篠田 左多江

(しのだ・さたえ)

東京家政大学人文学部教授。日本女子大学大学院修了。専門は、日系人の歴史・文学。おもな業績:共編著『日系アメリカ文学雑誌集成』、共著『南北アメリカの日系文化』(人文書院、2007)、共訳『日系人とグローバリゼーション』(人文書院、2006)、共訳『ユリ・コチヤマ回顧録』(彩流社、2010)ほか。

(2011年 2月更新)

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日系アメリカ文学雑誌研究: 日本語雑誌を中心に

望郷の総合雑誌 - 『ポストン文藝』 その8/8

その7>>

4.『ポストン文藝』の特色と果たした役割

『ポストン文藝』の第一の特色は、特定の集団ではなく一般の収容者を対象とした総合雑誌であったこと。内容は文学のみならず、様々な娯楽的要素をもった読物や写真、芝居や日本舞踊公演に関する記事もあり、いわゆる「講談本」や演劇などのファン雑誌の要素も含まれていた。

第二の特色は呼び寄せを含む一世が発行の中心的役割を担ったこと。編集者及び寄稿者に帰米二世はいるが、その数は少ない。一世が創り出したものに帰米二世が参加するいう形をとっていた。

第三に当局による検閲を重視して、作品の内容について自己規制を行なったこと。当局は忠誠者のみの収容所ということで、収容所の秩序を乱す行為を取り締まり、厳しく監理しようとしたため、とくに日本語のみを使う活動には神経を尖らせたようである。編集側は作品募集のときから「米国戦時体制に反しないもの」、「絶対に文藝的なもの」、「キャンプニュースは禁止」(『ポストン新報』43年7月31日付)という寄稿規定を設けた。この結果、45年新年号の懸賞小説第2位に選ばれた「志願兵」という作品は「時節柄その表現乃至字句に多少誤解を招く憂ひありと認め」掲載を断念した旨の断り書きが2月号に載せられた。トゥーリレイクなどは隔離収容所になってからの検閲は形式的になったようだが、忠誠者の収容所ではかなり厳しいチェックがあったことをこの投稿規定が示している。

したがって第四の特色は政治色が少なく、市民でありながら収容所へ送られたという矛盾、強制収容の苦しみを赤裸々に訴える作品が見られないこと。これは作者の大多数が敵性外国人に分類された一世であったことを考えれば納得できる。第五に、日本の雑誌記事の抜粋をそのまま載せたものや収容所の環境がまったく反映されていない記事が多いこと。一世は自己規制をした結果、日本の雑誌記事を再現しそれらを読むことで望郷の念を満足させた。政治色を帯びない、純粋に日本の文芸であれば検閲でも問題はなく、しかもそれを読むと日本にいて日本の雑誌を読んでいるような錯覚にとらわれ、一時でも収容所の苛酷な現実を忘れることができた。そこには一種の現実逃避の実態が見られる。

『ポストン文藝』の果たした役割は、多くの人びとの楽しめる読物を提供したことである。同時にデマに惑わされ、スパイや密告を恐れて疑心暗鬼のうちに暮らす収容所生活を少しでも改善するために、啓蒙的な役割を果たしたことも見逃せない。

松原信雄は「朝の想念」(44年8月号)の中で「……今日こそせめて今日一日丈でも心静かに、不平を唱へず、人を非難せず、他の罵声やデマに心乱されることなく、唯人を益することのみを考へ、さうして他に歓ばれる善事をしやう」と述べている。余暇を利用して作品を投稿し、初めて書くことの楽しみを味わった人がいる一方で、「回顧」(終刊号)の正木良夫のように、たぶん独身で、酒や賭博に溺れブランケットを肩に季節労働者をしているうちに70歳になってしまった男が、収容所で『ポストン文藝』と出会い、杖をつきながら「人様のお役に立ちたい」の一心で手伝い、はじめて人に喜ばれるまともな人間になれたという予期もせぬ効果も生まれた。野田夏泉の「動かぬ水は腐敗する。ともすると沈滞勝の人心に防腐剤の役目を果したのは『ポストン文藝』である」(終刊号)ということばが、『ポストン文藝』の役割を的確に表しているかもしれない。

