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日系アメリカ文学雑誌研究: 日本語雑誌を中心に

『鉄柵』 発展途上の帰米二世の文学 -その3/6

>>その2

3.『鉄柵』の内容

他の収容所の出版物と比べると、『鉄柵』には小説が多く掲載されている。その小説は圧倒的に短編だが、3篇の連載長編小説もある。このほかに随筆、評論、詩と短歌・俳句などの短詩型文学が配置されているが、川柳は掲載されていない。編集者はあくまでも「文学」にこだわり、文学的水準の高い作品を望んだ。編集者のひとりはのちに、同じ収容所で発行された『怒濤』との相違点は作品の質の高さだったと筆者に語っている。さまざまな作品が持ち込まれたが、質の低いものは掲載せず、そのために人びとの間で感情的摩擦を生じたことも度々あったらしい。

作品の質を問題にする一方で、日本語学校の生徒の作文も掲載されている。創刊号、第2号、第5号、第6号、第9号には「綴り方教室」または「作文」というページが設けられて、小学校低学年から中等科までの生徒の作文が載っている。これは一見、文学作品に限るという編集方針と矛盾するようであるが、二世の日本語学習を奨励するという重要な意味があった。たとえば山城正雄が一時期、所内の国民学校長をつとめたように同人の中には日本語教育にたずさわっていた者も多く、生徒の作文を読む機会があり、彼らが日本で暮らす将来を思えば日本語作文は重要であるという理由から掲載された。

リーダーである加川文一は創刊号から9号まですべてに作品を載せている。加川の詩は、「鉄柵」・「砂塵」(創刊号)、「鉄柵」(第2号)、「廃園の像」(第3号)、「風景の弓」(第4号)、「あした」・「高原の日」(第6号)、「朝焼」・「雁」・「暴徒」(第7号)、「祖国よ」(第8号)、「空腹」・「闇を破るもの」(第9号)と全部で13篇を数える。その他先に述べた「発刊の辞」(創刊号)のほか随筆が4篇、詩論が1篇ある。

加川が毎号に複数の作品を発表していたことから、彼が同人の育成に並々ならぬ情熱を傾けていたことがわかる。加川はこれらの作品のなかで、詩とはなにか、創作とはいかなることかを示して『鉄柵』同人を啓蒙すると同時に、いかに生きるべきかを示唆している。例をあげると「写生」(第5号)のなかで、彼は文学手法のひとつとして「写生」をとりあげ、「全人間的に生きんとする私たちの血と肉を私たちの写生に通わせた時はじめて写生は生きてくる」のであるから、「文芸家は文芸家として人生を写生する前に先づ人として生き、人としての経験の撓みに耐えなければならぬ」と述べている。同じ「鉄柵」と題する2篇の詩のなかでも「柵を出づる日は/たじろかざる汝のうちにあり/その日きたるまで/空虚なることばを吐きて/また己れを吐きすつることなかれ」(創刊号)、「たれにゆだねんゆめにしあらず/ひと日ひと日をおのれのものとはせよ」(第2号)と書いて、収容所の日々を無為に過ごさないようにと戒めている。彼は青年たちが真摯な人生を送り、その人生を反映した作品を生むことを望んだ。

しかし、結果は彼の期待通りにはならなかった。加川が期待していたような詩人は育たなかった。第9号の詩「闇を破るもの」が、彼の落胆の気持ちを表わしている。「にはとりは哀し/人は足もとに汝を飼えど/汝のうたに紅く焼くる/天を捕へ得ず」と彼が詠うとき、「にはとり」は『鉄柵』同人の象徴であるという。この詩から、加川が一向に向上しない同人の作品に苛立ちを感じていたのだと、のちに同人のひとりが筆者に語った。

編集を担当した3人の帰米二世のなかで、山城正雄はもっとも多くの作品を載せている。山城は1916年にハワイ州(当時は準州)カワイ島で生まれた。1924年から32年まで両親の故郷沖縄県で教育を受けてハワイへ戻り、36年から開戦までロサンジェルスで暮らした。

