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おばあさんの手紙 ~日系人強制収容所での子どもと本~

第四章 荒野の強制収容所:1942年から1946年にかけて — 後編(1)

第三章(6)を読む >>

先日、学校の補習が終ったあと、
今まで行ったことのないパン屋さんへ向いました。
バスを乗り継ぎ、地図アプリを頼りに歩き、
一時間近くかかって辿り着きました。

私の夢は自分のパン屋さんを持つことです。
来年の春からは、
地元のパン屋さんで修行を始める予定です。
その準備期間として、
この頃はいろんなパン屋さんへ足を運んで、
何か気づくことはないかとリサーチしています。

遠くにあるお店へ行くのは、
交通手段(と使えるお金さん)が限られた学生には
厳しいものがあり、正直大変です。

ですが、かんかんと太陽の照りつける中、
道を歩きながらわたしは「自由」を感じていました。
自分の好きなことへ向って、自分の足で歩いていける
進んでいけることこそ、自由の証拠だと思いました。1

山口さつきさんのこの弾むような気持ちを、ほぼ日刊イトイ新聞「今日のダーリン」で読んだ時に、これこそわたくしが探していたものだと思いました。収容所の中の子どもたちの生活はどうだったのか、収容所で幼い時を過ごした人々に聞いてみても、「楽しかった」という言葉が多く返ってきます。一見、屈託なく楽しそうに見えても、有刺鉄線の囲いの中の自由は、「自分の好きなことへ向って、自分の足で歩いていける」本当の自由とは根本的に違っています。そこのところをわたくしが伝えきれていないのをもどかしく思っていた時に、山口さんのこの文章と出会ったのです。収容所の中の子どもたちの文章と山口さんの文章とを比べて読むことで、わかる違いと、だれでもが「自分の好きなことへ向って、自分の足で歩いていける」社会を失わないように守る大切さを思い、山口さつきさんとほぼ日刊イトイ新聞の許可を得て、掲載させていただきました。

「人は強制収容所に人間をぶちこんですべてを奪うことができるが、たったひとつ、あたえられた環境でいかにふるまうかという、人間としての最後の自由だけは奪えない」と、ヴィクトール・フランクルは言います。強制収容所の中で、すべての人が「自分の好きなことへ向って、自分の足で歩いていける」社会を夢見て、フランクルの言葉を実証するような日系人の話をつづけましょう。

* * * * *

1. 1943年(第三章からの続き)

3トンの本の贈り物———春

1943年の春、ミニドカに三トンの本が届きました。ヴィクトリー・ブックキャンペーンの余剰本が届いたのです。5月18日のクラインコップフ教育部長の日記には、「倉庫にはいっていた三トンの書籍が、やっとコミュニティ英語図書館の書棚におさめられ閲覧できるようになった。大部分は寄贈本で、同じ本が何冊もあったり、あまりに古くて価値のない本もみられる3」とあります。3トンの書籍って、いったい何冊ぐらいになるのでしょうか? 一冊500グラムとして、約6000冊です。

これらの大量の本は、戦争で急増した兵士や捕虜に本を送ろうと、全米図書館協会が行ったヴィクトリー・ブックキャンペーンという大規模な本の収集キャンペーンで集めたものです。メディアだけでなく、クリーニング店は顧客に返す洋服の袋の中にキャンペーンのちらしを入れたり、工場では作業場の中に本の収集箱をおいたり、集まった本の運搬はスーパーマーケットのトラックやハイウェイパトロールのおまわりさんも手伝ったということですから、まさに全米あげての本の収集活動でした。軍の調査では、兵士にもっとも望まれる本は、最近のベストセラーと過去十年間に出版された小説で、特に冒険小説、西部劇、探偵小説、推理小説が喜ばれ、建築学、航空学等の専門書も人気がありました。特に持ち運びに便利で戦場にも持っていける文庫本が重宝されていたようです。1942年の6月までに目標の1000万冊を収集。保存の悪い本を除いて約半数が軍関係機関に送られました。

このキャンペーンの余剰本が各収容所に大量に届けられたのです。しかし、これらの本はすべて英語で書かれています。一世や帰米二世のために、どうしても日本語の書籍も必要です。次に、アメリカ同化主義をとる収容所内にあっても、日本的文化空間の必要性を説き、日本語図書館設立へ尽力したトパーズ収容所のケースを見てみましょう。