『ポストン文藝』にたずさわった人びとの中で、戦後に著書を出版した人は多い。阿世賀紫海『北米大陸一周紀行』(私家版、1952年)、外川明は先に述べた『蜜蜂の歌』を、風戸登代『ちぎれ雲』(日本文芸社、1965年)、矢形渓山『揚げ羽蝶』(川柳岡山社、1972年)、野田夏泉『アメリカに老ゆ』(日本出版貿易、1980年)、重富初枝は先に述べた『ポストンものがたり』を出版した。これらの中にはポストンで書いた作品も合せて掲載されているものが多い。戦後、野田はロサンジェルスで書店を経営するかたわら『加州毎日新聞』のコラム「一街の窓」に随筆を連載した。外川は『南加文芸』同人となり、創刊号から27号まで「南加詩壇回顧」を連載したほか随筆などを書き、1980年に亡くなった。

ポストン収容所の跡地に立つと、あたかも地が燃えているかのように熱気がたちのぼる。このような荒々しい自然の中で、人びとは花鳥風月を詠い、歌舞伎を楽しみ、小督局を読んで平家物語の世界に心を奪われたとは想像すらできない。彼らは日本から身につけてきた伝統文化をここで再現したのである。

* 篠田左多江・山本岩夫共編著 『日系アメリカ文学雑誌研究ー日本語雑誌を中心にー』 (不二出版、1998年)からの転載。

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日系アメリカ文学雑誌研究: 日本語雑誌を中心に

望郷の総合雑誌 - 『ポストン文藝』 その7/8

その6>>

『ポストン文藝』を多彩な総合雑誌にしているのは、芸能の記事や写真が華いだ雰囲気を添えているからであろう。この時期にもっとも人気のあったスターは、日本舞踊家の藤間勘須磨(濱口須磨子)で、彼女に関する記事が『ポストン文藝』を賑わしている。彼女は1934年に日本へ行き、5代目藤間勘十郎のもとで名取りになった若い二世である。

日系社会には各流派の名取りがいて、それぞれ弟子を養成していた。生活が安定すると子女に日本舞踊を習わせて、日本的な立ち居振舞を身につけさせ、日本の古典芸能を理解できるようにするのが、親の願望であり、ステイタス・シンボルにもなっていた。とくに収容所内では様々な稽古事が盛んで、古典芸能などに縁がなかった人でも日本舞踊を習うことができた。

勘須磨はアーカンソー州ローワー収容所に送られたが、特別の許可を得て慰問のため各収容所を巡り、1944年10月にポストンへ到着した。『ポストン新報』紙は「勘須磨きたる」(44年10月19日付)と大見出しで報じた。独身で40代の一世・翠川敏(北村敏夫)は勘須磨の熱烈なファンであった。彼は『ポストン文藝』に7回(44年12月号~45年9月号)、新聞の日本語版に1回(44年11月9日付)勘須磨を賛美する記事を書いている。翠川は歌舞伎や舞踊などに造詣が深かったようで、日系社会では彼のように古典芸能の振りや歌詞にいたるまで理解できる人は少なかったであろう。

演目は古典のほか、誰にも理解できる歌謡曲や俗曲に振りつけをした「新舞踊」もあった。『ポストン文藝』は勘須磨に関する記事だけでなく舞台写真も載せる(1945年新年号、9月号)という熱の入れようであった。そのほかにも日本舞踊公演があったはずだが、ほかは貴家璋造の「花柳徳八重さん」(45年7月号)のみであるから、いかに勘須磨が人気者であったかがうかがえる。

『ポストン文藝』には多くの文学、人物、歴史など日本に関する記事が掲載されている。それらは収容所生活に題材を求めた詩や短編小説とは異なり、それを読むことによってあたかも日本にいて日本の雑誌を読んでいるような錯覚を読者に与えたのではないだろうか。また読者もそれを求めていたのかもしれない。いずれにせよ他の収容所雑誌と比較すると『ポストン文藝』にはその種の記事が多い。