山城の作品は、詩、評論、随筆、短編小説と多岐にわたっている。詩には「徴兵」(第2号)、「火影」(第3号)、「たそがれ」(第4号)、「底火」(第6号)があり、短編小説には「転住所」(第2号)、「木の節」(第6号)がある。山城は先住民モドック族(本文ではモダック)と合衆国軍が闘ったトゥーリレイク周辺の歴史に興味をもち、歴史物語にして人びとに知らせようとして資料を探した。その過程を書いたものが「史実を訪ねて」(第3号)、収容所内で入手できる乏しい資料を使って書いた物語が「ツルレーキ物語」(第4・5号)である。山城は、収容所の彼方に聳えるキャプテンジャックの砦を毎日眺めているうちに、ジャックの生涯を知りたくなったのであろうか。合衆国軍と戦った結果、捕らえられて1873年10月に死刑になったモドック族長の生涯がこの物語のテーマである。山城は一族の行く末を案じつつ、族長として誇り高く死んだジャックの生涯を先住民への同情をこめて描いている。彼は合衆国に抵抗するジャックの姿と、不忠誠になって収容されている日系人の運命を重ね合わせたのかもしれない。

山城の現実を見つめる鋭い目は、このころから養われたものであろう。「キャンプ雑感」(創刊号)、「脱皮の期間」(第8号)、坂本というペンネームで書かれた「文化寸評」(第3号)などの評論に彼の才気が発揮されている。「キャンプ雑感」は彼が収容されたサンタ・アニタ仮収容所およびグラナダ収容所の生活をおもしろおかしく観察したものである。サンタ・アニタは競馬場を改造した収容所で、臭気ただよう厩舎に起居するのはどんなに辛い毎日だったか想像に難くない。人びとは住みよくするために工夫をこらした。それぞれの個性を生かした表札をかかげ、家具や部屋の仕切り(パテーション)を作ったりした暮らしぶりがよくわかる。彼の本領は小説よりもむしろ評論にあるといえよう。

小説は2篇のみである。いずれも収容所の生活がテーマで、「転住所」は彼が経験したグラナダ収容所での生活を描いている。家具を作るために板きれを盗み出す人びと、外部の農園労働者の募集に応じて出て行く人びと、ひそかに思いを寄せる女性を家に招待して断られ、用意したご馳走を独身者同士で淋しく食べる話などいくつかのエピソードを織り混ぜているが、あまりにもいろいろなことを一度に書こうとしたため多少冗漫に流れている。しかし文章力、描写は優れている。「木の節」は好きな女性の誕生日に木の節を包装して贈った若者と、相手の女性の心の交流を淡々と描いた小説で、主人公の帰米二世は生まじめで理屈が勝っており、若い頃の山城を髣髴とさせる。前作よりも完成度の高い作品である。

その4>>

* 篠田左多江・山本岩夫共編著 『日系アメリカ文学雑誌研究ー日本語雑誌を中心にー』 (不二出版、1998年)からの転載。

© 1998 Fuji Shippan

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このシリーズについて

日系日本語雑誌の多くは、戦中・戦後の混乱期に失われ、後継者が日本語を理解できずに廃棄されてしまいました。このコラムでは、名前のみで実物が見つからなかったため幻の雑誌といわれた『收穫』をはじめ、日本語雑誌であるがゆえに、アメリカ側の記録から欠落してしまった収容所の雑誌、戦後移住者も加わった文芸 誌など、日系アメリカ文学雑誌集成に収められた雑誌の解題を紹介します。

これらすべての貴重な文芸雑誌は図書館などにまとめて収蔵されているものではなく、個人所有のものをたずね歩いて拝借したもので、多くの日系文芸人のご協力のもとに完成しました。

*篠田左多江・山本岩夫 『日系アメリカ文学雑誌研究ー日本語雑誌を中心にー』 (不二出版、1998年)からの転載。