>>その4
井阿之雨という変ったペンネームで書いているのは、戦後長い間ロサンジェルスの日系新聞『羅府新報』の編集長を勤めた帰米二世の矢野喜代士である。矢野の戦前のペンネームは創刊号で使っている丸山定夫であったが、収容所ではアメリカ人がYANOを発音するときの「イアノウ」を漢字にあてはめて井阿之雨としたのだという。
「終身教室」(第3・4号)、「ジャーナリズムに現はれた精神分析」(第6号)、「常識と文化」(第8号)、「直観について」(第8号)、および丸山の名で短編小説「智識人の責任」(創刊号)がある。このなかで「智識人の責任」は無責任なうわさがうわさを呼び、流言蜚語が飛び交う収容所で争いの仲裁をしたり相談にのったり、まとめ役をつとめているブロックマネジャーが主人公である。彼はそんな役目にすっかり嫌気がさして、仕事を投げ出して逃避したい気持ちにかられるが、最後には知識人として自分の役割を自覚するというストーリーである。面倒な問題には係わらないとして逃げてしまう収容所の知識人の覚醒を促す佳作である。
異色の存在は大山空夫および大山澄夫で、いずれも小谷真寿夫のペンネームである。小谷は細胞学専攻の生物学博士で、日系人学者として有名であった。大山の名で「パチンコと子供」(第6号)、大空の名で「科学思想二つ」(第8号)の2篇の随想がある。
市場美志恵は純二世としてはめずらしく日本語に堪能で、創刊号の「綴りかた教室」に吉屋信子の『花物語』の感想文を載せているほか、「風が吹いてくると」・「停電」(第4号)、「去年」(第6号)、「早春」・「風の日」(第8号)、「同情」(第9号)の6篇の詩を書いている。
桐田しづは加山文一夫人で短歌の作品が主であるが、ただひとつの随筆「たんぽぽの鉢植」(第7号)がある。マンザナーから来た桐田は、そこの自然がいかに美しかったか、収容者が努力をして花や木を植えたかを語り、それに比べるとトゥーリレイクがいかに自然の美しさの乏しい所であるかを述べている。彼女は、たんぽぽを鉢植えにして楽しむ。普通なら踏みつけて平気でいるようなありふれた野の花だが、殺伐とした環境におかれて初めて、彼女はたんぽぽの美しさやそれをいとおしむ心を知ったという。桐田の優しさが感じられる味わいの深い佳作である。
千代田学はのちに『カリフォルニア州強制収容所』を著した白井昇のペンネームである。白井は1907年に広島県で生まれ、広島高等師範学校を卒業した。1934年に渡米して、カラマズー大学を卒業、さらにスタンフォード大学大学院を修了した。
彼は「深夜私囁」(第4号、第6号)と題して2回にわたり、収容所内部の問題を提起している。白井は特に日本精神という名のもとに個性を失って考えることを放棄し、集団行動のなかに取り込まれていく若者やトラブルに巻き込まれたくない一心で、無関心、逃避を決め込む知識人などを案じている。彼自身は一世であるが、日本の軍国主義を賛美するのではなく、距離を保って状況を冷静にとらえている。エリートらしく理路整然とした評論である。
そのほか「下駄」(創刊号)の咲春枝は、カリフォルニア出身の帰米二世で、戦前は『加州毎日』新聞に寄稿していた。詩「母のをしへ」(第6号)、「心のふるさと」(第7号)の白井園子は広島県で教育を受けた帰米二世である。「母の行路」(第6号)の谷ユリ子は本名を板谷幸子という帰米二世である。
『鉄柵』に書いている人びとがすべて不忠誠であったわけではない。トゥーリレイク以外の収容所などから寄稿している人もわずかながら存在する。「父も引っぱられた」(第2号)を書いている谷崎不二夫は、熊本県出身の帰米二世で、3人の編集者の高校の同級生である。彼は忠誠を表明してマンザナー収容所にいたが、のちに陸軍情報兵としてインドで対日工作を行った。この作品はマンザナーからの寄稿である。
雪村圭三は山城正雄の弟だが、兄とは別の道を選択して忠誠を表明し、志願兵として従軍した。詩「海辺」(第6号)はオーストラリアの戦場から送られた。その点でこの詩は『鉄柵』のなかでも特殊である。しかし内容は普遍的で、誰もがもつ懐かしい心の故里への望郷の思いを表現した詩と理解することができる。しかし、帰米二世の志願兵である雪村が「故国」というとき、アメリカなのかそれとも幼い日々を過ごした沖縄なのか、それはわからない。素朴な詩のなかに帰米二世の苦悩が読み取れる。
外川明は1903年に山梨県で生まれた呼び寄せ一世で、戦前から詩を書いていた。彼は忠誠を表明してポストン収容所にいたが、創刊号に「偉さと云ふこと」という随想を寄せている。ポストン収容所では『ポストン文藝』が発行され、外川も参加していたが、収容所の間で文芸誌の交換が行われ、お互いに作品の交流があったことがわかる。
短詩型文学の分野では短歌と俳句が掲載されている。短歌の中心的存在は1887年生まれの一世歌人・泊良彦で、「高原短歌会」を組織して指導にあたっていた。このグループにはトゥーリレイクだけでなくすべての収容所の人びとが加わっており、郵送された歌を泊が選んで掲載した。トゥーリレイクでは泊の主宰する短歌誌『高原』が発行されていたので、『鉄柵』に発表された短歌の歌はあまり多くない。俳句はトゥーリレイク全体で4つのグループがあったが、『鉄柵』には一世の森山一空を中心とした「鮑ヶ丘俳句会」、伊奈いたるの指導する「鶴嶺湖吟社」が作品を載せている。他の収容所の雑誌と比較すると俳句の数が少ない。
子供たちの作文は文章がしっかりと書けていていずれも優等生の作文らしい。「私の菜園」・「私のすきな鳥」(第5号)のように収容所の生活のなかに見出した小さな楽しみや「イサム」・「さんぱつ」(第9号)のように生活のひとこまをほほえましく描いたものが多い。一方、「僕の犬」(第4号)、「犬の思い出」(第5号)は家族の一員であった可愛い犬を手放さなければならなかったつらい気持ちを書いたもので、読む者の胸が痛む。立退きに際して人びとは、飼っていた動物を連れて行くことは許されなかった。多くの人は泣く泣く動物を処分するか、知人に預けるかを選択した。これらの作文は強制収容という経験が幼い子供たちの心をいかに傷つけたかを教えてくれる。
* 篠田左多江・山本岩夫共編著 『日系アメリカ文学雑誌研究ー日本語雑誌を中心にー』 (不二出版、1998年)からの転載。
© 1998 Fuji Shippan