谷川江浦草(石丸九十九)は東大卒の呼び寄せ一世で、ポストンきってのインテリと言われた人物であるが、「刀の話」(44年10、11、12月号)は時代を追った日本刀の歴史である。これと同種の連載に新関惣太郎(にいぜき・そうたろう)という一世の一連の化石と宝石についての話がある。新関の経歴などは不明だが、所内では「宝石博士」と呼ばれていたそうで、たぶん専門家であったと思われる。化石について4回、宝石に関して5回の連載がある。

久留島實夫の「ポストン絵物語」(45年5月号)はポストン生活のひとこまを漫画ふうなタッチで描いたものだが、この中に「石磨き」という場面があり、人びとが暇にまかせて美しい石を拾ってきては研磨し、アクセサリーを作っていたことがわかる。絵によれば研磨の機械も本格的に揃えていたようだ。新関の記事はこのような収容所の「宝石ブーム」に火をつけたのかもしれない。

所内の趣味のグループの活動を支えたのは大岡周洋「吟詩漫筆」(44年11、12、45年1、2、5月号)、岡本實「碁漫談」(45年2月号)、K生「追分節と其起源」(44年4月号)、鈴木胡仙「漢詩と吟詠」(45年7~9月号)、羽根政春「謡曲漫筆」(45年2月号)、深田敬「彫刻の話」(44年12月号)、山中俚汀「俳句の概念」(44年3、4月号)などがある。

スポーツ関連では人気のあった相撲について植野直人の「相撲と日本精神」(45年8月号)がある。著者はいずれも一世である。日本の有名な人物を題材にしたものをあげると、可養亭「曽呂利新左衛門」(44年4月号)、甲陽散人「温故知新」(44年3月号)では馬場辰猪、板垣退助、原担山をとりあげている。題材となったおもな人物をあげると、千崎如幻「阿倍仲麿」(45年6月号)、土屋天眠「小泉八雲」(44年7月号)、「物外和尚」(44年9、10月号)がある。

長谷川蒼逸(宗一)にはこの種の作品がもっとも多く、「小督局」(43年7月号)「源義家」(44年8月号)、「梶原景季」(44年9月号)、「源実朝」(44年12月号)、「源義光」(45年2月号)を書いた。福住正兄「二宮翁夜話」(44年9月号)もあり、登場するのはすべて日本の歴史上有名な人物である。これらは日本をしのぶ読物として読者に喜ばれたであろう。人びとはこれらを読むことで、望郷の想いを紛らせたのである。

日本人以外ではバイロンとシェリーを論じた長谷川蒼逸「英国の二大詩人」(44年3、4月号)、ウォーキン・ミラーとジャック・ロンドンを紹介した野田夏泉「大詩人と文豪」(44年7月号)がある。詩人ミラーはオークランドの郊外の山荘で隠遁生活を送り、ヨネ・ノグチや、菅野衣川など詩人をこころざす日本人をその山荘に受け入れ、生活をともにしたことで、文学青年たちの間でよく知られた存在であった。

野田夏泉(實造)は1889年生まれの呼び寄せ一世で、1915年、中学を退学したのち渡米、戦前からロサンジェルスで「日本書店」を経営していた。 詩、短歌、随筆、論文を書き、書道もかなりの腕前という多才で器用な人である。日本史や文学の知識も豊富で、「日本書紀と和歌」(43年5月)、「古事記、日本書紀と和歌」(43年7月号)、「大和民族の起源」(45年7、8月号)などの啓蒙記事がある。

作者の中で僧侶は「如是我観」(44年4月)、「学書訓」(44年9月号)の石原慈禎(芳竹庵)、千崎如幻(『ハートマウンテン文藝』解題参照)、キリスト教の牧師は「私のねがひ」(44年7月号)の岩永天涙(友記)、「街頭の宗教」(45年1月号)の三谷真種である。三谷は青山学院神学科出身の一世で、ベイカースフィ-ルド日系メソジスト教会の牧師であった。

