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https://www.discovernikkei.org/ja/journal/2011/5/6/tessaku-4/

『鉄柵』 発展途上の帰米二世の文学 -その4/6

>>その3

編集者のひとり河合一夫は、樋江井良二のペンネームで書いている。彼はたいへんな文学青年で、岩波文庫をほとんど全巻揃えて収容所へ持ってきたほどの読書家だったという。

詩は「君が像を彫れり」(創刊号)、「鮭」(第2号)の2篇、長編小説「時代」を創刊号から第6号を除く第7号まで6回連載している。長編小説となっているが、一貫したストーリーはない。第5号までは、ひとりの青年と隣に住む人妻が姉と弟のような交際をするが、近所の人びとのうわさの種にされ、自分の純粋な気持ちが理解されずに苛立つ心の動きを描いている。しかし第7号から突然日記形式になって別の話に変わる。収容所と言う閉ざされた小さな世界で、若者たちが他人の目を気にしつつ、出会い、愛憎、別離を繰り返す日常を描きながら一貫性がなく、まとまっていないのが惜しまれる。

広小路敏雄の名で書いた河合のもうひとつの短編小説「出発前夜」(第3号)は、仮収容所で日本送還を希望し、転住所を経てトゥーリレイク隔離収容所へ移送される若者とその恋人の別れを描いている。若者は帰米二世で、日本に自分の将来を託す。恋人はともにトゥーリレイクへ行きたいが、合衆国に忠誠な父親に従わねばならない。恋人に心惹かれる若者は、トゥーリレイク行きをためらうが結局、決心して出発して行く。自分の信念と恋人の間で揺れ動く心を描いて、河合の作品のなかでは佳作である。

もうひとりの編集者野沢襄二は、ロサンジェルス生まれで東京の神田で育ち、1938年に帰米して高校を卒業した。父はロサンジェルスの日系新聞『羅府新報』に係わっていたため、襄二も文学に親しむ青年になった。彼は「勝安房の悩み」(創刊号)、「思慕」(第2号)、「自画像」(第5号)、「早春の夜」・「ひとり」(第9号)の5篇の詩のほか、短編小説「流される者」(第6号)、「志願兵の父」(第7号)、「禿鷹先生と私」(第8号)を書いている。このなかで「禿鷹先生と私」は創作となっているが、彼の中学時代の思い出を書いたと思われる。生意気盛りの生徒たちは担任教師に「禿鷹」というニックネームをつけて反抗やいたずらの限りをつくすが、教師が辞めたあとその存在の大きさを知り、彼の誠実さに気づくというストーリーである。野沢は収容所でさまざまな経験をするなかで、多感な少年時代の彼の心に刻まれた禿鷹先生を懐かしく思い出したのであろう。「流される者」は弟の目から見たアメリカ兵である兄の恋愛遍歴を、「志願兵の父」は3人息子を戦場に送り、戦死させてしまう老夫婦の苦悩を描いた小説である。いずれも日系人の苛酷な運命をテーマとして、読む者の胸に迫る作品である。

第8号から編集に参加した伊藤正は、収容所のさまざまな問題を取り上げて論じている。「裸の言葉」(創刊号)、「資格について」(第2号)、「投稿と編集」(第3号)、「労働雑感」(第4号)、「波止場にて」(第5号)、「愛憎録」(第6号)のほか第7号から第9号までの連載小説「メス争議」がある。伊藤はかなり多作である。ヒラリヴァー収容所でも『若人』に多くの作品を載せている。彼は鶴嶺湖男女青年団のメンバーであり、『怒濤』にも小説「この道を行く」を連載している。

彼は「波止場にて」のなかで自分が饒舌であると告白している。黙っていよう思っても自分のなかに湧き上がるものを抑えることができずに書いてしまうと述べているが、これら一連の作品のなかに、かつて合衆国兵士であったにもかかわらず、不忠誠となってトゥーリレイク行きを選んだ彼の苦しみがうかがえる。

伊藤は『若人』時代を除けば、ペンネームは使っていない。これもペンネームの下に隠れてではなく、偽らぬ自分を白日のもとに曝け出してものを書きたいという彼のまじめさの表れであろう。すべての作品は収容所の諸問題を真剣に論じたものである。

