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日系アメリカ移民一世の新聞と文学 -その1

はじめに

「文学」が可能になるためには、いったいどのような環境が必要だろうか?

その答えは、「文学」という言葉の指す内容いかんによるだろうし、時代にもより、地域によっても変わるはずで、簡単に導き出せる種類のものではないだろう。現実的にはさまざまな角度からのあらゆる答えが可能だろうから、そもそもこうした問いそのものが意味をなさない、というのがあるいは良識的な判断かもしれない。しかし、それでもメディアや出版、読者などこれまでなら必ずしも「文学研究」の範囲内とはみなされなかった領域の研究が進展しつつあるいま、こうした問いを考えてみたくなる研究者は多いのではなかろうか。

もちろん、「文学」が可能になるためにはどのような環境が必要かという問いに、日本の現実の社会を例にして考えるのは困難な作業である。そこでは「文学」にまつわる領域が、時間軸の方向でも、空間軸の方向でも、あまりに深く複雑に広がっているからだ。

しかしこの複雑さを、ある程度縮減できる例があったとしたらどうだろう?私の念頭にあるのは、移民文学である。移民とは、人々がみずから生まれた土地を離れて異境に移り住む行為である。完全に現地のコミュニティに溶け込んで行く場合をのぞいて、集団的継続的に行われる移民は、多くの場合母国の文化を強く引きずった小社会=移民地の形成を伴う。面白いのは、この移民地という空間である。なにもなかった異国の土地に、母国の文化を持ち込み、それを模しつつ小さな社会を作っていく。このゼロから建設される〈母国のレプリカ〉の姿を観察することは、母国の社会の形成要素を何もないところからたどり直すという、本来なら不可能な観察のあり方を可能にする。文学の場合でいえば、移民地では人々がゼロから「文学」を作り出そうと試みる、というわけである。むろんゼロからというのはやや誇張した比喩であり、実際には、それは故国にあった「文学」という文化を、手に入る在り合わせのものを用いながら異郷の土地に移植するという作業となる。母国で享受していたのと同じように新しい土地でも「文学」を楽しみたいと考えたとき、移民たちはそこにいったい何を建設していくだろうか。この視点をもって眺めたとき、〈母国のレプリカ〉である移民地という空間は、「文学」を可能にする環境を検証するための小さな、しかし限りなく興味深い実験場となる。

この論文では移民地に立ち上がる文学空間を考えるためのひとつの足がかりとして、新聞という媒体を取り上げてみたい。具体的には明治期のアメリカ移民たちが発行した日本語新聞--とりわけサンフランシスコで発行された一紙を扱う。後に述べるように、単行図書や雑誌がさほど発展しなかった北米の日本人移民地においては、継続的に刊行され、かつ廉価で手に入った新聞の役割が大きい。日本内地の日刊紙をモデルにして作られた移民新聞は、短篇小説の単独掲載、長篇小説の連載、詩歌・小説の投稿、批評や読者の声の反映など、およそ思いつくすべての方法を備えていた。この新聞とそこに掲載された文学作品の姿を追うことにより、移民地における文学の誕生と維持に、新聞という媒体がどのようにかかわり、いかなる場を提供していたかを考えることができるだろう。本特集の課題である〈連載〉の機能を考えることも、こうした〈場〉の形成を分析するためには資するところが大きいと思われる。

1.日系アメリカ移民と日本語新聞

まずは簡単に日系アメリカ移民と彼らの日本語新聞の歴史について整理しておこう。

日本人がアメリカ合州国へ移民しはじめたのは、19世紀末である。当初は私費留学生など働きながら勉強する苦学生の割合が多かったが、その後次第に労働者が増えていく。彼らが従事したのは、農園の下働き、鉄道敷設、鉱山労働、林業、漁業などだった。米国国勢調査(U. S. Census)の数字では、日系アメリカ人の人口は1900年で85,467人、1910年で151,852人、1920年で220,248人となっている1

本論が主として扱う移民の第一世代、すなわち一世たちの特徴としては、まず定住を目指したものたちが少なく、多くの者が一時的な出稼ぎのつもりで滞在していたことが挙げられる。1910年代以降、故国から妻を迎え、定住を目指す人々が増加する。南米や満州など、のちに日本人移民たちが数多く渡ることになった地域と異なり、勉学を志すものが少なくなかったことも北米移民の特徴である。このため、書生たちの文化が早い時期から開花することになる。