このように『ポストン文藝』の内容はたいへん複雑で、多種多様な作品が盛り込まれて、あらゆる趣味の人びとに読まれるように工夫されていた。

その8>>

* 篠田左多江・山本岩夫共編著 『日系アメリカ文学雑誌研究ー日本語雑誌を中心にー』 (不二出版、1998年)からの転載。

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日系アメリカ文学雑誌研究: 日本語雑誌を中心に

望郷の総合雑誌 - 『ポストン文藝』 その6/8

その5>>

かつて日系人の文学は短詩形文学中心であったことから、この『ポストン文藝』の中の短詩形文学作品の数はたいへん多い。

詩の分野では第一に外川明の名をあげることができる。彼は1903年、山梨県南都留郡に生まれた。父は妻と3歳の明をおいてアメリカへ渡り、16年間帰国しなかった。村の尋常小学校を卒業後、彼は養蚕、農業、道路修理の労働者、富士登山の強力(ごうりき)、行商人などあらゆる仕事をして母を助け、父の帰りを待った。1922年に父が帰国したとき、彼はすでに19歳の若者になっていた。翌年父とともに渡米、夜学に通いながら働いて1929年に帰米二世の女性と結婚した。彼は戦前から詩を書き、日系社会で詩人として知られるようになった。彼は1932年に東京で私家版の詩集を出版、日系文学のアンソロジー『アメリカ文学集』(山崎一心編、警眼社、1937年)にも9編の詩を載せている。『ポストン文藝』では青木伸のペンネームも使って合計20編以上の詩と数編の随筆を書き、詩の選者もつとめた。

外川の詩は分かりやすい平易なことばで収容所の日常をうたっている。彼の詩や随筆を一貫して流れているのは人間を愛する心と望郷の想いである。殺伐とした収容所の中に咲く花に心をとめ(「くぐり戸」43年5月号)、仲睦まじく浪曲を聴きながら日本へ思いを馳せる老夫婦を見つめ(「静寂なる睦しさ」44年11月号)、大喜びで西瓜を食べる子供たちを優しく見守ってともに喜び(「西瓜」45年9月号)、松の実を噛んでそのすがすがしい香りに幼い頃と祖母を想い(「松の実を噛みながら」45年2月号)、青葉の梢を見て戦争の終結を祈る(「梢の祈り」45年5月号)。随筆の中でも、どんな境遇に置かれても平常心を失わずに(「抄出 心境日記」43年7月号)、美しい心を持ち続けたい(「美しい心」44年11月号)と書いている。

随筆から外川は仏教を信じ、つねに心を磨くように心がけていることが分かるが、若いときに2度も大病をして死を覚悟したことが原因で、「詩」と「祈り」がなければ生きられない人間になったと著書の中でも述べている(「蜜蜂のうた」431ページ)。外川はつねにものごとを善意に解釈するすばらしい人であったと重富初枝は回想している(『ポストン物語』54ページ)。

片井渓巌子(正夫)も外川とともに前出の『アメリカ文学集』に詩「旅情点描」を書いた長野県出身の一世で、1883年ごろの生まれと推定される。彼は詩「生活断章」を44年7月号から終刊号まで9回連載している。彼の詩は自然を題材として独特の雰囲気をもっている。9篇のすべてが収容所生活をうたったものではなく、収容前のものも含まれている。彼は戦前から自由律俳句の結社「アゴスト社」の同人で、『ポストン文藝』にも多くの自由律俳句の作品がある。片井は戦後日本へ帰り1959年に没した。

マツイ・シュウスイ(松井秋水)は一世で戦前にロサンジェルスで業界紙の編集をしていたが、サンタ・アニタ仮収容所を経てポストンへ送られた。彼はソルト・レイク・シティで戦争中も発行されていた日本語新聞『ユタ日報』文芸欄に投稿してさかんに「うまや文学」を創造しようと呼びかけていた。サンタアニタが競馬場であったため「うまや」と名づけたのである。マツイの作品は9篇の詩と自由律俳句である。