鶴嶺湖男女青年団の団員として『怒濤』の編集を担当していた藤田晃は、菅井良のペンネームで第7号から9号に小説「病院の人々」を連載している。入院した抑留者の父を見舞うため、トゥーリレイクからサンタフェ抑留所へと急ぐ息子の物語である。藤田自身はポストン収容所からトゥーリレイクへ来た。事実、藤田の父は逮捕されてサンタフェ抑留所へ送られていたので、この小説は藤田の経験そのものであろう。カリフォルニア州のトゥーリレイクからニューメキシコ州のサンタフェまでの旅の途中、白人の冷たいまなざしを感じたり、ホテルで宿泊を断られたりと、日本人であるがゆえに受ける差別や、収容所の職員、抑留所病院の職員たちのさまざまな対応、お互いに助け合う抑留者たちの優しさなどがきめ細かく描かれている。連載途中で『鉄柵』が終刊となり、完成を見なかったのは惜しまれる。のちにこれは1984年に出版された『立退きの季節』の最後の部分に挿入されている。

読みごたえのある短編を書いたのは水戸川光雄である。水戸川光雄は1919年生まれの帰米二世で、1937年にアメリカへ帰り、ヒラリヴァーを経てトゥーリレイクへ来ていた。彼の作品はすべて短編で、「蕎麦」(創刊号)、「コールクルー」(第2号)、「三週間」(第3号)、「反抗心」(第4号)、「赤い日傘」(第5号)、「沈黙の軽蔑」(第6号)がある。そのほか高井有象の名で詩「感傷」・「六月の窓辺」(第3号)を書いている。高井は本名である。

「蕎麦」は収容所で迎えた1943年の大晦日のひとこまを描いた作品である。所内にはブロックごとに食堂があったが、室内に備えられていた暖房用ストーヴを使って、自室で調理することも可能であった。材料は所内の売店や、通信販売で日本食料品店から買うことができた。四人の独身の帰米青年が年越し蕎麦をふるまわれて、それぞれが望郷の思いにかられる。収容所で迎える大晦日の淋しさが漂う短編である。

ほかに「三週間」、「赤い日傘」は収容所内での恋と別離を、「反抗心」は母のように慕っていた叔母が知らない男と同棲したことへの反抗をテーマとしており、いずれも若者の潔癖で一途な気持ちが描かれている。水戸川はその純粋な気持ちゆえに、市民である自分を収容所へ送った合衆国を許すことができず、次第に親日派の活動にのめりこむ。彼はトラブルメーカーのひとりと判断されて、1944年12月にサンタフェ抑留所へ送られてしまった。そのため彼の作品は第6号が最後となっている。

その5>>

* 篠田左多江・山本岩夫共編著 『日系アメリカ文学雑誌研究ー日本語雑誌を中心にー』 (不二出版、1998年)からの転載。

© 1998 Fuji Shippan

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このシリーズについて

日系日本語雑誌の多くは、戦中・戦後の混乱期に失われ、後継者が日本語を理解できずに廃棄されてしまいました。このコラムでは、名前のみで実物が見つからなかったため幻の雑誌といわれた『收穫』をはじめ、日本語雑誌であるがゆえに、アメリカ側の記録から欠落してしまった収容所の雑誌、戦後移住者も加わった文芸 誌など、日系アメリカ文学雑誌集成に収められた雑誌の解題を紹介します。

これらすべての貴重な文芸雑誌は図書館などにまとめて収蔵されているものではなく、個人所有のものをたずね歩いて拝借したもので、多くの日系文芸人のご協力のもとに完成しました。

*篠田左多江・山本岩夫 『日系アメリカ文学雑誌研究ー日本語雑誌を中心にー』 (不二出版、1998年)からの転載。

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執筆者について

東京家政大学人文学部教授。日本女子大学大学院修了。専門は、日系人の歴史・文学。おもな業績:共編著『日系アメリカ文学雑誌集成』、共著『南北アメリカの日系文化』(人文書院、2007)、共訳『日系人とグローバリゼーション』(人文書院、2006)、共訳『ユリ・コチヤマ回顧録』(彩流社、2010)ほか。

(2011年 2月更新)

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