはおかまいなしで「八人の孫に恵まれた」とか「アメリカには一九一三年に参りました」というようなことをあれこれ話し、父からマイクを受け取った私がそれを英語に直し、続いて父の証言を読みました。途中で、のどが締め付けられるように感じたところがあったけど、何とか大任を終えました。1

すぐ後に証言をしたおじいさんの手が小刻みに震えているのを見てとったマコは、「私以上に緊張している人もいるんだな」と思っていました。おじいさんは日本語で話はじめました。収容所のなかで娘さんが病気になり、収容所のなかの診療所では手に負えないので、外の病院に移された時のことです。病院からすぐに家族に来て欲しいという要請があり、という所まで聞いて、マコは、多分出所許可が取れなかったのだろうと察し、「もうこれ以上おじいさんの話は聞けない、感情が高まっている今、こんな悲しい話を冷静に聞く事は出来ない。とくに今、演壇に座っていて、こんなに多くの人の前で泣く訳にはいかない」と思っていました。すると、おじいさんが、「病院に行く許可はおりました」と静かに続けたので、マコはほっとしました。でも、おじいさんは捕虜として司法省管轄の抑留所にいたので、外に出るには護衛がいり、その護衛を雇う費用が必要でした。おじいさんは淡々と続けました。「お金がありませんでした。私は行きませんでした。娘は死にました」と。もうだれに構うことなく、マコは目から涙があふれるままにしていました。2

一世、二世が体験談を話すのを目の当たりにし「公聴会によって、彼らの勇気や強さに一層敬服するようになったんです。つまり何十年もの歳月の後、公の場に進み出て、これは過ちであったと訴えるその勇気と強さに」と多くの若い二世、三世も日系人であることに誇りをもつことに。シアトルで証言した人は150人に及びましたが、その中の一人は証言することで精神的に自由になれたと語ります。

(公聴会で)証言した時まではですね、自分の人種や文化的背景にコンプレックスを感じていたんです……。でも証言した後、そのコンプレックスは心の中から掃き出され、新しく生まれ変わったように感じましてね。再び生きるすばらしさを感じたんです。いままでの重荷が肩からすーっとおりて、心の中が空っぽになるのを感じたんです。四十年近くの精神的重圧の後、偏見、差別、収容、汚名や苦悩が体の外へと出て行ったんですよ。それで心が洗われたような気分になったんです。3


アメリカンケース———1987

1942年春の夜、ワシントン大学のスザロ図書館でいつものように仲間と勉強していたゴードン・ヒラバヤシ(本シリーズ第三章)に仲間が「おい、もう5分前だぞ」と声をかけました。夜8時から朝6時までの日系人夜間外出禁止令がひかれていたのです。それを聞いてあわてて机の上にひろげたノートや鉛筆を拾い集め、宿舎にしていた大学の側にあるYMCAめがけて駆け出したゴードンでしたが、はたと「何してるんだ、僕は。アメリカ市民である僕が、この夜間外出禁止令に従わなくてはいけない根拠はないはずだ」と気付いて、図書館に戻り、仲間と一緒に勉強を続けました。夜間外出禁止令だけでなく強制立ち退きの登録をも拒否したゴードンは、その理由を綴った書状をもって、5月、シアトルの日系人がすべて仮収容所行きのバスに乗り込むのを手伝った後に、自らFBI事務所に出向き、逮捕されました。「アメリカ市民として、憲法にある主義を守りたかった。夜間外出禁止令も強制立ち退き令も、一つの民族に対してのみ行われていることは、憲法の主義とは相反するものだ。白人社会で、二級市民扱いされることは受け入れられない」と。4

ゴードンは、1943年最高裁判所までいった裁判で有罪になっていますが、それから約40年して、一本の電話を受けます。カリフォルニア大学サンディエゴ校のピーター・アイロンズ教授からで、ゴードンの最高裁での判決に重要な証拠となるべき陸軍省の資料を、司法省が隠蔽していた。その資料が見つかったが、もう一度裁判をする気はあるか?との問にゴードンは、「この電話を40年間、待っていました」と答えています。「この訴訟は、僕だけのものではなく、日系人だけのものでもない。アメリカ人すべての基本的人権にかかわるアメリカンケース(全てのアメリカ人のための問題)だ」とも。