牧さゆり(板谷幸子)は詩と短歌をトゥ-リレイクから投稿した。彼女は帰米二世で、トゥーリレイクでは谷ユリ子のペンネームで『鉄柵』に1篇の創作を載せている。日本の敗戦を知ってから書かれた「影」、「たそがれ」(45年9月号)からは、太平洋を隔ててはるか日本にいる肉親や友人を案じるのみでなすすべのない日系人の心の煩悶が伝わってくる。

三田平八は戦前の文芸誌『收穫』第2号から編集の中心となった呼び寄せ一世、俳優の上山草人・浦路の子である。彼は結核を患い42年5月以来入院生活を送り、収容所へ行かなかった。「療養院にて」(45年5月号)は病院からの投稿で、俳優の子としてロサンジェルスで華やかに暮していた平八が、親しい人びとや最愛の娘と離れ、死の恐怖におびえつつひとり病院のベッドに横たわって書いたものである。恐ろしいまでの寂莫感がひしひしと迫る詩である。(『收穫』解題参照)。

樋江井良二(河合一夫)は帰米二世で、唯一の二世の友人が外部へ出るのを見送る別れの詩「トキ」(43年7月号)を載せているが、彼は不忠誠を選択してトゥーリレイクへ行った。トゥーリレイクでは『鉄柵』同人として編集と創作に活躍した。(『鉄柵』解題参照)。

短歌では、一世の永瀬勇が毎号「選後随録」を記して作歌の指導をした。永瀬自身もアメリカで短歌を詠みはじめ、日本の短歌誌に投稿して学んだ経験をもつ。川柳は初期には一世の矢形渓山が担当していたが、彼の外部再転住にともない同じ一世の島原潮風が毎号の添削講座および「古川柳句解」を設けて指導すると同時に、送られてくるたくさんの川柳を選んで掲載した。俳句は初期に安高きち、その後和気湖月が選者となった。いずれも一世である。

ほかに自由律俳句も盛んで、多くの人が作品を載せている。マンザナー収容所では、帰米二世の橋本京詩(橋本清)らによって文芸誌『山麓』が発行されたが、主要メンバーがトゥーリレイクに移動したため3号で廃刊になった。そこで発表の場がなくなったマンザナー吟社がいく度か寄稿している。これらの俳句や短歌の中には自然の風物をうたった作品が多いが、強制収容という苛酷な生活を強いられた人びとの真実の気持ちが吐露された作品もあり、文学であると同時に歴史を裏付ける記録としても貴重である。

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* 篠田左多江・山本岩夫共編著 『日系アメリカ文学雑誌研究ー日本語雑誌を中心にー』 (不二出版、1998年)からの転載。

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日系アメリカ文学雑誌研究: 日本語雑誌を中心に

望郷の総合雑誌 - 『ポストン文藝』 その5/8

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木内春波(貞勝)の「おもかげ」(45年7、8月号)は、初恋に破れて転落の人生を送った男が老人となって収容所の病院で死の床に横たわるとき、優しい看護婦に出あう。それはかつての恋人の娘だと分かるが、真実を明かさずに死んで行くという物語である。文章もしっかりしていて、物語の運びも手なれたものである。木内は当時40代、若い頃文学青年だったが仕事に追われてものを書く暇がなく、収容所でやっとその時間を与えられたという。「技師長」(44年10月号)は、変り者といわれた隣人の一世が行方不明になり、部落の人びとが捜索隊を組織して砂漠の中を探し回るが、ついに見つからなかった事件について書いたものである。たぶんこれは事実にもとづいたものであろう。老一世の中には絶望のあまり自殺したり、精神が不安定になり、柵の外へ出て行方不明になる者がどの収容所にも必ずいたようである。木内にはほかに多数の詩と自由律俳句の作品がある。

