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ブラジルの日本人街

第12回 東洋街形成と一世リーダーたち(2) -水本毅-

「東洋街、東洋祭り、東洋市、鳥居の建立も、すずらん灯も、すべてミズモトの頭から出たんだよ…」

1973年から75年までサンパウロ市長を勤め、水本毅とともに東洋街を旗揚げしたミゲル・コラスオーノ元サンパウロ市長はそう語る。「新しいアイ デアがあると、黙っていられないらしくて夜遅くでも電話をかけてきた。おいミゲル、聴いてくれって…。そんな仲だったよ。ポルトガル語もずいぶん上手に話したよ」

東洋街のもう一人のパイオニア水本毅は、写真から見ると、角張った顔に大きなメガネをかけ、精力的で意志の強そうな表情をしている(写真 12-1)。前回紹介した田中義数(第11回へリンク)が小柄で軽快なイメージであったのに対して、水本は当時の日本人としては大柄で重厚な印象を受け る。親分肌の人物で、後輩の面倒見がよく、義侠心があり、企画力・行動力に富んでいた。このような性格から、「鉄の意志を持つ男」「コロニア庶民の旗手」 「リベルダーデの幡随院長兵衛」などと評された。

水本は、1920年、岡山県上房郡豊野村(現在の加賀郡吉備中央町)に生まれた。1929年、両親兄弟とともに渡伯。サンパウロ州内陸部のウニオンやバストスで、家族とともにコーヒーや綿づくりにたずさわった。ウニオンにいた頃、過酷なコロノ1生 活に加えて、水本は一家とともにさまざまな辛酸をなめている。自身はアメーバ赤痢を患い髪の毛がすべて抜けるというような経験をし、末弟の清も腸閉塞で生 死の境をさまようという経験をした。当時のウニオンには、教育家の岸本昂一がおり、日本語学校で教師をしながら、聖書研究会を主催していた。水本らはこの 研究会に通うようになり、やがて一家でキリスト教に入信した。

水本がサンパウロに出たのは、15歳の時である。先の岸本の勧めに従ったものだった。以前述べたように、岸本は暁星学園を創設し、1934年に新校 舎および寄宿舎をピニェイロス地区に新築した。同学園はキリスト教精神にもとづく日系教育機関であり、全日制の教育部や寄宿舎のほかにチントゥラリア・ア ウローラという洗濯店を経営し、学資に乏しい日系子弟をそこで雇用し夜間に学ばせる独自のシステムを持っていた(第5回ピニェイロス地区-斜陽の日本人街 -参照)。水本は同学園の勤労部に入学し、昼は洗濯店で働き、夜は商業学校で学んだ。またこの頃、同じくピニェイロス地区に本拠を構えた救世軍日本人部に おいて、日本から派遣された田中三次大尉のもとで熱心に活動するようになった。

水本は1938年、商業学校を卒業した後独立し、ペルジーゼス地区で洗濯店を経営するようになる。経営者としてのキャリアの最初である。後に末弟の 清や妹の英子もサンパウロに出、毅の店を手伝いながら勉強した。当時は、地方からサンパウロ市に出てきた日系人は、洗濯業に就くものが多かった。一種のエ スニック職業であり、『移民四十年史』(1949)によると、1940年代の終わりに、サンパウロ市1500店の洗濯業のうち約3分の2は日系人の経営で あったという(p.285)。この洗濯店経営の頃、水本は、同じバストス出身の佐藤すみ子と結婚している。英子によると、この頃水本の事業もまだ軌道に乗 らずみな貧乏で、ピニェイロス地区にあった救世軍に、みんなで歩いて通っていたという。

以前に述べたように、ピニェイロス地区には戦前から相当数の日系住民が居住していた。1948年に同地区で店舗が売り出されているのを長兄薫、末弟 清と三人で購入し、日本商品雑貨商店「カーザ水本」を旗揚げする(写真12-2)。水本がリベルダーデ地区のガルヴォン・ブエノ通りにカーザ水本2号店を 開店するのはその10年後、1958年の頃である。

このリベルダーデ地区への進出から、水本の経営手腕が花開いていく。雑貨店経営以外に注目されるのは、1959年にブラジル松竹を創立し、直営映画 館シネ・ニッポンを開業していることである(写真12-3)。この頃もっとも鋭敏な日系事業主は、ブラジル最初の本格的邦画上映館シネ・ニテロイを開業し た田中義数もそうだが、映画産業に進出していた。田中がシネ・ニテロイをガルヴォン・ブエノ通りに開設したことによって、この通りやリベルダーデ広場を中心に日系商店街が形成されるようになった。水本はこの田中を助けて、日系商工業者の親睦団体リベルダーデ商店街親睦会を1965年に結成、1974年には それを発展させリベルダーデ商工会を設立し、初代会長に就任している。同年末には、田中義数、市長のミゲル・コラスオーノらとともにサンパウロ東洋街の開 設にいたっている。

水本は、東洋街とリベルダーデ商工会で辣腕をふるっただけでなく、そのリーダーシップの強さから、ブラジル日本文化協会の副会長、特に、芸能部門のイベントリーダーとして活躍した。彼のイニシアティブによって、移民70年祭(1978)と80年祭(1988)が成功に導かれたたことは特記されてよい。80年祭では、パカエンブーの競技場で2500人の大合唱や1600人の団舞を実現した。また、1970年にリベルダーデ・ロータリークラブ創立し、 初代会長に就任。1979年には日系金融機関の南米銀行の監査役に就き、その死まで職を務めた。

水本のもう一つの事業として注目されるのは、『コロニア芸能史』(1986)の刊行である。同書は、ブラジルの日系芸能史をまとめたものだが、水本 が委員長となり彼の主導によって編纂されたものである。水本はブラジル松竹社長として芸能イベントの興業を広く手がけていた上に、日本文化協会副会長とし てコロニア芸能祭を担当していた。このようなことから、彼はかねて日本の伝統文化や芸能をブラジルに紹介する殿堂を建設する構想をもっていたが、現在リベ ルダーデ文化福祉協会(リベルダーデ商工会の後身)の事務局がおかれている東洋文化会館建設を企図し実現した。結局それが最後の仕事となった(写真 12-4)。

1989年8月9日未明、水本は肺水腫にて死去した。69歳だった。葬儀は、ホーリネス教会の牧師になっていた長兄薫によって執り行なわれた。悲報 を聞いて参集した弔問客は千人に近かったといわれている。水本らが創設した東洋街は現在、サンパウロ市の観光ポイントとして多くの観光客や買い物客で連日 にぎわっている。このエリアの中心で地下鉄駅のあるリベルダーデ広場には、彼の胸像が建てられ、街の繁栄を静かに見まもっている。

注釈
1. 「コロノ」というのは、この頃の年季契約農業労働者の通称で、主にコーヒー農園での労働に従事した。

 

参考文献
香山六郎編(1949)『移民四十年史』

鈴木一郎(1996)「水本毅さんのこと、そしてガルボンブエノ街のこと」Liberdade. ACAL

日本移民80年史編纂委員会(1991)『ブラジル日本移民八十年史』移民80年祭典委員会

水本薫(1999)『水本家歴史』私家版

ACAL(1996)Liberdade. ACAL

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Brazil issei japantown liberdade Tsuyoshi Mizuno

Sobre esta serie

「なぜ日本人は海を渡り、地球の反対側のこんなところにまで自分たちの街をつくったのだろう?」この問いを意識しつつ、筆者が訪れたブラジルの日本人街の歴史と現在の姿を伝えていく15回シリーズ。