1987年の再審で有罪判決は覆され、2012年には市民に与えられる最高の「大統領自由勲章」が戦時下の勇気ある行動に対しておくられました。今年のシアトルでの「追憶の日」では、ゴードン・ヒラバヤシにゆかりのある方々を招いてのシンポジュウムが行われ、たまたま会場の入り口でプログラムを配っていたわたくしは、杖をついたヘンリー・ミヤタケの姿を目にしました。あまり急なことで、ご挨拶もままならなかったのですが、感謝の気持ちが伝わっていればと思います。5

続く >>

注釈:

1. Mako Nakagawa, interview by Lori Hoshino, May 27, 1998, Densho Visual History Collection, Densho.

2. Mako Nakagawa, interview by Lori Hoshino, May 27, 1998, Densho Visual History Collection, Densho.

3. 前掲「日系アメリカ人のエスニシティ———強制収容と補償運動による変遷」

4. Courage in Action: the Life and Legacy of Gordon K. Hirabayashi, Gordon Hirabayashi Symposium, February 22, 2014 at Kane Hall, University of Washington, commemorate 2014 Day of Remembrance.

5. 同じ理由で、フレッド・コレマツとミン・ヤスイの有罪判決も再審で無罪になっています。

 

* 子ども文庫の会による季刊誌「子どもと本」第137号(2014年4月)からの転載です。

 

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おばあさんの手紙 ~日系人強制収容所での子どもと本~

第五章 戦後の新たな出発:1945年以降(4)

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3. 沈黙をやぶって———賠償運動   <1970年代から1980年代 >

60年代のアフリカ系アメリカ人の公民権運動とマイノリティ(少数派民族)運動に力を得た日系の若い二世、三世も、大学にアジア研究学部を創設し、アジア系や女性の教官を増やすようにと声をあげはじめます。トパーズ収容所では赤ちゃんだったカシマも、この頃にはゴードン・ヒラバヤシの弟のジムとデモの先頭に立っていたと言います。ある三世の言葉です。

黒人運動がなかったら我々もなかったでしょう。確かにそれを境に、自分が何者なのかわかるようになり、誇りに思い始めたのです。また政治的に戦闘的とさえ言っていいくらいとても攻撃的になり、我々が何なのか、我々は今や立ち上がり、もうこれ以上は許さないということを主張しようとしていたんです。1

この目覚めが、日系社会におこったことをこれ以上黙認してはいられない、収容体験者が苦しんでいる罪や恥の意識を取り去るためにも賠償運動が必要だと、二世、三世を突き動かしたのです。「[賠償運動]は、おとなしい[日系アメリカ人]というステレオタイプの拒絶で、不正があればそれを認識し正す、新たな[日系アメリカ人]の誕生を象徴するものです」2

1970年「戦時中の日系人に対する収容、抑留、公民権及び憲法上の権利の否定に対し」政府の謝罪と賠償を求めることをJACL全国大会で決議。それを受けてシアトルのJACLはこの件を調査するボランティアを募り、数人のボランティアの中に、ヘンリー・ミヤタケ(本シリーズ第一章、第二章、第三章、第四章)がいました。ヘンリーはそれまでにも賠償にむけてワシントン大学法学部の図書館で数々の判例を調べていたのです。ヘンリーたちは「シアトル強制立ち退き賠償委員会」を設立。賠償金は日系コミュニティへの信託資金として受け取り、コミュニティセンター、博物館設立のために使おうとするエディソン・ウノ案と「それでは田舎にすむ一世には何のメリットもない。個人別賠償にすべきだ」とするヘンリーのシアトル案との調整と、「いまさら波風をたてなくても」とする日系コミュニティと、「金銭的賠償は日系アメリカ人兵士の犠牲を安っぽいものにすることになり、反日感情を再び刺激する事にもなりかねない」とするJACL幹部の合意をとるために、地道な話し合いが続きました。