真澄丘と阿世賀紫海(阿世賀真澄)は同一人物で、ハートマウンテン収容所からの寄稿である(『ハートマウンテン文藝』解題参照)。4編の随筆はいずれも他人を理解し、何事も善意に解釈すれば世の中はもっと住みよくなるという教訓を盛り込んだものである。ほかにハートマウンテンでの生活を俳句で綴った「流転の生活」(44年8月号)および詩「旅の歌」(44年11月号)がある。

羽根政春は戦前サンノゼに住んでいた一世で、「A子の転住」(45年6月号)、「看護婦」(45年7月号)、「屈辱」(終刊号)の3編の小説を書いている。いずれも一世のもつ日本人の道徳観で二世やアメリカ人を批判的に見ている。彼は日本人こそ正しく、他のアメリカ人は不道徳であり、日本人は彼らの風俗・習慣を受け入れるべきではないという排他的な意見の持主である。したがって二世も「アメリカ」的にならないようにとの警告をこめてこれらの小説を書いたのであろう。

「屈辱」は、日本敗戦のニュースを聞いたとき一世が受けた打撃を赤裸々に記している。小説としているが、これは羽根の心情そのもであったにちがいない。彼はポストンに残っていたのだから忠誠を選んだはずである。しかし彼の心の底では日本の勝利を願っていたのである。この中で天皇の写真のことが語られるが、戦前は日本国内と同様日系人社会でも天皇の「御真影」を掲げていた家はめずらしくなかった。牧師が「御真影」を礼拝しなかったということで「不敬事件」に発展したこともあった。「屈辱」の中で、主人公は二世が合衆国の勝利を喜ぶのを見てにがにがしく思う。収容所では敗戦のニュースは錯綜し、一転して実は勝利だったなどと言う人も現れる。しかし娘が明日からお祝いで休日になると告げると、主人公は人目を避けながら机に泣き伏すのである。日本の敗戦を悲しみ、悔しく思う気持ちをこれほどはっきりと表した小説は他の収容所の出版物にも見られない。編集者はつねにWRAからの検閲に神経を尖らせていたが、これが終刊号という安心感から敢えてこれを掲載したのであろう。あるいはこの作品がポストンの多くのう一世の気持ちを代弁していたからかもしれない。

女性の作品は短詩形文学に多く小説などは少ないが、その中で久留島扶紗子(くるしま・ふさこ)は随筆、短編小説、詩を書き、43年5月号の表紙もデザインしている。『ポストン文藝』のほかに『ポストン新報第三ニュース』(第3館府)にも所内の手芸展や展覧会(絵画・彫刻など)の感想を載せている。扶紗子は20代後半の帰米二世で、「若き日」(44年4月号)は徴兵忌避のためFBIに拘束される帰米二世の兄と志願兵となる弟と母を描いた短編である。「ながれ」(45年3月号)はトゥーリレイクへ行く婚約者を捨て、日本に妻子のいる男を追って収容所からひとりでシカゴへ向かう女性を描いた佳作である。収容所を出て再転住をする日系人で満員の列車の中で、彼女は年寄りの一世の男たちが卑猥な話をするのを見て、アメリカ社会にそのような日本人がいることを恥しく思い、前の席に座った一世のおばさんが自分のことを詮索するのに辟易して、日本人は嫌だと思う。二世の観点から一世を批判的に見ている点、羽根政春の作品とは対照的である。

ほかにポストンの夏の風物を描いた「うづき日記」(43年5月号)収容所で人びとがいかに努力して好みの衣服を作ったかを述べた「着物に寄せる心」(43年7月号)や抒情的な詩がいくつかある。「着物に寄せる心」の中に出てくる「ドンケア」は一世のよく使う表現で、英語のdon’t careにあたる。「衣服にドンケアな人」は「着る物に無頓着な人」の意味である。彼女の夫久留島實雄も44年12月号の表紙の絵を描いている。