日本語図書館設立への動き

トパーズ強制収容所でも、仮収容所で接収された日本語の本をもとに日本語図書館ができないかと考えていた人がいます。一世の浅野七之助6です。浅野の伝記を書いた長江好道は、収容所のようすをこのように伝えています。

入所当時の日系人の生活は混沌たるもので、住民7は秩序もなく、生活意欲もなく、ただ虚脱状態に陥っていた。さらに、住民間にはいたずらにデマと憶測が流布され、不安と混乱が転住所内を渦巻いていた。ただ一つの慰安は、短波放送で日本の放送を聴取、勝った勝ったの大本営発表のニュースを聞いて日々を過ごすことであった。そうなると勢い所内では国粋主義者が頭をもたげ「日本が勝っている、いまに見ていろ、われわれの時代がくるんだ」と言わんばかりに大道を闊歩し、転住所管理局にたてをつき、当局と住人の連絡に当たっている人々をかたっぱしからスパイ呼ばわりして、暴行を加えたり、サボタージュしたりする愚かな行為をする者が絶えなかった。8

こんな状況を打開するために、成人教育委員長をしていた京極逸蔵の提案で、有識者何名かが集まり対策を協議しました。浅野は、その場で日本語図書館設立を提案。当時、トパーズ収容所には2,400人の一世と800人の帰米二世がいましたが、日本語図書館が「健全な精神と心の交流をはかる9」場になり、「文学書は、住民のすさんだ心をいやして安らぎを与え、哲学・宗教書は、彼らの人生に展望を与え、科学書は、科学する心を培うにちがいない」と考えたからです。10 この案は委員長をはじめ数人の賛成を得、早速、委員長が管理局との交渉にあたりましたが、アメリカ化を計る計画にはもろてをあげて賛成する管理局も、日本語図書館の創立に関しては積極的ではありませんでした。でも、1942年の冬、ポストンやマンザナーで暴動(本誌第135号)が起きたことで、そういう事態を避けるために日本語図書館がなんらかの役に立つのならばと、1943年1月19日に、英語図書館の一角で日本語図書の貸し出し許可がおりました。条件は、日本語図書関係の司書一人分の予算はつけるが、本や運営資金は自分達で調達しろとのことでした。

それでも、この許可に大喜びの浅野は、早速、収容所内新聞、日刊トパーズ新聞1月19日付けで「明日から圖書館設立へ———驀進!! 一齊に書籍蒐集運動開始、市民の全幅的協力要請」「錦上更に花を添ふベく」と被収容者の協力を呼びかけています。この記事は浅野が自ら筆をとったもので、気骨ある一世の志をそのままご覧いただきたく思います。開館を直前にした2月5日付け同紙では「日本語圖書館愈々設立、明後日堂々開館式擧行」との記事の中で、被収容者からの支援に感謝の意を表しています。11

トパーズ日本語図書館開設へ向けての記事の一部—トパーズ新聞、1943年1月19日
(Credit: Densho Digital Archive)

この日本語図書コーナーは、一世、帰米二世、それに本土の二世より日本語能力の高かったハワイからの二世に特に喜ばれ、本に飢えていた人々が押し寄せ、開館当時は館外貸し出しを一時ストップしなければ本が足らなくなるほどでした。備品や本の修理代を捻出するために、貸し出しは有料または本を提供してくれた人だけに限っていたため、多くの一世は図書館にこもって本を読んでいたということです。京極は、カリフォルニア大学バークレイ校の国際会館に置いて来た自分の本、600冊を寄贈すべく、自費で取り寄せます。4月13日のトパーズ新聞では「讀書子待望の豪華書籍到着す」との見出しで京極の寄贈本の内訳を紹介しています。『明治大正文学全集』(50冊)『世界文学全集』(40冊)『現代日本文学全集』(50冊)『世界大思想全集』(30冊)『世界美術全集』(50冊)『朝日常識講座』(10冊)『修養全集』(12冊)『夏目漱石全集』(12冊)『徳富蘆花全集』『日本家庭大百科』(3部)『国訳一切経』『国訳大蔵経』(100冊)、その他宗教、哲学、歴史、文学、大衆物の単行本で、アメリカでは手に入りにくい貴重なものばかりです。12