一般市民に戦時中日系社会におこったことを知らせることも必要でした。メディアを通して、アメリカの暗い過去を知ったアメリカ市民の多くも、憤りを感じることになり、体験者の中からも、インタビューを受けたり、自伝を書いたりする人がでてきたのがこの頃です。

ようやく本格的に賠償運動に取り組むべく、1980年7月には、連邦議会に任命された「戦時転住及び抑留に関する委員会」が発足します。委員会は、1年半かけて強制立ち退き、強制収容に関するあらゆる資料を洗い直し、政府と米国陸軍の司令について再検討する一方、アラスカを含めたアメリカ各地で直接体験者の話を聞く公聴会を催しました。公聴会では、500人以上の体験者が、今まで家族にも伏せて来たことをはじめて話したのです。じかに聞く体験者の重い証言は、委員会のメンバーだけでなく、新聞やテレビで一般家庭にも届けられ、多くの人の心をうごかすことになりました。1983年、委員会は、調査結果を報告書Personal Justice Deniedにまとめ、強制収容がおこなわれたのは、軍事的必要性ではなく、人種偏見、戦時下のヒステリー現象3、政治のリーダーシップの欠如だったとし、4ヶ月後には、政府に公式謝罪、個人別賠償、啓蒙活動の支援を含めた救済案を勧告しました。

これで一安心ですが、休むわけには行きません。再び下院議員のノーマン・ミネタとロバート・マツイ、上院議員のダニエル・イノウエとスパーク・マツナガの協力を得て、多くの賠償運動家がワシントンD.C.に度々かよい、議員一人一人を説得してまわりました。まさに草の根運動でした。アメリカ憲法発布200年にあたる、1987年9月17日、下院で賠償法案が通過。1988年4月20日に上院でも可決。1988年、8月10日、レーガン大統領がCivil Liberties Act of 1988(市民の自由法)に署名。生存中の収容所体験者の中で一番年長の方々に公式謝罪と一人、2万ドルの賠償金が手渡されたのは、さらに2年後の1990年10月でした。残念ながら、エスターには間に合いませんでした。

公式謝罪と賠償は、一世、二世が受けた傷を癒し、失った自信を取り戻すことにつながりましたが、その前に、日系人が押し黙っていた体験を、自分の言葉で話すことが必要でした。ようやく声をあげるきっかけとなった第一回追想の日のことと、公聴会のようすと賠償運動にも弾みをつけたゴードン・ヒラバヤシの再審の話をお届けします。


第一回追憶の日———1978

難航する賠償運動にやきもきしている頃、「シアトル強制立ち退き賠償委員会」に二人の若者がやってきました。中国系劇作家のフランク・チンと若い三世フランク・アベ4です。フランク・チンのアイディアで計画されたのが1978年の「追憶の日」。36年前の強制立ち退きを追体験してみようとの試みでした。日系コミュニティへのお知らせは、強制立ち退きの告知のように電信柱に貼られ、36年前と同じように、シアトルからピュアラップまでバスや車を連ねて行こうというものです。実行委員の一人はこう語ります。

それを企画した時、一体何人やって来るだろうって話してたんだよ、実は。もし100人でも集まればいい方だろってね。スタジアムに行って車の列を見た時、「これは———何て素晴らしいんだろう!」と思った。「こいつら、やっとその気になったんだ!」と。目の前の大きな群衆を信じることが出来なくてね。それは本当に目を見張るばかりの出来事だった。5

ピュアラップに着くと、一人一人家族の番号札をつけて有刺鉄線の囲いの中に。この日のためにこしらえたバラックの部屋で、実際につかわれていた生活用品の展示、政治家や体験者のスビーチ、持ち寄りのポットラックランチ、タレントショーまであり、収容経験のない三世や四世から質問を受けて、ぼつぼつと話し始める体験者の姿も見られました。