女性ではもうひとり一世の貴家志ま子(さすが・しまこ)が多くの随筆と短歌を載せている。志ま子は43年7月号、44年9月号、45年1、5月号の表紙の絵を担当している貴家璋造の妻である。彼女は「ポストン日記」「ポストン雑記」「ポストン生活印象」「ポストン生活」と題は変っているが収容所生活のあれこれを描いた随筆を合計で12回連載してる。それぞれに収容所の様子が詳細に記され、貴重な生活の記録である。

45年になってから編集に加わった重富初枝は、年配の人びとが多い文芸協会の中ではもっとも若く行動力があり、暑さをものともせずに原稿とりや配布に飛び回った。重富はカリフォルニア州ベイカースフィールドの生まれで、神戸市の松陰女学校専攻科を卒業後帰米、ロサンジェルスのウッドベリー・カレッジに在学中立退きになり、ポストン第1館府に送られた。彼女は絵が得意でカットを担当、45年8月号の表紙もデザインした。ほかにいくつかの随筆もあり、「雛鷹」(45年8月号)は鷹の雛を拾って大切に育て、それが成鳥になって大空にはばたくまでを愛情をこめて見守った記録である。殺伐とした収容所で人びとが小さな生命を育むことに慰めを見出していたことがわかり、ほほえましい。

その6>>

* 篠田左多江・山本岩夫共編著 『日系アメリカ文学雑誌研究ー日本語雑誌を中心にー』 (不二出版、1998年)からの転載。

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日系アメリカ文学雑誌研究: 日本語雑誌を中心に

望郷の総合雑誌 - 『ポストン文藝』 その4/8

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発行部数を完全に把握することはできないが、44年7月号が600部、1年後の45年7月号が1,000部という記録がある。多くの熱心な読者をもつ『鉄柵』でも発行部数は800部であったから、『ポストン文藝』の発行部数はかなり多い。制作費はWRAからの援助金のほか、所内のキャンティーン(売店)で20セント、外部へは送料を含めて25セントで販売された。「編集後記」には寄付金への謝辞が掲載されているので、熱心な支持者からの寄付もあったと思われる。

ポストンはトゥーリレイクとは異なり、志願兵となる者、再定住のため収容所を去る者など人びとがつねに移動した。ポストン文芸協会の人びともひとりまたひとりと去って行くが、『ポストン文藝』はこれら外部へ出た人からの寄稿によって支えられ、継続することができた。また、雑誌をもたなかったマンザナー収容所の人びとに作品発表の場を提供している。したがって掲載されたものは、ポストン収容所にとどまらず広く他の収容所や外部からの投稿記事を含んでいた。

『ポストン文藝』を支えた「ポストン歌会」は1945年8月26日に最後の歌会を開き、その3年にわたる活動の幕を閉じた。ポストンに残留したメンバーはわずか6名になっていた。『ポストン文藝』は戦争が終わった翌月その役目を終えて、9月号を最後に終刊となった。

3.『ポストン文藝』の内容

この雑誌は前述の通り、『若人』『怒濤』『鉄柵』などは異なった気軽に読める総合雑誌で、内容は多様である。身近なテーマの短編小説、侠客などを主人公とした大衆小説、随筆、日本の歴史、人物、文化の紹介、日本や英国の文学論、舞踊公演の解説や短評、詩、短歌、俳句、川柳、漫画まで掲載され、写真やカットも添えられている。

松原信雄は「巻頭言」のほか、44年8月号から短編小説や随筆を書いている。「流れゆく水」(44年8月号)、「幼き恋」(終刊号)はともに呼び寄せ青年の初恋から結婚にいたるまでのさまざまなできごとを書いた短編である。