日本語の蔵書が充実するにつれて本の貸し出しも無料になり、次の問題は場所です。浅野は英語図書館の片隅ではなく、日本語図書館だけのスペースが必要だと思っていたのです。一つには、音読の習慣のある明治生まれの一世が声を出して本を読めて、気兼ねなく会話ができ、お花や工芸品の展覧会ができる日本的文化空間を作りたかったこと。もう一つは、英語図書館の会館時間に縛られず、長い時間日本語図書館を開けておきたかったからです。5月6日、日本語図書館はブロック40のレクリエーションホールの半分を与えられ、独立をはたします。3日間、貝殻細工の展覧会で移転を祝い、開館時間は朝の10時から夜の10時までに延長されました。

晩年浅野は「トパーズ収容所でトラブルが多発しなかったのは日本語図書館の存在があったからである」「皆読書に没頭し……夜通し起きて、本を読んでいた」と語っています。13 必要だと思ったことは、やり通す明治生まれの一世たちでした。

第四章(2)>>

注釈:

1. ほぼ日刊イトイ新聞『今日のダーリン』2013年8月3日付けより
 http://www.1101.com/home.html 
糸井重里が『今日のダーリン』で「自由を大切にしたい」と書いたものを読んで、山口さんがこのメールを送られたそうです。糸井重里は山口さんのメールを紹介した後「彼女の『自分のパン屋さん』が、いつかできたら、ぜひ教えてもらいたいですね。電車やバスを乗り継いで、こんどは、ぼくが行きたい」と続けています。

2. ヴィクトール・E・フランクル著、池田香代子訳「夜と霧」みすず書房 2002

3. Kleinkopt, Arthur. Relocation Center Diary 1942-1946, Hagerman: Minidoka Internment National Monument, 2003.

4. Becker, Patti Clayton. Up the Hill of Opportunity: American Public Libraries and ALA During World War II, PhD Thesis, Madison: University of Wisconsin-Madison, 2002.

5. Books Join the Battle: The Victory Book Campaign from Life on the Home Front, Oregon Responds to World War II
http://arcweb.sos.state.or.us/pages/exhibits/ww2/services/books.htm

6. 浅野は明治二十七年、岩手県盛岡市生まれ。渡米の前は原敬の書生をしていました。アメリカでは生涯ジャーナリストとして、日系人を取り巻く差別と闘い、日系人社会に貢献。

7. 日系人が「転住所」に移ってしばらくして、転住局は被収容者を疎開者、住人と呼ぶことにきめました。ミニドカ収容所のクラインコップフ教育長の1942年12月31日付けの日記に「今日、転住局の職員に連絡があり、政府の役人にはコーケージャン(白人)という言葉を使わず、担当者と呼ぶように指示があった。コーケージャンとかオリエンタル(東洋人)とかの言葉は人種間の対立や反感をまねくことを懸念してとのこと。この知らせのなかに、日本人を『疎開者、または住人』と呼ぶようにとの指示もあった」との書き込みがあります。

8. 長江好道著「日系人の夜明け———在米一世ジャーナリスト浅野七之助の証言」岩手日報社 1987

9. アンドリュー・ウエルトハイマー著 「アメリカの強制収容所内での文化空間の創造———浅野七之助とトパーズ日本語図書館 1943-1945」 日本図書館情報学会誌54(1), 1-15, 2008-03-31

10. 前掲「日系人の夜明け———在米一世ジャーナリスト浅野七之助の証言」

11. Topaz Times, Vol. II, No. 15, January 19, 1943.
     Topaz Times, Vol. II, No. 30, February 5, 1943.

12. Topaz Times, Vol. III, No. 7, April 13, 1943.

13. 前掲「日系人の夜明け———在米一世ジャーナリスト浅野七之助の証言」

 

* 子ども文庫の会による季刊誌「子どもと本」第136号(2014年2月)からの転載です。

 

© 2014 Yuri Brockett

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About this series

東京にある、子ども文庫の会の青木祥子さんから、今から10年か20年前に日本の新聞に掲載された日系の方の手紙のことをお聞きしました。その方は、第二次世界大戦中アメリカの日系人強制収容所で過ごされたのですが、「収容所に本をもってきてくださった図書館員の方のことが忘れられない」とあったそうです。この手紙に背中を押されるように調べ始めた、収容所での子どもの生活と収容所のなかでの本とのかかわりをお届けします。

* 子ども文庫の会による季刊誌「子どもと本」第133号~137号(2013年4月~2014年4月)からの転載です。