多くの人が泣いていて、感動で胸が一杯になったんでしょうねえ。しかし、僕の経験は恐らく他の人とは随分違ったものだったと思いますよ。僕はとても力強く、僕たちみんながそこにいることをとても嬉しくおもったんです……。あの行事によって、もっとあんなことが公になるように、人々に体験について語ってもらうために、もっと多くのことを知るために、人々と力を合わせてやっていきたいという動機が決定的に芽生えてね。それはある種のカタルシスのようなものだったんです。追憶の日が人々に語ることを許したんです……。だからコミュニティとして、僕たちに———それはとても精神療法的な役割を果たしたんです。6

第五章(5) >>

注釈: 

1. 竹沢泰子著、「日系アメリカ人のエスニシティ———強制収容と補償運動による変遷」東京大学出版会 1994

2. Sandler, W. Martin. Imprisoned: The Betrayal of Japanese Americans During World War II. New York: Bloomsbury Publishing Inc., 2013.

3. カシマは、「戦時下のヒステリー現象」が直接強制立ち退き、強制収容に結びつくとは考えにくいとの立場をとっています。理由は、ヒステリーがおこったのは真珠湾攻撃後のことで、主に西海岸のみの現象だが、強制立ち退き、強制収容を決めたのはワシントンD.C.で、ワシントンD.C.では、開戦前から日系人の強制収容の計画が練られていた。これについては、これからも新しい資料が出てくる可能性があるとします。

4. フランクは徴兵拒否をした人々をテーマにしたドキュメンタリー映画を撮っています。Abe, Frank. (Director/Producer) (2011). Conscience and the Constitution: They fought on their own battlefield [Documentary Film]. Resisters.com Production.

5. 前掲「日系アメリカ人のエスニシティ———強制収容と補償運動による変遷」
実際には参加者は2,000人に及びました。

6. 前掲「日系アメリカ人のエスニシティ———強制収容と補償運動による変遷」

 

* 子ども文庫の会による季刊誌「子どもと本」第137号(2014年4月)からの転載です。

 

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おばあさんの手紙 ~日系人強制収容所での子どもと本~

第五章 戦後の新たな出発:1945年以降(3)

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2. 閉じた記憶をひもとき始めて <1960年後半から>

『マンザナールよ さらば』———ジャンヌ・ワカツキ

「ねぇ、おばさん、僕マンザナーってところで産まれたんだけど、どんなところだったの?」と、唐突に甥っ子に聞かれたの。実家の家族以外の者から聞いたはじめての「マンザナー」だった。そこでキャンプのこと、すごい砂嵐、まずい食事、どんな遊びをしてたか……を話していると、「おばさんたら刑務所にいれられたのに、何でもなかったように話して。強制収容されたことは、どう感じているの?」と。甥っ子にどう感じているのかと聞かれて、あれ以来抑えていた気持ちを、初めて感じることを自分にゆるした途端に、色々な思いがこみあげてきて、わっと泣き出してしまったの。1

この時大学で創造的作文法を教えていたご主人のジェイムス・ヒューストンに、「ジム、家族のために回顧録を書こうと思っているんだけど……」と相談すると、「え、なんの回顧録?」と。「すでに結婚して14、5年たっていたのに、あ、まだあのことは主人にも話していなかったんだ」とその時気づいたそうです。「それは家族のためだけじゃなくて、アメリカ人みんなが読むべき話だ。手伝うよ」とのジェイムスの励ましでうまれたのが『マンザナールよ さらば』です。1973年のことです。


『荒野に追われた人々』———ヨシコ・ウチダ

私はいつも子供たちに、なぜ、私が日系アメリカ人の戦時中の体験を述べた『トパーズへの旅』と『故郷に帰る』を書いたと思うかと尋ねることにしている。「収容所のことを知らせるためでしょう?」「自分がどんなふうに感じたか話すためじゃなくて? 日系の人たちに何が起こったのかを知らせようとしているんでしょう?」と、子供たちも尋ねてくる。

「そうなのよ」と答えるが、子供たちの一人が次のように言うまで話し合いをやめない。「これらの本を書いたのは、もう二度とこんなことが起きないようにということなんでしょう?」と。2