和歌山の海辺の小学校高等科時代の初恋、恋人を争ったかつての級友との収容所での再会、すでに人妻となっている昔の恋人との収容所における再会など、彼の経験をふまえて書いたものであろう。いずれも初恋は実らないのだが、再会の後も子供もいる現在の家庭を大切にするという結末になっているところに松原の真面目な性格が表れている。随筆「ユートピア」(44年11月号)では子供との楽しい生活を、「静かな生活」(44年12月号)では妻に見守られて書物に親しむ生活を書いている。そのほか「保寿屯雑記」(45年2月号)、「塩湖市会議随行記」(45年4月号)などの収容所閉鎖に関する議論、4月末に行なわれた文芸協会主宰の山歩きの報告「山行記」および「山は呼ぶ」(45年5月号)がある。また収容所体験にもとづいた啓蒙記事「僕の雑記帳」が45年7月号から9月号まで連載されている。松原は小学校高等科までの教育しか受けていなかったが、ものごとを真面目に考え、それを文章できちんと表現する技術をもっている。彼は学校教育でなく読書によって多くの教養を身につけた努力家である。

有田百は戦前、カリフォルニア州サン・ファン・バティスタで日本語学校を経営し、自らも教えていた。戦争勃発の直後、ほかの日本語学校関係者と同様にFBI逮捕されてサンタフェ抑留所に拘束された後、ポストンへ送られた。彼は44年4月からほぼ毎号に書いているが、教育者らしく「教育管見」(44年7、8月号)、「家庭と児童」(45年2月号)など教育をテーマとした啓蒙的な記事が多い。「家庭と児童」では、収容所では健全な家庭生活を営むことができないため子供たちの教育がおろそかになり、日本人の長所が失われていくことを案じている。メスホールで食事をとると家庭の団欒が失われ、きちんとしたしつけをするのが難しい状態で、親にとっては深刻な問題であった。

有田の小説「太平洋」(44年12月号)は、真面目でゴルフに打ち込み妻を顧みない夫に不満を抱いた妻に若い恋人ができるが、夫は世間体を気にして妻を許さず、離婚するつもりで妻子を連れ、アメリカ生活を清算して帰国する。夫は日本へ着いて神々しい富士山を仰いだとき、新たな気分になって妻を許すことができ、ふたたび家族で生活をやり直そうと決心するというストーリーである。「白百合」(45年6、7月号)は女子大卒の才媛が年下の若者の熱心な求婚をしりぞけて、独身のまま日系人の子弟の教育に専念するという小説で、いずれも教訓的である。彼の作品からはいつも教育者の顔がのぞいている。松原、有田の作品は修身の教科書のようで、社会から脱落して行く人物は登場しない。たとえ一時は誤った考えに取りつかれても、最後には必ず正しい方向へ向かうというパターンである。松原、有田は「日本人はこうあるべき」という模範的な生き方を示そうとしたために、小説のおもしろさが失われてしまった。

一世の芳川積三は前述の2人とは異なるタイプの娯楽小説を書いている。「二世の悲恋」(44年9月号~11月号)は、二世の若者と恋におちた白人の娘が、日本人をジャップと蔑む親や周囲の理解を得られずついに自殺をするというストーリーで、戦前の日本語新聞にはこのような悲劇がいくつか報道されている。「開拓者」(45年1月号)は、第1次大戦前後に鉄道工事現場で働いていた日本人労働者が、親切な白人監督を燃えさかる山火事から救助する話である。「一世の気概」(44年7月号)も同様で、これら2編はパイオニアとしての一世がいかに勤勉で真面目、雇い主に忠実であったか強調する作品である。「佐渡甚三郎」(45年2月~3月号)は、浪曲などで有名な侠客清水次郎長の子分であった佐渡が渡米して日系社会で大親分になるという話。「松岡全権と博奕広」は、のちの外交官松岡洋右(まつおか・ようすけ)がオレゴン大学留学中に知り合った「広」と呼ばれる一世の博徒と、全権大使として渡米した際に再会する話である。芳川は文章や会話の入れ方もたくみで、義理人情をちりばめておもしろく読ませる技術をもっている。

その5>>

* 篠田左多江・山本岩夫共編著 『日系アメリカ文学雑誌研究ー日本語雑誌を中心にー』 (不二出版、1998年)からの転載。

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