田村紀雄『アメリカの日本語新聞』(新潮社、1991年10月)が強調したように、移民のコミュニティには彼らの母語で書かれた移民新聞エスニック・プレスが不可欠である。社会慣習、言語、出身地への関心などさまざまな面で故国の文化を引き継ぐ移民たちは、アイデンティティの保持という積極面、また言語的不自由さという消極面の双方において、彼らの第一言語でコミュニティの情報を伝達し共有する装置がどうしても必要となる。

もちろん、日本人移民たちもこの例に漏れない。在米日本人会著作・発行の『在米日本人史』(1940年)は、移民たちの新聞に接触する割合の高さを指摘しながら、その原因を次のように推定している。

即ち在米邦人は米人社会に介在しつゝも、英語力の不十分その他の理由よりその通信界より隔絶された特殊立場にあり、且つ居住地は各地に散在し、新聞を除いては依るべき報道機関甚だ乏しく、また在米同胞は故国の事情を知らんとする念頗る強く、〔・・・〕生活は概ね余裕あつて新聞購読の如きは介意せざる経済力を持つにも起因している。(506頁)

このまとめは1940年時点のものだが、英語力や居住地域、メディアへの接触状況、望郷の念など、そのほとんどが1900年代、1910年代にも当てはまるものと考えてよい。

しかも北米における日本語新聞の歴史には、以上のような一般的な移民コミュニティの傾向に加えて、固有の事情があった。北米の邦字紙は、最初期の移民到着とほとんど同時--1880年代に誕生している。最初の新聞『東雲(しののめ)新聞』の創刊は1886年である。これは、そのはじめの移民たちが、明治政府により弾圧され一時的に米国に身を寄せた自由民権運動の活動家たちだったためである。彼らはサンフランシスコに滞在しながら、日本に向けて政治的メッセージを送る目的で新聞を発行した。北米の日本語新聞の出発は、政治的亡命者たちが亡命地より故国へ発した言論機関としてあったのである2

これを第一段階とすれば、日本語新聞の第二段階はこの後に来る商業新聞の時代である。自由民権運動の行き詰まりと、日本人の移民コミュニティの拡大とがあいまって、故国日本へではなく、移民地の住人たちに向けた日本語新聞が創刊される。サンフランシスコでいえば、初期のいくつかの統廃合のあと、メジャー二紙体制として確立した『新世界』と『日米』がそれである。

ここに、一部の政治的結社による指向性の限定された言論空間から、一般の移民たちの生活上に展開されるより幅広い言説空間が誕生した。内地の新聞と規模こそ大きく違え、社説からコミュニティのニュース、故国日本のニュース、国際情勢、彙報、文芸欄、広告などを兼ね備えた、体裁として遜色のない新聞が流通を始める。紙面に載せられた数々の情報は、新しい知らせや日々の読み物を読者に運ぶとともに、同じ言説空間に生きるという一体感をももたらすだろう。コミュニティの拡大が新聞の需要を高め、新聞の提示する言説空間がコミュニティの共通認識と連帯性を醸成していくというサイクルが始まる。

その2>>

注釈
1. 北米日系移民一世の歴史については、たとえばユウジ・イチオカ『一世-黎明期アメリカ移民の物語り-』(刀水書房、1992年10月)や充実した辞典形式のBrian Niiya ed. Encyclopedia of Japanese American history : an A-to-Z reference from 1868 to the present. New York: Facts on File, Updated ed., 2001.がある。

2. 前掲田村『アメリカの日本語新聞』および田村紀雄・白水繁彦編『米国初期の日本語新聞』(勁草書房、1986年9月)所収の阪田安雄、新井勝紘、有山輝雄論文に詳しい。

※ 本論文は、カリフォルニア大学ロサンゼルス校において客員研究員(文部科学省在外研究員)として行った研究の一部である。また本研究は、明治期の文学青年に関する研究プロジェクトを構成する一部であり、これに関しては学術振興会科学研究費助成金(課題番号15720031)の助成をうけている。

* 『日本文学』第53巻第11号(No.617), 2004年11月,pp.23-34に掲載。

© 2004 Yoshitaka Hibi

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