『引き裂かれたアイデンティティ』———ジーン・オオイシ

1941年12月7日、真珠湾に向って落とされた爆弾は、一連の事件を引き起こし、それがぼくから、ぼくの過去を、ぼくの両親、家族、そして子供らしさを奪ってしまった。ぼくから切り離された子供の部分は、ぼくの本質的な部分である。ぼくはその子供にヒロシという名をつけ、何とか彼を探し出そうと、これまで小説やノンフィクションの中で彼のことを書いてきたのだが、いつもするりと身をかわされる。

ヒロシのことを書き始めたのは1965年ごろで、第二次大戦によってぼくが真っ二つにされたのではないかと感じたからだった。アメリカ人としての半分は生き残り、日本人としての半分は衰弱し、やがて死んだと思っていた。ヒロシというのは、双方が一体化していた子供のころの最後のイメージだ。… ぼくの願いは、彼を自分の中に見ることなのだ… 3


『月のうさぎ』———エミ・オオモリ

どうして私が子供をうまなかったのか?

いままでは一人の人と安定した関係を続けられなかったからとか、お金がなかったからだと思っていた。

しかし、子供を産む年齢を過ぎた今となっては、もう一つの答えが浮かびあがってくる。

私のように、私の生んだ子どもはアメリカ人だ。

欲しくもない敵国の人種の身体に捕われたアメリカ人だ。

ただ顔かたちがちがうというだけで、わたしが受けた差別を受けないように、我が子がもう少し白い皮膚であってくれたらと願う、こんな気持ちを自分の子どもから隠し通せただろうか。4

エミ・オオモリが監督を務めたドキュメンタリー映画の冒頭です。オオモリは収容所に入れられた時、1歳でした。その位の年だった多くの子どもたちは「楽しかった」と語り監禁生活の影響は余りないようですが、エミの場合は違います。母親の死が大きく関わっているようです。

姉のチズはこう語ります。

うちの家族になにが起こったか、知っていますか?母は収容所をでて1年後、34歳で、突然、潰瘍出血で死んだのです。その時に、私たちの中で、すべての収容所の章の扉がとじられ、何年もそれを開くことができませんでした。なんだか母の死が、いままで受けたすべての惨い出来事に通じているような気がして。母は私たちのもとからいなくなった。母のこと、収容所のことに関しては一切話さないと心に決め、実際そうしてきました。父は、家の中に母のための仏壇を整えることも、写真をかざることもしなかった。母は消えた。母は火葬にされ、違灰は小さな壷に入れられた。私たち家族は母の骨壺とともに、収容所での思い出を意識の深淵にうめこんだ。あれから50年たち、母の骨壺はいくえがわからなくなった。5

第五章(4) >>

注釈:

1. http://www.calhum.org/experiences/interview-with-jeanne-wakatsuki-houston

2. ヨシコ・ウチダ著、波多野和夫訳「荒野に追われた人々—戦時下日系米人家族の記録」岩波書店 1985

3. ジーン・オオイシ著、染谷清一郎役「引き裂かれたアイデンティティ———ある日系ジャーナリストの半生」岩波書店 1989

4. Omori, Emi. (Director/Producer). (1999). Rabbit in the Moon [Documentary Film]. Wabi-Sabi Production.

5. Omori, Emi. (Director/Producer). (1999). Rabbit in the Moon [Documentary Film]. Wabi-Sabi Production.
母親の死が収容所生活のストレスに起因しているのは理解できても、父親の反応はどうにも理解しがたいものでした。しかし、カシマ教授の「収容所でなにかあったのかもしれない」との指摘で、そう考えれば父親のしたことにも少しは納得がいくような気がします。もう一つ興味深いのはエミとチズの見た、収容所経験を挟んでの、日系社会と父親の変化です。「姉のチズとは10歳しか離れていないのに、歴史は私たちを一生涯離れているように引き離した。戦争前の日系コミュニティは、戦後の私の知っているコミュニティではない。私の育ったコミュニティはばらばらで、刺々しくて、父は、もの静かで近寄りがたかった。戦前姉を育てた父は、生き生きとしていて、夢と希望に満ちていた。」

 

* 子ども文庫の会による季刊誌「子どもと本」第137号(2014年4月)からの転載です。

 

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おばあさんの手紙 ~日系人強制収容所での子どもと本~

第五章 戦後の新たな出発:1945年以降(2)

第五章(1)を読む >>

もう一つの戦い 

数々の手柄をたてたシロー・カシノたち第100歩兵大隊1を含む第442連隊戦闘部隊を前にして、1946年7月15日、トルーマン大統領は、ホワイトハウスの庭で「諸君は敵と戦っただけでなく、人種差別とも戦かった。そして勝ったのだ」と語りました。第442連隊戦闘部隊はその活動期間と規模からして、アメリカ陸軍史上でもっとも多くの勲章を受けた部隊です。

しかし、これだけの活躍をして帰って来た第442連隊戦闘部隊の兵士たちにたいしても、一般市民が彼らの活躍を正当に認めるには長い時間がかかっています。本土に帰還した当時、ダニエル・イノウエがサンフランシスコでハワイに戻る前に散髪でもと店に入ろうとすると、軍服を着ていたのにもかかわらず、「日本人だろう。日本人の髪は切らないんだ」と言われています。1959年ハワイから下院議員に選出されたダニエル・イノウエ議員が星条旗に向って左手をあげて忠誠の誓いをしている新聞の写真を見て、読者からの「どうしてあの議員は右手をあげて宣誓しないのか」との抗議の手紙をうけて、編集者は「イノウエ議員はイタリアで戦った際に右手を失ってしまったのです」と説明しています。

シローたちがシアトルにもどってきた時にも、アメリカの復員軍人会、陸軍軍人会に入会しようとしても、すべて拒否されています。そこで立ち上がったのが剣道クラブ。立ち退き前は道場だった建物を1,000ドル(約10万円)という破格の安値で兵士たちに譲りました。これで戦地に行っていた兵士たちが同じ経験をしたもの同士にしか分かり合えない思いを語る場所ができました。そういう場があったことで、兵士たちの極度の精神的外傷が和らげられたと言います。日本語学校から歩いて行ける距離にあるこの建物は現在もNVC(二世復員軍人)記念会館として、コミュニティの集まりや講演会に使われています。シローの数々の勲章もここに収められていますし、戦後シローと結婚したルイーズ・ツボイ・カシノは80歳を越えたいまでもこの会館の婦人部で活躍しています。2

一方、日系社会のなかでの差別に苦しんでいる人々がいました。徴兵拒否をした若者とその家族は、日系社会から村八分にされ、肩身の狭い思いをしています。徴兵拒否をしたジム・アクツの母親はシアトルに戻ってきたものの、行く先々で「おくびょうものの息子」との声をあびせられ、いままで親しくしていた人々も一人、二人と離れて行き、仏教会の清掃の仕事をしていたのですが、もう来なくてもいいと言われます。仏教会からも締め出され、自分の居場所はどこにも無いと思い詰め、自殺しています。

外国での戦争は終わったものの、人種差別、排日土地法3、一世の帰化権否認4、強制立ち退きにおける損害賠償5、国籍離脱者への国籍復帰問題6、徴兵拒否者への誤った認識7と国内では問題が山積みでした。


ララ物資

収容所で日本から届いた味噌や醤油に慰められた日系人は、戦後の日本の窮状を聞くにおよんで、今度はこちらからと立ち上がります。トパーズ収容所で日本語図書館設立に尽力した浅野七之助(本シリーズ第四章)は、1945年11月19日付けロッキー新報に「故国の食料危機重大」との記事をのせ広く協力を呼びかけ、海外に救援物資を送ることができる公認の団体LARA(Licensed Agencies for Relief of Asia アジア救済連盟)の認可をうけ、活動を始めました。当時の日本での状況を佐賀平等院住職の西村照純師の「敗戦直後の日本とララ物資の記憶」の一部から———

戦災で焼け出され、親兄弟を亡くしたり、家族ちりじりになり、街中の盛り場に浮浪する孤児たち、また海外から引き揚げてきたが、親も親戚もない引き揚げ孤児たちが戦後の大きな問題となり、各県に孤児を収容する施設が急増した。……当園は35名の孤児を収容していたので、配給だけでは足らず、裏の墓地の空き地にカボチャや芋を作ったり、野菜を作ったりして不足を補う一方、母の衣類と田舎の寺に依頼して米や芋等との物々交換をして物資を調達していたが、これらも35名の子供たちの口ではアッと言う間になくなってしまう生活だった。

こんな時代、アメリカからララ物資と言って紙製のドラム缶数本と肉や魚の缶詰、衣類等が運び込まれ、ドラム缶には粉ミルク(脱脂粉乳ではなかったか)が入っており、ただただ驚くばかり。珍しいのと、食べたこともない貴重な食料に「口が腫れるのではないか?」と有り難く頂戴したものだ。

その上、びっくりしたのは、「横浜まで山羊が来ているので受け取りに来い」とのこと。県の係官と弟が上京。数日がかりで、貨車で数頭佐賀まで山羊を運んで来た。たしか日本の山羊より大きくザーネン種という種類だったと思う。……

物資欠乏の極みに達した時代、このララ物資は有り難い贈り物で、珍しい子供の栄養を考えられた貴重なものとして今も鮮明に心に焼き付いている。また当時の学校でも欠食児童が多い中、このララ物資が学校にも(児童対象に援助が行われたと思う)配分され、これが戦後の学校給食の始まりとなったと思う。9


エステル・石郷のハートマウンテン

ハートマウンテン強制収容所で過ごした一人の若い白人の女性がいました。日系人のアーサー・石郷の妻で、画家のエステルです。立ち退きの際、離婚するか別居すればカリフォルニアに残れたのですが、アーサーと一緒に収容所に行くことを自ら希望してのことでした。

父親は画家でピアノの調律師、母親はオペラ歌手という恵まれた家に生まれたエステルでしたが、両親とも仕事に忙しく、乳母に育てられました。少し大きくなると、親戚や友人宅をたらい回しにされ、そこで虐待をうけたこともあり、幸せな子ども時代ではありませんでした。高校を卒業すると、家を飛び出し、画家をめざして入ったアートスクールで、俳優志望のアーサーと出会い、恋に落ち結婚しました。当時カリフォルニアでは異人種間の結婚は禁止されていたため、メキシコまで出かけて結婚していますが、その時に親からは勘当を言い渡されています。

エステルは同じ痛みと夢を共有した日系人のなかで暮らしたハートマウンテン収容所で、はじめて心安らかな日々を過ごせたと、生前語っています。やっと、みんなに受け入れられたと感じた大切な場所だったのです。10 エステルの願いは「死んだら私の灰をハートマウンテンの山の頂きからまいてほしい」というものでした。

エステルの願いをかなえたのは、誰だと思いますか? 私たちにハートマウンテンでの子どもの生活を語ってくれたベーコン・サカタニでした。


ベーコンの話

ぜひそのいきさつを伺いたいと思い、ベーコン・サカタニに連絡してみました。すると、エステルのメモリアルサービスでの弔辞の写しと、エステルの書いた『ローン・ハート・マウンテン』の英語版と日本語版を送って下さいました。電話でもお話しましたが、とてもお元気そうでした。さて、エステルの話に戻ります。

1984年、エステルの絵をハートマウンテン収容所記念公園で展示したいので、エステルを探してほしいという要望が、ベーコンのもとに来ます。探し歩いたあげくエステルを見付けたその日、ベーコンは、家に帰ってからこう記しています。

数枚の窓ガラスが割れ、風や雨が吹き込んで来る荒廃した地下アパートに住んでいる彼女を見つけた。彼女の足は、壊疽のため両膝下から切断され、車椅子に座っていた。ベッドの上のシーツは洗濯されたことがないかのように汚れていて、着ているスリップも薄黒く汚れていた。家主が一日一回暖かいスープを与えていた。最近腹部に手術を受けたばかりなので、一日に何回も軽い食事を取る必要がある。

キャンベル・スープの缶詰と六インチ大の電気コンロでしのいでいた。部屋を暖めるために電気コンロは付けっぱなしにしていた。お金はなく、部屋と食事代の代償としてソーシャル・セキュリティ(養老年金)の権利を大家に渡していた。11

エステルとの交友はこうしてはじまり、以後、度々訪れていたベーコンは、絶版になっていた『ローン・ハート・マウンテン』をもう一度出版して、戦争中日系人社会におこったことを世界中の人に知って欲しいとのエステルの願いを聞き、ハートマウンテンの同窓生に声をかけ募金活動をし、再販にこぎつけます。願いのかなった日、エステルはとてもうれしそうに友達やファンのために本にサインをしていたと言います。1990年2月に亡くなったエステルの最後の願いをかなえるために、ベーコンは、翌年ハートマウンテンを目指して旅に出ています。12

第五章(3) >>

注釈:

1. ハワイから徴兵された二世兵士は訓練中からめきめきと頭角を現し、第100歩兵大隊としてヨーロッパに行きます。そこで、後発のハワイと本土の各収容所から志願した兵士からなる第442連隊戦闘部隊と合流し、以後行動をともにします。

2. Louise Tsuboi Kashino, interview by Yuri Brockett, Jenny Hones and Hitomi Takagi, August 22, 2013 at Bellevue, Washington

3. 1956年、カリフォルニア州で外国人土地法撤廃。これで一世も土地を所有することが可能になりました。

4. 1952年、日本人帰化法成立。やっと日本生まれの一世もアメリカの国籍を取得できるようになりました。

5. 1948年、強制疎開賠償請求法が発効。賠償については「不動産や私的財産の損害または損出」のみで1942年の評価額を使用、領収書が必要、その上一割を政府の弁護士費用として差し引くという納得の行くものではありませんでした。立ち退きで失った全財産の賠償として、エステルとアーサー石郷は、リストを作り、少なくとも1,000ドルの価値があったと見積もりました。しかし、1952年に政府から100ドルで和解するよう連絡がきます。とうてい納得がいくものではなく、その後、4年間に渡って政治家や官公庁の職員に掛け合ったり、手紙を書き続けますが、諦らめて102ドル50セント(約1万500円)の小切手を受け取ったときには、アーサーの目には涙があふれていたとエステルは語っています。

6. ツールレイクにいたアメリカ市民権を持つ5,000人以上の二世と帰米が市民権を放棄しています。自分で考えて自発的に棄てたというのではなく、将来の展望の見えなくなった、デマの飛び交う収容所にあって、過激親日派と管理局の圧力と一時的な気の迷いからでした。すぐに、自らの冒した間違いに気づくのですが、時すでに遅し。サンフランシスコの弁護士、ウェイン・コリンズは米国に残った3,700人余りの若者の市民権を取りもどす働きをします。また、捕虜交換要員として連れてこられたペルーの人々が、戦後アメリカにとどまれるようにも手助けしています。ミチコ・ウエグリンは著書、『アメリカ強制収容所———屈辱に耐えた日系人』(山岡清二訳)の中で「この悲しむべきエピソード全体が1968年に幕を閉じる前に、コリンズは米国と日本にまたがる無数の依頼人の弁護、再弁護のために、約一万部の供述書を書き……」とし、この本をウェイン・コリンズに捧げています。

7. 1947年12月24日、トルーマン大統領は徴兵拒否者に恩赦を与えました。しかし彼らのことを疎外隠蔽しつづけていたJACL(日系アメリカ人市民同盟)が徴兵拒否者に謝ることを決議したのは2000年7月になってからです

8. 長江好道著、「日系人の夜明け———在米一世ジャーナリストの証言」岩手日報社 1987

9. www.a50.gr.jp/jp/lara.html当時は個人的にも日本に荷物を送り続けた家族も多く、アヤコもマコも、貧しいながら両親が日本への荷物を用意していたのを覚えています。

10. Okazaki, Steven. (Director/Producer)  (1990). Days of Waiting: The …

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